出会い
赤いレンガは銀に色を変え、集落の周りにある田んぼや畑も染められている。
雪が積もっていた。
一切の汚れを持たない雪は街に銀世界を作り出し、ちらちらと降る雪は街の汚れを真っ白に塗り替える。音すら吸収してしまう白と灰色の天地は幻想的で、全ての存在を曖昧に見せる。
集落の中、煉瓦の家々と土が舗装されただけの簡素な道路の上に一人の少年がいた。
道路の上で壁に寄りかかり、両手で両足を丸めて抱え込むようにして座っている。空を見上げているが、長く伸びたぼさぼさの乱れた髪に隠れて傍から目を見ることはできない。ときに風が吹き、髪が上がって瞳が見え隠れするがその色はどこか濁っている。
冬だというのに裸足で、白いティーシャツと黒い短パン姿の彼はどこもかしこも汚れている。ずいぶんと長い間着替えていないことがうかがえた。泥がこびりついた細い足を抱える細い腕、その右腕には重く、冷たい灰色の鉄の錠が掛けられてあった。少年の細い腕にしっかりとはめられてあり、抜け出すことはできない。
道行く人々はその醜い汚れた少年を空気のように扱う。大抵の人が見向きもせず先を急ぐだけで、少年のことは見向きもしない。時折、目を向ける人の顔は怒りや憎悪などといった色を帯びていた。また、ごくたまに少年に近づいてくるものもいる。近づくや否や、少年の小さな脇腹や頭などを笑いながら蹴ってどこかへ行ってしまう。少年もそれが当たり前の事の様に小さな体を起こして壁に寄りかかり、どこへも向けない視線を上げる。
彼の名前はない。誰も知らないし、少年自身知らない。
名前はない。家もない。家族はいない。友達もいない。服もない。お金も持っていない。
あるのは嫌われた視線と容赦のない暴力と吹き付ける冷たい風だけ。
それに反論する言葉も、防ぐ力も、避ける居場所もない。
少年には何もない。
記憶のある時から少年は当たり前のようにそこに居た。
そして彼への周囲の行動は、この世の最も嫌われたものへ向けるソレばかりだった。
少年は何も知らないのに、無慈悲な暴力を受け続けた。そして、これからも。
そのようなことは最早少年にとって当たり前の事だ。
少年は何も知らない。
悲しい事など何もない。
それが当たり前なのだから。
何が悲しいなんて知らない。
少年はそうやって毎日を過ごしていった。
ただ毎日道の向こうで紅の光が地平線の向こうへ沈んで、茜色に染まった少しぼやけた景色だけが少年の心を温めてくれた。
だけど、今あるのは灰色の空と、真っ白の冷たい雪。
少年を温めるものは、何もない。
◆◇◆◇◆◇
「もう……疲れた」
太陽の光を遮った灰色の空の下で少女は一人、そうつぶやいた。
誰かが私を追いかける。誰かが私を捕らえようとする。捕まった後の私の行きつく先なんて分かりきっている。
少女はたくさんの力を与えられた。でも与えられたもの以上に奪われたものもあった。
味気など全くなく、幼い少女には価値なんて無いに等しい無駄を与えられて、「与えたのだから」と他人は少女から奪って行った。生まれた時からその繰り返し。いい加減こんな生活にも慣れるだろうと心のどこかで少女は思っていた。いや願っていたのかもしれない。慣れれば辛さも苦しさも和らぐと思ったから。しかし、その考えが間違いだと気が付くのにはそれほど時間はかからなかった。
「嫌だ」
ある日、彼女はそうつぶやくと、すぐさま行動に移した。
それまでいた場所を逃げ出し、走り、隠れ、追っ手の目をかいくぐり、少女はここまでやって来た。
それまでいた場所を飛び出したはいいが、その後の行動なんて考えてもいなかった。
ただ少女は逃げたかったのだ。
走りつかれた足を止め、少女は立ち止まり空を見上げる。
いつの間にか、空から柔らかな光が差していた。細く伸びた光はゆっくりと広がり、雲を押しのけていった。
少女の着ている服では冬の冷たい気温から体温を守ることなど無理なことだ。それでも青く雲一つない晴れた空は、少女の顔を柔らかくした。
見たことのない景色。
感じたとのない気持ち。
差すような冷たさを持つ空気も、追っ手から逃げてきた辛さも、今までの日々もきれいに忘れさせてくれた。
「私は……」
少女は澄んだ空を見上げる。
軽く息を吸って、綺麗な青空に向かって大声で叫ぶ。
「自由だ」
咎める人などだれもいない。積もった雪を踏みしめて、廃墟となった道をずんずんと進む。足跡は降る雪がすぐに上塗りしてくれる。
ほしかった自由を手に入れた。だけど、今はそれを喜ぶよりも先に寒さが頭にあった。
寒い。少しなら耐えられるが、せめて屋根のある所に行きたい。
すると、視界の端に壁に寄りかかって座る一人の少年を見つけた。いつもの彼女ならそのまま通り過ぎるだろうが、少年の格好に興味をひかれた。
雪の積もる季節にTシャツと短パンだけなのだ。
ほんの気まぐれ。理由のない、ただ気分が向いただけ。
「君は一人なの?」
自分に話しかけられたことなど知らずに少年は俯いたままだ。
「君、どうして一人なの?」
ようやく自分に話しかける声が聞こえたのか、少年はゆっくりと顔を上げて声の主を見る。
少年と同じくらいの歳の女の子だった。
薄汚いみすぼらしい服を身にまとい、足には金属製の枷が付いていて短い鎖を引いている。
少年がつけているのと同じような、冷たく重々しい鎖だった。
少女は鎖が付いていることなど気にもしない足取りで少年に近寄り、話しかける。
「私と同じ……?」
裏に何かが隠されているような言葉だったが、少年にはそれを察する気などなかった。
少女が何を言いたかったのかは分からない。
「っ……!」
少女があと二メートルほど迫ってから少年は初めて少女に対して反応を見せた。
背にした壁から離れ、近付いただけ後ずさる。それは明らかに拒絶の反応だった。
少し震える体と少女から距離を取ろうとする足。何かこの世の終わりをもたらすものを見たような表情をしていた。
「大丈夫。何も怖くないよ」
震える少年に向かってゆっくりと歩みながら少女は言う。
「ねえ、『ともだち』になろうよ」
その言葉から同情やからかいと言った感情はなかった。少年も彼女が真面目にその言葉を言っているのだとは分かった。わかっていたけど。
静かに、ゆっくりと少年は何かを振り切るかのようにその首を横に振った。
少年は心のどこかで感じ取っていたのかもしれない。ともだち、というのが何かは分かった。
石畳の冷たい感触が和らぐような温かいものなのかもしれないという事もなんとなく感じ取れた。
しかし、少年は怖かった。今まで少年が体験したことのない温もりだからこそ、それを失うとき……別れが怖かった。
心が今以上に深く切り裂かれるならば、このままの方がいいと思っていた。
そう、だから少年には少女の優しさが……友達になろうという言葉が自分を今まで以上に傷付けるのではないかと……ただ、怖かったのだ。
少女は少年の様子に気が付いたのか歩を止めて再び少年に話しかける。
「何も……怖くないよ」
少女の口調はいつまでも穏やかで、恐怖で埋まっている少年の心にすっと届いた。
それでも不安は拭いきれない。
少女は止めていた足を再び進める。そして少年はそれに合わせるように後ずさっていく。
「ねえ、私と友達になって」
聞きなれない単語は少年の心に響き……動きが止まった。
何を考えていたのかは分からない。ただ少女が言った『友達』という言葉が少年にはなぜか謎めいた、宝箱のある迷宮の前に立たされるような気持ちにさせた。
気が付けば、それまで冷たい空気と硬いレンガや石畳しか知らなかった少年の手は
「今日から私たちは友達だね」
柔らかくて、少年の手より少しばかり小さい温もりの中にあった。
少女は少年の手を握りながらにへっととてもうれしそうな顔をした。
少年は黙って差し出された手を見つめる。顔を上げると歯を見せて笑う少女のがいた。今まで縁のなかった幸せそうな顔に少々困惑するも、初めて出会った少女の言葉と笑顔を見ると首が自然と縦に動いた。
さっきまでそこにあった不安はコンクリートの上の砂のように、どこかに消えていた。
今まで知らなかったそれは宝箱のようで、少年の心の中をぐるぐる回り、やがて一つの感情へと落ち着き少年を包み込んでいった。
今まで全然感じたことのない気持ちだった。
「ぁ……」
短く小さくて今にも消え入りそうな、それこそ言った少年自身も聞き取れないような言葉。それは、今の少年の心の中を占める本当の気持ちだった。
何も知らない、何も持っていなかった少年は『友達』と『気持ち』を知った。
少女は、今まで思い欲していた『友達』を、やっと小さな体にその感覚をにじみこませた。
二人の手と、足につながる鎖がほんの微かに軽くなったことを二人は気が付いただろうか。