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「国王陛下! 並びに、ノアール第一王子ーーーーーッ!」
呼び出し係が大声で叫ぶのが聞こえる。途端に会場内のザワめきがピタリと止み、皆一斉に正面入り口に向き直った。男は帽子を脱いで胸に当て、女はドレスの裾を摘まんで頭を垂れて国王が現れるのを待つ。やがて大きな観音開きの扉が音も無く左右に開き、国王と、そして国王の第一王子であるノアールが現れた。
(ノアール……)
ノアールは国王と共に会場に入って来ると、家臣の案内に付いてルージュの前を横切り、上座中央に置かれた玉座の前に並んで立つ。国王は会場に集まっている貴族や家臣たちをゆっくり見渡すと、ゴホンと大きく咳払いをした。
「皆、いつもこの国の為に尽力厭わず誠に大儀である。今宵は無礼講ぞ。心行くまで楽しむがよい!」
国王が高らかに開会の言葉を告げ、皆は一斉にワアッと歓声を上げて拍手する。それを合図に壇上にいた楽団がワルツを奏で始め、皆は思い思いの相手と手に手を取ると、優雅な足取りで会場内に散会した。いよいよ舞踏会の始まりである。
「ルージュ姫。一曲お相手して頂けませんか」
すると、さっそくルージュを遠巻きにしていた男性陣からスッと一人の男が歩み寄る。
(ゲゲッ!)
それは、先程まいた筈のダレンだった。
「貴女と最初に踊る名誉を、このわたくしめに是非」
ダレンはそんな臭いセリフを吐くと、スッとルージュの右手を取ってその甲に口付けた。
(ヒエエッッッ!)
途端にゾワワッと背筋を悪寒が駆け上り、全身の毛穴が一気にザアッとそそけ立つ。
(キモッッッ!)
ルージュは思わず顔を引き攣らせて内心で叫ぶと、慌てて取り返した手をドレスの裾に擦り付けた。
「ははは! フラれたな、ダレン」
それを見て、ダレンの顔見知りらしき男が高らかに笑いながら同じように群集から歩み出る。
「しからば、姫。わたくしめと一曲」
「ちょっと待て! 横取りとは卑怯だぞ!」
どちらが先に踊るかで口汚く言い合いを始めた男たちを尻目に、ルージュがひきつり笑いを浮かべながらそろそろと後退り始めたその時、「ちょっと見て」と言って女がコソコソと誰かに言うのが聞こえた。
「あれ。なんて恥ずかしいのかしら」
嘲笑する女たちの視線の先には、軽やかに踊る群集の中で一人だけたどたどしく踊っている姫が見える。年の頃はルージュと同じ十七、八。緊張しているのか顔は真っ赤で、不安そうなその顔は今にも泣き出しそうだった。その姫のステップが再び崩れてぎこちなく止まる。
「やだ、またよ。殿方もお気の毒に」
どうやら足を思い切り踏まれたらしい男が、顔をしかめながらも再び踊り始めようとする。
(ああ、ダメだって)
息も合わせないうちに踊り出したって、緊張でガチガチになっている娘が上手く踊れるはずはない。しかも、その男のステップも自分よがりで見ていられないほどヘタだった。ダンスは踊る者の性格が出るのだ。
(くそッ!)
ルージュは鋭く舌打ちすると、ツカツカとその二人に歩み寄る。そして、また足を踏まれたらしい男の手から白い小さな手を奪い取ると、まっすぐその姫を見詰めてにっこりと微笑んだ。そして、ドレスの裾をスイと摘まみ、膝を曲げてお辞儀する。
(大丈夫)
ルージュはその姫の手を取ってホールドの形を取ると、安心させるように再びにっこりと微笑んだ。
(さあ、右足から)
目を見詰め合ったまま音楽に合わせて左足を踏み出す。そうすると、娘の右足も自然にスィと後ろに下がった。
(そう、その調子)
もしかしたら彼女にとってはこれが社交界デビューだったのかもしれない。少し遅いが時々いるのだ。悪い虫が付くのを嫌って城の奥に大切にしまっておく父親が。その証拠に、ステップはちゃんと覚えているようなのだがつい視線が自分の足元に向いてしまう。これではダンスは上手くならない。
(ちょっとタンマ)
ルージュはそれを見て一旦動きを止めると、人差し指で姫の目と目の間を指差した。姫がぱっちりとした大きな目を瞬かせて、驚いたようにその指先を見詰める。ルージュはその指先を今度は自分の目にゆっくり向けると、再びにっこりと微笑んだ。
(ちゃんと俺を見て。他はどこも見ないで)
自分の言いたいことが伝わったかどうか確かめようと、その碧の瞳を覗き込むと、ルージュの表情をジッと見詰めていた姫が少しだけ目を見開く。そして、嬉しそうにパアッと微笑むと、コクンと小さく頷いた。きっと教育係の言葉を思い出したのであろう。そう、ワルツは大人の恋の駆け引き、相手の目を見て踊るダンスなのだ。ルージュは再びにっこり微笑むと、姫の手を取りホールドする。そして優雅な楽の音に耳を澄ませると、小節の切れ目に合わせて小さく頷いた。
(はい)
右、左、右、左と姫が教本通りのステップを踏む。それはまだぎこちないが、姫の素直で愛らしい性格がよくわかる、実に微笑ましいステップだった。もちろん、ルージュのリードもプロ級だ。伊達に夜な夜な遊んでいたわけではない。その軽やかなステップと安定感のあるリードに、緊張していた姫の顔が徐々に和らいでいくのがわかる。普通のステップに混ぜて時折クルリと半周ほど回してやると、姫はキャッと小さく声を上げて楽しそうに笑った。
(可愛いなぁ)
自分と同じくらいに見えるが、時折ひどく幼くも見える。それが妙にルージュの庇護欲を刺激して、全力で守ってやりたくなる。
(妹がいたらこんな感じかなぁ)
やがてワルツが終わり、人々が動きを止めてパートナーにお辞儀をする。姫はドレスの裾を摘まんでペコリと頭を下げると、再び顔を上げて頭一つ分高いルージュの顔を嬉しそうに見上げた。
「ありがとうございました! お姉様!」
(お、お姉様ぁぁッ?)
ルージュはその言葉に驚くと、姫のうっとりとした眼差しに不穏なものを感じてギクリとする。しかし、姫は再びにっこり微笑むと、飛び付くようにしてルージュの腕にしがみ付いた。
「私のことはオディールとお呼びくださいね! ルージュお姉様!」
(えええええッッッ?)
その言葉に今度こそルージュは驚いて目を丸くする。オディールはルージュの腕にしがみ付いたままニコニコ微笑むと、その腕を会場の奥へとグイグイ引っ張った。
「あちらに行きましょう、お姉様! 向こうに美味しいケーキやフルーツがあるんですのよ!」
オディールの嬉々とした言葉に、ルージュは半ば引き摺られるようにしてその後に続く。
(どどど、どうしよう……いったいどうなってるんだ、これ???)
事の展開に付いて行けずに助けを求めてノアールを見ると、ノアールはなぜか顔を背けて手の平で目元を覆っていた。その肩が小刻みに震えているのを見て、ルージュはクワッと目尻を吊り上げる。
(あいつ、笑ってやがる!)
しかし、ノアールがこういう場で笑うというのは実に珍しいことである。
(いったい何が奴のツボにハマったんだ???)
それが何なのかはわからないが、実に珍しいものが見られたのは事実だった。
(なんだよ……あんな風にも笑えるんじゃん)
記憶の中にあるノアールの顔は、ムスッとした小難しい顔か、皮肉っぽい笑みしか無い。それか、呆れたような顔である。
(もしかして……)
オディール姫を気に入ったのだろうか。そう考えてルージュは目の前を歩く小柄な姫をジッと見詰める。丸みを帯びた小さな肩は紛れもなく男に守られるべきもので、自分のそれとは全く違った。
(そうか……オディールならノアールの子が産めるんだ)
その考えにルージュは思わず瞳を曇らせる。すると、前を歩いていたオディールが不意にルージュを振り返った。
「ノアール王子にお気を付けくださいませ、お姉様」
(……え?)
咄嗟に何を言われたのかわからなくて、ルージュは目を見開いてオディールを見る。オディールはそっと周囲を見回すと、誰も近くにいないのを確認してから再びルージュに視線を向けた。
「お姉様だからお教えするのですわ。誰にもおっしゃらないでくださいましね?」
(な、何をだ……?)
もしかしたら自分たちの秘密がバレたのだろうか。ルージュはドキドキしながら次の言葉を待つ。オディールはジッとルージュの顔を見上げると、真剣な眼差しで告げた。
「お姉様は……いえ、私たちはノアール王子に利用されているのです」
(はあッ?)
オディールの言葉に、ルージュはいったい何を言い出したのかとその顔を見詰める。
(ノアールが? 俺たちを利用している?)
「信じられないのも無理はありません」
オディールはそう言うと、切なそうに瞳を揺らす。
「なんて可哀相なお姉様」
(俺ッ?)
オディールの言葉に、ルージュは再度びっくりして意味を問うようにオディールを見る。オディールは意を決したようにグッと唇を引き結ぶと、ルージュを見詰めて言った。
「お姉様は……その方の身代わりなのです」
(身代わり?)
いったい誰の、何の為の身代わりだと言うのか。すると、訝しげに首を傾げているルージュに、遂にオディールが死の宣告をした。
「ノアール王子には、もうずっと以前からお通いになっている方がいらっしゃいます」
『通う』とは、もちろん『男女の仲である』ということでる。そのことにルージュはようやく思い至り、「えええええッ?」と思わず内心で叫んで仰け反った。