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「どちらになさいます、お姉様。生クリームがお好き? それともフルーツがたくさん載ったのになさいます?」
会場の奥にある立食スペースへとルージュを誘い、オディールが嬉々として尋ねる。物思いに沈んでいたルージュは、その声にハッとすると急いで笑顔を作った。
甘いものなら何でも好きだ。見れば、テーブルの上には生クリームやフルーツで綺麗に飾り付けられた焼き菓子が所狭しと並べられている。そのどれもがルージュの好物で、メニューにもノアールが注文を入れたことは間違いなかった。
『ノアール王子には……もうずっと前からお通いになっている方がいらっしゃいます』
途端に先程のオディールの言葉を思い出す。ルージュは思わず狼狽えて瞳を揺らすと、急いで焼き菓子の一つを指差した。
「フランボワーズの焼き菓子ですわね」
オディールはにっこり微笑むと、「それと、カカオの焼き菓子も頂きましょうか」と言いながら城付きのパティシエに二、三の焼き菓子を皿に盛り合わせるよう指示する。ルージュは焼き菓子の載った皿を受け取ると、オディールに続いてバルコニーに出た。
広いバルコニーにはあちこちに二人掛けの長椅子が置かれ、美しい夜景を眺めながら談笑出来るようになっている。既に何組かの男女が思い思いの場所に腰掛け、楽しそうに愛を囁き合っていた。はっきり言ってあまり女同士で来る場所ではないのだが、夜会は初めてらしいオディールは全然意に介した風も無く、人気の無い一角にある椅子にルージュを誘う。
「ここで頂きましょう、お姉様」
ルージュはその無邪気な笑顔に内心苦笑しながらも頷くと、オディールの隣に腰掛けて膝の上に皿を置いた。
(ノアールの相手って誰なんだろう……)
悔しいが、先程からその考えが頭から離れない。だいたい、夜会の時はいつだって自分の傍で飲んでいるだけで女になど目もくれなかったのだ。まあ、あの頃から本命がいたと考えればそれも納得なのだが、そうなるとノアールは幼馴染みの自分にもひと言も言わなかったということになる。それは、ノアールに女がいたということよりもショックだった。
(まあ、第一王子の立場じゃあ、その影響を恐れて隠してたのかもしれないけど……)
それはつまり、自分に話すと外部にバラされる恐れがある、とノアールに判断されたということである。
(俺はそんなに口の軽い男だと思われてたのか?)
かなりショックだったが、問い質したくても王の隣席にいるノアールには近付くことすら出来ない。声を出すわけにもいかないので、オディールから情報を聞き出すことも出来なかった。
(ハァ……)
ルージュは内心で大きな溜息をつくと、フォークでノロノロと焼き菓子を突つく。すると、その様子に気付いたオディールが「お姉様?」と声を掛けながら持っていたフォークを皿の上に置いた。
「ノアール王子のことを考えていらっしゃるのですね、お姉様」
オディールの言葉にルージュはコクンと小さく頷く。とにかく会いたい。会って二人だけで話がしたい。その時、不意に「やあ、こんな所にいたんですか」と声がして誰かがこちらへと歩いて来た。
(ノアールッ?)
慌てて振り返ったルージュは、しかしそこにいる人物を見てがっかりする。途端にオディールが目尻を吊り上げてその男を睨んだ。
「そなた、無礼ですよ! いきなり許しも請わずに!」
ツンケンとしたオディールの言葉に、ダレンが「まあまあ」と宥めるように言いながら微笑む。
「そう警戒しないでください、姫。私は美しい二輪の薔薇の花が見えたので、それを愛でに来ただけですから」
ダレンのキザなセリフに、途端にルージュはゾゾゾッと全身総毛立った。
(ダメだッ! 俺やっぱ、こいつは生理的に無理ッ!)
胸の内で叫び、ルージュは思わず顔を引き攣らせながらプツプツと粟立った腕を必死に擦る。すると、ダレンの視線がオディールから自分へと移り、その目が、フ、と意味ありげに細められた。いきなり色目を使われたルージュは、あまりの気持ち悪さに思わず叫び出しそうになって手で口を押さえる。
(キモいキモいキモいキモい、こいつキモいんだけどーーーッ!)
それはオディールも同様だったらしく、いきなり顔を引き攣らせたかと思うと右手をサッと上げて叫んだ。
「衛兵ッ!」
途端にどこからかワラワラと黒スーツの男たちが現れ、ダレンはあっという間に包囲される。
「なんだよ、オイ! 俺は姫たちと楽しくお喋りをだなあ!」
男たちはダレンの両腕を両脇からがっちり掴むと、そのまま屋敷内へと追い返す。ダレンの声はあっという間に遠ざかり、会場の扉が閉まる音と共にピタリと消えた。ルージュはホォッと安堵の息を吐くと、オディールに感謝の意を籠めてにっこり微笑む。すると、オディールが瞳を陰らせながらポツリと言った。
「……殿方なんて大嫌いです」
(オディール?)
突然俯いてしまったオディールの顔を、ルージュはどうしたのかと覗き込む。
「私、知っているのですわ。本に出て来る王子様はみんな素敵な方ばかりですけど、実際にはあんな方は一人だっていやしないのです。男なんてみんなスケベで女好きでだらしがなくて……お父様だって……」
オディールはそう言って言葉を切ると、惑うように瞳を揺らす。しかし、やがてスッと顔を上げると「私ね」と言って言葉を継いだ。
「幼少の頃よりノアールに嫁ぐよう言われて育ちましたので、社交界に出たことがありませんの。もちろん胸がトキメクような恋もしたことありませんし、キスもまだ。この年でおかしいでしょう?」
苦笑しながらの問い掛けに、ルージュは思わず首を横に振る。男からすれば、誰も手を付けていない新雪のような姫君を嫁に出来るなんて羨ましい限りである。
「お優しいのね……」
しかし、姫にはルージュの否定は『慰め』と取れたらしい。憂いを含んだ瞳で小さく微笑むと、でも、と言って続けた。
「私はしたかったわ。胸が震えるような恋も、頭がクラクラするようなキスも大好きな人と……」
(あっ……)
もしやオディールには好きな男がいたのだろうか。ルージュはハッとして、まだ幼さを残している目の前の姫を見詰める。オディールはまっすぐな瞳でルージュを見返すと、まだ持ったままでいた皿を自分の脇にカタンと置いた。
「私の初めてのキスを貰っては頂けませんか? お姉様」
(………………はい?)
ルージュは一瞬何を言われたのかわからなくて、ポカンとしてオディールを見る。オディールは潤んだ瞳でルージュを見上げると、フワリと頬を赤らめた。
「私、初めてのキスはお姉様としたいです。お姉様……」
そして甘えるようにそう言うと、目を閉じてルージュの方に身を乗り出して来る。
(ちょッ……!)
ルージュは予想外の展開に慌てると、内心オタオタと取り乱した。女性からキスをねだられることなど何度も経験してきたルージュだが、しかし今回は勝手が違う。なんたって、今の自分は女なのだ。
(しかし、女性にここまで言わせて断っては、乙女心を傷付けてしまうかもしれないし……)
それに、相手は自分を女だとわかった上で頼んでいるのだ。だとしたら『同性』というのはキスを断る理由にはならないのではないか。そこまで考えたルージュは、再び(ん?)と首を捻る。
(ちょっと待てよ。俺は本当は男なわけだから、オディールは大嫌いな『男』とキスをしてしまうことになるわけで……)
もし自分が男だとバレたら、オディールに「騙した」と訴えられるばかりか、第一王子の妃候補に手を出した罪で捕らえられてしまうかもしれない。いや、それ以前に、男だとバレた時点でルージュも北公爵家も身の破滅である。頭の中で様々な仮説がグルグルと渦巻き、ルージュは硬直したまま迫り来るオディールの顔を食い入るように見詰める。その可愛らしい鼻が自分のそれとくっ付きそうになったまさにその時、いきなり誰かの手が目の前に現れて、ルージュはすんでのところでグイと力任せに引き離された。
「何をやってるんだ、お前たちは……!」
呆れたようなキツイ声音に、ルージュは驚いて振り返る。
(ノアール!)
嬉しくて思わずパアッと笑顔になって見上げると、怒ろうとしていたらしいノアールが驚いたような毒気を抜かれたような実に複雑な顔になった。
「いい加減にしないか、オディール。もう子供じゃないんだから」
どうやら矛先を変えたらしいノアールの言葉に、あと数センチのところでファーストキスを逃がしたオディールが不満そうにツンと唇を尖らせる。
「邪魔者はあなたですわよ、ノアールお兄様。もう少しでしたのに!」
(お兄様ッ?)
オディールの言葉に、ルージュは目を丸くして仰天する。その顔を見て、ノアールが「そうだ」と答えて頷いた。
「簡単に言えば、俺とオディールはイトコだ。互いの母親が姉妹でな」
(知らなかった……!)
では、南公爵の『第一夫人計画』はオディールが生まれた時から始まっていたということになる。
「私も南公爵家の娘、結婚は諦めます。でもそこまでですわ。私の唇と身体は私のものなのですからね!」
オディールのキンキンとした声音に、ノアールがいかにも興味無さそうに「わかった、わかった」と答える。そして、おもむろにルージュに向き直ると低い声音で言った。
「それより早くしろ、ルージュ。最後の曲だ」
「……ッ!」
その言葉にオディールがハッと目を見開いてノアールを見る。ルージュは訳がわからないながらも促されるまま立ち上がると、ノアールに手を引かれながら戸口に向かった。その背にオディールが「お兄様!」と叫ぶ。
「私をお連れください、お兄様! お姉様では危険です!」
(危険ッ?)
ルージュは驚き、ノアールもその言葉に足を止めて振り返る。しかし、その口から出た言葉は『否』だった。
「俺の正室はルージュだ。他にはいない」
「……ッ!」
静かだがきっぱりとした声音に、ルージュはハッとして息を呑む。
『俺の正室はお前だけだ、ルージュ。これだけは誰にも譲れない』
それは数時間前、夜会が始まる前にノアールに言われた言葉だった。
(ノアール……)
ルージュは再び歩き出したノアールの背中を見詰めながら、会場に戻る為に扉をくぐる。途端にそこにいる者全ての視線が一斉に自分に注がれ、ルージュはハッとして立ち止まるとゴクリと喉を嚥下させた。
(そうか……)
ルージュは胸の内で呟くと、ギュッとノアールの手を握り締める。
(みんな知ってるんだ……)
これから踊る姫こそが、ノアールが選んだ正室であるということを。
サヤサヤと衣擦れの音をさせて、群集が真ん中から二つに分かれる。その先にある玉座に腰掛けているのは、ノアールの父親である国王であった。今から自分はこの群集の真ん中で最後の曲をノアールと踊るのだ。途端に手の平が冷たくなり、緊張で足が震え出す。
「大丈夫だ」
その時、ノアールが少しだけ顔を向けてルージュにだけ聞こえるように小声で言った。
「俺を信じろ」
掴んでいた手をグッと力強く握り返され、ルージュは覚悟を決めて唇を引き結ぶ。そして小さく息を吸って吐き出すと、グイと顎を上げて会場へと足を踏み出した。