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『今宵は初夜ということになりますわね、ルージュ様』
「あいつがあんなことを言うから……!」
ルージュはメイの言葉を思い出し、プリプリ怒りながら忌々しく毒づく。お陰で変に緊張してしまい、何をしていてもソワソワして落ち着かなかった。時計を見ると、ノアールが部屋を出て行ってから既に二時間が経とうとしている。いつもの就寝時間をとうに過ぎているのを見て、ルージュは椅子から立ち上がった。
「きょ……今日は来ないのかもしれないな」
何か用事でも出来て来られなくなったのかもしれない。遅い時は先に寝ていてもいいと言ったのはノアールである。ルージュはゴホンと小さく咳払いすると、廊下に続く扉に視線を向けながら「さて」と言った。
「そろそろ寝るかな」
もちろんルージュの声に答える者は無く、扉が開く気配もない。
「寝るぞー、寝ちゃうぞー、いいのかー、お前が遅いのが悪いんだぞー」
ルージュは扉を見詰めながら一歩一歩『カニ歩き』で寝室の前まで行くと、「本当に先に寝ちまうからなー」と言ってドアノブを掴んだ。カチャッとドアを開けて中を覗きこんだ途端、ルージュは「うわッ」と叫んで硬直する。灯りを落とした室内は真っ暗で、ベッド脇にあるスタンドのほの赤い光を受けて天蓋付きの大きなベッドが艶めかしく浮かび上がっていた。
「なんだ、このムードたっぷりの部屋は……!」
唖然として呟いたルージュは、その枕元を見て赤くなる。そこには大きな枕が二つ、仲良く寄り添うようにして並べられていた。
「やばいやばい、やばいって……!」
ルージュは大慌てで寝室を出ると、急いでドアを閉めて背を付ける。しかし、先にベッドに入っているのと一緒に入るのと後から入って行くのとではどれが一番恥ずかしいだろうかと考えて、ルージュは思わず「うわぁぁぁ」と小声で叫びながら両手で頬を押さえた。
「どれもメチャメチャ恥ずかしいんだけどッ……!」
それに、先だろうと後だろうと『オッケー』なのは一緒である。こうなったらノアールが寝つくまで本でも読んでいようかと考えたルージュは、そこでハタと思いついた。
「そうだ! 奴が来る前に寝ちまえばいいんじゃん!」
さすがのノアールも寝込みを襲うような卑怯な真似はしないだろう。これは良案とばかりに大急ぎで寝室に入ったルージュは、しかし、掛け布団をめくったところでハタと自分の姿に気が付いた。
「しまったぁぁぁ……!」
昼は首まですっぽり隠れる露出度の低いドレスを着ていたが、今は白い薄手の寝衣一枚だけである。同色のレースやリボンが品良くあしらわれたその寝衣は胸元もリボンで結んでしっかり隠れるようになってはいたが、ドレスと違ってウエストを締めないストンとしたデザインなので、裾をめくればどこからどこまで見えそうである。
「いかん! いくら何でもこの格好はいかんぞ!」
こんな無防備な姿をしていては、いくらノアールでも理性を失くして襲い掛かって来るかもしれない。いつも冷静で感情をあまり表に出さないノアールが欲情するところなど想像も出来なかったが、ルージュは焦って顔を上げると、寝室の隣にある衣裳部屋に続くドアを見た。
「そうだ! ノアールのことだから、もしかしたら男物の服が一着くらいは……!」
いつもそつの無いノアールのことだ。ルージュの為ではなくても自分の着替えくらいは用意しているかもしれない。そう考えて大急ぎで衣裳部屋に駆け寄ろうとしたその時、いきなりノックも無しに寝室のドア開いた。
「なんだ、まだ起きていたのか」
いきなり声を掛けられたルージュは、「うわッ」と叫んで硬直する。
「ノックなら部屋に入る時にしたぞ」
愕然としているルージュを見てノアールはそう言いながら入って来ると、後ろ手にドアを閉めて口の前で人差し指を立てた。
「廊下に衛兵がいるから」
小声でそっと注意されて、ルージュは慌ててコクコクと頷く。大声は出すな、ということらしい。ノアールはそれを見て小さく頷くと、おもむろに上着を脱いでポイと無造作に椅子の背に掛けた。続いてベストとシャツも脱ぎ、靴やソックスも脱いで裸足になる。
「ノ……ノアールさん?」
その様子をドギマギしながら眺めていたルージュは、ノアールがズボンも躊躇なく脱ぎ捨てたのを見て思わずジリッと後退った。
「今日は疲れただろう。ほら、さっさと寝るぞ」
ノアールはルージュの反応になどお構い無しにそう言うと、さっさとベッドに横になる。そして、奥に詰めて隣を空けると、もう一度「ほら」と言って自分の隣をポンと叩いた。
「早く来い」
これは由々しき事態である。先に寝るとか後に寝るとか、そんな生易しい問題ではない。あろうことかノアールは左腕をまっすぐ枕に沿うように伸ばしていて、それはつまりいわゆる『腕枕』というものである。この上に自分から横になるということは、どう言い訳しようとも『オッケーカモン』な状態なわけで、ルージュは激しく狼狽えて真っ赤になると、胸前でこぶしをギュッと握り合わせた。
「手……」
ゴクリと唾を飲み込んでようやく声を搾り出すと、その言葉にノアールが怪訝そうに「て?」と返す。
「手ェ出すなよッ。俺たち、まだ結婚してないんだからな!」
百歩譲って一緒に寝るのは承諾するが、そこまでである。そう言うと、ノアールがちょっと驚いたように目を見開いてルージュを見詰めた。
「え……結婚したらいいのか?」
「……ッ?」
確認するように問われて、ルージュは激しく狼狽える。自分がすっかりノアールの嫁になる気でいたことに気付き、カァァァッと耳まで真っ赤になった。
「ダ、ダメに決まってんだろ! 俺たち男なんだぞ!」
羞恥を誤魔化す為にわざと声高に言うと、ノアールが、シッ、と言って唇の前で人差し指を立てる。そして再びいつものポーカーフェイスに戻ると、わかってるよ、と言って再びポンポンと自分の横を叩いた。
「手なんか出さないから、ほら来い。そんな格好じゃ寒いだろ」
確かに自分も薄着だが、半袖のシャツと下穿きだけのノアールはもっと寒そうである。ルージュは慌ててベッドに入ると、大急ぎで布団を掛けた。
「お前、寝衣は?」
寒くないのかと思って問うと、忘れた、という答えが返って来る。「取って来れば?」と言うと、ノアールがクスと笑って右手でルージュの体を抱き寄せた。
「お前がいるから大丈夫だ。お前は相変わらず体温が高いな」
珍しく懐かしむように言われて、ルージュは思わず笑う。そういえば子どもの頃からノアールは、泊まり掛けで遊びに来るといつも一緒に寝たがった。
「なんだ、寒がりだったのか」
客間なんかたくさんあるのだから好きな部屋を自由に使えばいいのにと思っていたのだが、そういう理由があったのかと得心して言うと、その言葉にノアールが眉尻を下げて苦笑する。
「それより、大変だぞルージュ。明日の予定表を見てみたら、もう三十件以上も謁見伺いが来ていた」
「謁見伺い?」
ルージュはノアールの言葉にキョトンとして返す。公爵領の外交は父侯爵の仕事なのでルージュは謁見に立ち会ったことはないが、一国の第一王子ともなればきっと毎日のように他国からの客が来るのだろう。ちょっと気の毒に思いながら「大変だな」と言うと、その言葉にノアールがヒョイと眉を上げて「なに言ってるんだ」と呆れたように返した。
「謁見はお前にだ、ルージュ。絶対にボロは出すなよ」
「えッ! 俺ッ?」
思わず大声で尋ね返したルージュは、途端にガバッと大きな手で口を塞がれる。ノアールは大きな溜息を長く長く吐き出すと、ルージュの耳元で脅すように囁いた。
「今度大声を出したら口で塞ぐからな」
十分本気の声音に、ルージュは目を見開いたままコクコクと頷く。『口で塞ぐ』が『キス』とイコールだと気付いたのは、間抜けにも夜が明けてノアールが自室に戻ってしまった後だった。
「ルージュ姫様におかれましては、本日もご機嫌麗しく……」
たくさんの使者たちが入れ替わり立ち代わりやって来ては、判で押したような言葉を並べたてて貢ぎ物を差し出す。貢ぎ物は珍しい異国の装飾品であったり珍しい果物であったりしたが、ルージュは喋ることが出来ないのでただニコニコと笑っているしかなかった。
(いいかげん怪しまれるよなぁ……)
しかし、最初は不審がっていた使者たちも、その日の午後にはすっかり表情が変わっている。「さすがは第一王子がお選びになられた方だ!」と口々にルージュを褒め讃えると、皆しきりに感心しながら帰って行った。
「???」
狐に鼻を摘ままれたような感じのルージュは、自室に戻ってメイの淹れてくれたお茶を飲みながら首を捻る。
「いったい何があったんだ?」
すると、ルージュの言葉に、テーブルの向い側で同じようにティーカップを傾けていたノアールが「ちょっと情報操作をしただけだ」と答えた。
「『ルージュ姫はノアール王子の呪いが解けるまで誰とも口をきかずに願を掛けているらしい』、そう噂を流しておいた」
「なッ……!」
飄々と返された言葉に、ルージュはびっくり仰天して慌てる。
「なんでそんなこと言ったんだよ!」
ノアールが生まれてすぐに北の魔女に呪いをかけられたことは極秘中の極秘である。思わず立ち上がって声を荒げると、ノアールがうんざりしたように溜息をついた。
「何度言えばわかるんだ、ルージュ。大声を出すな」
家臣にバレてもいいのか、という言葉に、ルージュは慌てて自分の口を両手で塞ぐ。ごめん、と殊勝に謝ると、ノアールは再び溜息をついて持っていたカップをソーサーに戻した。
「『第一王子には呪いが掛けられているらしい』という噂は、お前が口をきかないことよりも周囲の好奇心を引き付ける」
物見高い民衆の視線を逸らすには最高だろうと言われて、ルージュは再び目尻を釣り上げる。
「それにしたってッ……!」
すると、それまで二人のやり取りを黙って聞いていたメイが「第一皇子の呪いって?」と尋ねた。そういえば、この秘密を知っているのは王族と東西南北の公爵と一部の家臣だけなのを思い出し、ルージュは思わずノアールを見る。
「俺は運命の相手を嫁に貰わねば幸せになれないらしい」
ノアールが皮肉混じりに説明すると、その言葉にメイが「あら」と言って笑った。
「そんなのは誰だって同じじゃありませんこと? 最愛の者と結ばれることこそが、例え周りからはどう見えようとも、二人にとっては何よりの幸せなのですから」
「え……」
メイの意外な言葉にルージュは驚いて目を瞬かせる。隣を見ると、普段はあまり驚かないノアールもハッとしたようにメイを見ていた。
「まあ、呪いをかけた魔女も、まさかノアール様が同性をお嫁に貰われるとは夢にも思わなかったでしょうけれど」
メイがおかしそうに笑いながら付け足し、その言葉にルージュはムッとして鼻息を荒くする。しかし、もしかしたら自分を嫁に迎えることこそが呪いの本当の目的だったのではないかという可能性に思い至り、ルージュはハッとして息を呑むと愕然として言葉を失くした。