オーロラカーテン
どこまでが本当で、どこまでか嘘なのか。作為的に恣意的に描写を取捨しています。
――僕が、「へんなものが見える」と言うと、母は笑った。
「どう? 見える?」
そう聞かれて聡は首を振った。
「そっか」
悲しげに、残念そうに、されど少しほっとしたように、理香がほっと息を吐く。そんな彼女の様子を、聡は無言で眺めて、やがて視線を逸らした。
「見えなくなったなら、よかったじゃない。まあ、ちょっとさみしいかもだけど」
「……」
「ダメなの?」
「……わからない」
見えるはずのないものが、見えた。それが見えなくなっただけ。“ふつう”のひとと同じになったはずなのに。
見たくないと、見えなくなってしまえと思っていたものが、不意に見えなくなった。だから、きっと本当は喜ばしいことのはずであった。
けれど、聡が感じていたのは、喜びでも安堵でもなく、不安だった。
聡は幼い頃から、へんなものが見えた。
それが、幽霊だとか、妖怪だとか、そういうものだったのなら、少しは違ったのかもしれないと、聡は思っていた。
幽霊や妖怪は、昔話、アニメ、ゲームなど、さまざまな物語の中で、それはもはや一つのジャンルとして確立しているといえる。
聡自身も、そういったものをよく目にしたし、どちらかといえばそういう不可思議なものが好きだった。
実際に存在するかどうかは抜きにして、そういった類の概念は人々の中に浸透している。
だから、自分の見えるものが、幽霊や妖怪だったら、もう少しマシだったかもしれない。そういうものだと、いわゆる「見える」人間なのだと、割り切り受け入れられたかもしれない。
けれど、聡が見えるものは、幽霊や妖怪ではなかった。
聡が初めて「それら」を目にしたのは、とても幼い頃に誰かが亡くなり、その人のお葬式に母に連れられて参列したあとのことだった。
ある日、聡は今まで見えなかったものが、突然見えるようになった。
初めて見たのは、丸い、兎のしっぽのようなものだった。
色は兎のように真っ白いものもあれば、黄色だったり、空のような青色だったり、血の色のような濃い赤色だったり、濁った沼のような鉛色だったり、どす黒い闇色だったり、様々だった。
兎のようにふわふわもふもふだったのかは分からない。聡は見えるだけで、触れなかったからだ。
宙を優雅に浮遊するそれを、幼い聡は一生懸命に掴もうと、触れようと、手を伸ばしたけれど、それはいつだって擦り抜けた。聡の手はいつも空を切るだけだった。
これが幽霊なら、やはり夜の暗い場所で出没したのかもしれないが、それが見えたのはいつも日中明るい時だった。
それが何なのか、聡には分からなかった。分からないことがあると、好奇心旺盛な幼い聡は何で何でと母に何でも尋ねた。
――おかあさん、あれなあに? なんだかふしぎなものが、みえるんだ。
母には見えなかったそれは、無論母には理解できず。
――へんなもの? そんなものないわ。どうして嘘を吐くの?
無邪気に笑う母に、聡は驚いた。どうして、何故? 母は嘘をついているのだろうか。母には本当に見えないのだろうか。自分は、嘘なんて吐いてはいないのに。嘘吐きなんかじゃないのに。それは、確かにそこに「ある」のに。
それから、何度も何度も、母に、父に、友達に、幼稚園の先生に、たくさんの人に尋ねたが、見える人は誰一人いなかった。それどころか、「嘘吐き」だと言われて、笑われた。
聡は、いつしか尋ねることをやめた。
聡が見えた不思議なものは、兎のしっぽモドキだけではなかった。半透明のミミズのようなものが、聡の目の前をうねうねとたゆたっていたこともあったし、綺麗な石のようなものがそこら中に浮いていたり、小雨のようなものが目の前を下降していったり。
それは、さまざまだった。
そして、その中にひとつ、聡にとって恐ろしく特異なものがあった。
「カーテン?」
「……うん。ちいさいやつ」
「小窓につけるような?」
「そういうの」
決して同じものが見えたわけではない。しかし、隣の席の中川理香だけは、聡の見えるものを唯一信じてくれた。
理香曰く、「ふしぎなものが大好きなの!」なのだそうだ。
それはただの好奇心であったかもしれない。けれど、聡には理香が笑わずに自分の話を聞いてくれたことが、ただうれしかったのだ。
いつしか、聡は自分の見えるものを、理香にだけは話すようになっていた。
「うすーい透明の布みたいな、カーテン」
「あ、花嫁さんのヴェールみたいな?」
「うん、たぶん」
いつから、だったのか。
それを思い出しながら、聡はとても怖くなっていた。
「人の上に、カーテンがかかっているように見えるんだ……オーロラみたいで、きれいなんだけど……でも、なんか」
「こわいの?」
「……うん。なんか、今までとはちがう。アレは、」
とても不気味で、直感的に聡はこわいと思っていた。何故だろう。兎のしっぽモドキが見えたときは、なんだかうれしくて、触ってみたくて仕方なかったというのに。 アレだけは、どのへんなものより、怖い、恐ろしいものだ、と。
怯える聡を不思議そうな目で見ている隣の理香の顔が、だんだんに曇っていく。
聡の視線の先ではいつものように、透明なカーテンがゆらゆらと揺れていた。
「アレは……きっと、見えてはいけないものなんだ」
そう、はっきりと言葉にした。はっきりと、そう思った。だから、もう見たくない。見えてほしくない。せめて、アレだけは。もう二度と見たくないものだ。オーロラカーテンに対してだけ、聡は今までになく強い拒絶と恐怖を抱いた。
しかし、それは、ある日突然見えなくなった。
――おかあさん、あのね。
母が自分を見下ろしている。少し鋭い視線に思わず口ごもる。どうしよう、どうしよう、怖い。怯えている場合じゃない。迷っている時間なんかない。
震える唇で紡いだ聡の言葉を、母はやはり笑っていた。
――おかあさん、病院に行って……お願い。
――またその話なの? いい加減にしなさい! 最近はへんなことを言わなくなったと思ったら、今度は病院に行け? 今度はそういう方向にしたの?
――お願い! 聞いて、聞いてよ。うそじゃない、うそなんかじゃないんだ!
――そういってあなたはいつも変なことばかり!
――ぼくは、『きょげんへき』なんかじゃ、ない!! ないんだ……。
――……どうして、そうお母さんを困らせるの。ねえ、もうやめて?
――やめない! ぼくは、諦めたくないっ!!!
強い言葉に母は驚く。何を、言っているのだろうか、この子は。いつもいつも嘘ばかり、へんなことばかり言って。あれほどへんなことを言うなと、きつく言い聞かせたのに、なぜ今更再び。
――お願い、はやく。……紫になる前に。
幼い頃、聡はお葬式に行ったことがある。亡くなったのは、親戚のおじさんだった。彼が亡くなる寸前、聡がお見舞いに行ったとき、ある言葉をもらしたことがある。
――紫色のカーテンがずっと目の前でちらついていって、離れやしない。ずっと、そこにあるんだ。
おじさんは、何もない眼前を見つめながら、震える指でそれに触れようとしていた。とても恐ろしく、どこか神聖でさえあるその光景は、幼い聡の目に焼き付いた。ずっと、その記憶が剥がれずにいた。
そして、その次の週に彼は突然容体が悪化して亡くなった。
幼い聡には、お葬式というものがなんだかとてもへんなものに思えた。
みんな、泣いていた。おじさんが亡くなったあと、聡は思った。そして、彼のように手を伸ばすことになるのだろうか、と。
おじさんは、果たして紫のカーテンを掴めたのだろうか。
分からない。聡には分からなかった。
あの時聞いたおじさんの言葉は、誰にも言ったことはない。
しかし、変化は突然に訪れた。お葬式から少しして、聡には不思議なものが見えるようになった。
その中には、おじさんが言っていたようなカーテンもあった。ただ、聡に見えたのは紫色ではなく、透明のものだったが。
聡は、それがひどく恐ろしかった。
「へんなものが見える」というと、母は鼻を鳴らして笑った。嘘だと思われた。
――おかあさんが、ぼくはうそつきだという。悲しい顔で、そういう。
きっと、これは見えてはいけないものなのだ。見えるべきものではないのだ。それは、聡にだってなんとなくは解っていた。
だけど、信じてもらえなかったことが悲しかったし、受け入れてくれなかったことが寂しかった。母と“ちがう”ことが悲しくて、自分が“へん”であることが寂しかった。
誰に言っても信じてなんかくれない。決して理解はしてくれない。だからもう、口を閉ざすしかなかった。言っても、むだになるのならば。
むしろ、きっとそうであるべきなのだ。見えるべきではない。これは、見てはいけないものなのだ。決して、誰にも言ってはいけない。
たとえそれが紫になりかけていても、見えないものは理解できないものは、きっと彼らにとってそれは意味のないものなのだ。
それに、たとえ見えたとしても、伝えられたとしても、それはもう染まり始めた時点で、もうどうしようもないことなのだった。
聡はもう割り切る他なかった。
理香は「きっと何か意味があるんだよ」と肯定的に見ていたが、聡はそうは思えなかった。なんて不吉で、恐ろしいものだと、いつも恐怖していた。なんて、恐ろしいものなのだろう。これは絶対に、見たくないものだ。見えるべきではないもの。
毎日、自分のカーテンが紫ではないことに、どれほど聡が安堵していることなど理香は知らないのだ。そして同時に、目の前のそれが、だんだんに紫へと染まりゆくその恐ろしさも、理香には見えるはずがないのだ。
「ねえ、聡」
「なに、理香」
「本当に、本当にもう見えなくなったの?」
「……見えない」
理香がくすりと笑う。それはとても美しく、花のように可憐な笑みだった。目を細めて、彼女が笑う。聡は、冷や汗が流れた。背筋が冷たく張りつめたようで、怖かった。
見えるはずが、ない。見たくない。見たくない。どうして、どうして。それなのに。
「うそつき」
――僕は、嘘吐きなんかじゃない。
何度も思った言葉が口をついて出そうだった。恐ろしい、恐ろしい。とても、こわい。聡は、恐怖と不安で震えて震えて仕方なかった。大量の冷や汗が背筋を伝う。何かを言い返したくてたまらないのに、唇は震えたまま、言葉なんて紡ぎ出してはくれない。
何故、それが見えてしまうのだろう。何の意味があるというのだろう。何度も、何度も、絶望の色に染まりゆくオーロラを目にすることに一体何の意味があるのだろう。
僕は、うそつきじゃない。僕は、おかしくなんかない。
頭の中でそういって何度も否定してきた。でも、もう分からなくなっていた。何故自分にはこんなものが見えるのか。どうして他人には見えないものが見えるのか。
聡は、自分がうそつきなのか、うそつきじゃないのか、自分ではもう分からなくなっていた。
「――……こんなにきれいな紫なのに、ね?」
泣きそうな顔で言う理香の言葉が、聡は悲しくて、寂しくて。思いがけずこぼれた一粒の涙が、理香の指先に触れて溶けるように消えていった。何度も、見送った。何度も生と死を別つ紫のオーロラを目にしてきた。
もはや、自分のものがまだ透明なのか確信すら持てない。見ているものが、あまりに不確かで。
――おかしくなっているのは、僕の視界か、それとも頭か。
「でも、やっと私、聡のことを本当の意味で解ってあげられたわ」
鮮やかな微笑みは、花のように美しくて、儚かった。
まるで花嫁のヴェールのように、理香の目の前で揺れている紫のオーロラカーテンは、可憐なバラの花びらのように幾重にも連なりながら、どうしようもない現実を別っている。