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「ワン、ツー、スリー、ワン、ツー、スリー」

 大きなテーブルだけが中央に残された大食堂に、ギャルソンの柔らかな声が響く。ルージュは全身にダラダラと汗をかきながら、必死になってそのギャルソンのリードに喰らい付いていた。

「ルージュ様、足下ばかりを見てはいけません。まっすぐ前を向いて顎は少し上げ気味に……」

「わかってる!」

 ギャルソンの言葉にルージュは思わず声を荒げる。途端に再びステップを間違えて、ルージュは鋭く舌打ちをした。

「頭ではわかってるのに、どーしても男のステップを踏んじまうんだよ!」

 ルージュは社交界の花形である。夜毎開かれる夜会では、いつも何人もの美姫にねだられては軽やかにステップを踏んでいた。それこそ体がすっかり覚えていて、寝ながらでも踊れる程である。そのことがこんなところで仇になろうとは、いったい誰が思ったであろうか。

「体が覚え込んでしまっているので、修正が利かないのでしょうな」

 ギャルソンはそう言うと、再びルージュの右手を掬い上げてホールドの形をとる。

「でも泣き言を言っている暇はございませんよ、ルージュ様。なんとしても女性のステップを覚えて頂きませんと。舞踏会は一週間後なんですからね」

 そうなのだ。ノアールから舞踏会の招待状が届いたのは昨日のこと。そこで今朝からさっそく練習に入ったのだが、出来たのは靴ズレだけで、女性のステップは未だにマスター出来ずにいた。

「わかってるよ……!」

 ルージュはムスッと口を尖らせると、それでも気を取り直してギャルソンの右腕に軽く掴まる。しかし、「せーの」という掛け声と共にギャルソンがスッと前進した途端にルージュも無意識に前進してしまい、瞬間ググッと押し合った2人はすぐにハァッと大きな溜息をついた。

「ルージュ様、最初はスッと足を引いて頂きませんと」

 ワルツ自体は単純な踊りで、三拍子に合わせて前進は左足、後進は右足から踏み出すだけのステップである。では何が問題なのかと言うと、それは順番だった。曲が始まると男性は前進、女性は後進から踊り始めるのだが、男性パートしか踊ったことのないルージュはどうしてもその一歩目を前に出してしまうのだ。

「わかってる! わかってるけどこの足がッ……!」

 ルージュはそう言うと、ダンダンと右足を踏み鳴らす。ギャルソンは再び大きな溜息をつくと、「では、こうしましょう」と言ってルージュに提案した。

「『せーの』の代わりに『後ろ』と言いますから、その合図で踊り出してください」

「わ、わかった……」

 ルージュはゴクリと唾を飲み込むと、再びギャルソンの手に右手を載せる。先程と同じように左手を上腕に添えてホールドの形を取ると、ルージュの準備が整うのを待っていたギャルソンがスゥと小さく息を吸い込んだ。

「では」

 音楽の小節に合わせて、ギャルソンが静かな声音で「後ろ」と合図する。その声に合わせて、ルージュも大声で「後ろ!」と叫んだ。すると、あんなに言うことを聞かなかったルージュの右足が、自然にスイと後ろに下がる。

「やった!」

 途端にルージュはパアッと満面笑顔になると、「やったぞ、ギャルソン!」と叫んで感動に打ち震えた。最初の一歩さえ出てしまえば、後のステップは男性も女性も同じである。音楽の切れ目で気を抜きさえしなければ、後は同じ動きを繰り返せばいいのだ。

「そのまま踊ってください、ルージュ様。ワンツースリー、ワンツースリー、あまり足をお開きになりませんよう。歩幅は小さく、男性のリードに合わせて」

 しかし、元々ダンスは得意な方なので身のこなしは優雅なのだが、いかんせん動きがどうしても『男性』になってしまう。しかも、小節の切れ目で気を抜くとどうしても体が前に出ようとしてしまい、再びギャルソンの足を踏みそうになったルージュは「チッ」と大きく舌打ちをした。

「頭が曲を覚えてしまっているので、体が自然と動いてしまうんです。とにかく他のことは考えずに、『後ろ、前、後ろ、前』とだけ頭の中で繰り返してください」

「うわ、だっせー!」

 ルージュはギャルソンの言葉に盛大に顔をしかめると、それでも言われた通りに「後ろ、前、後ろ、前」と言いながらステップを踏む。

「いえ、お言葉になさらずとも頭の中だけで結構ですので」

 ギャルソンは思わずプッと噴き出して言うと、それでもルージュの進歩を褒めてくれた。

「そう言えば、ルージュ様にダンスをお教えしたのもこの私でございましたなあ」

 ワルツの音楽に合わせてライズアンドフォールを繰り返しながら、ギャルソンがそっと目を伏せて懐かしそうに言う。

「そうだったな」

 ダンスを覚えたら社交界にデビューさせてやると父公爵に言われて必死になって練習した時のことを思い出し、ルージュも思わず目元を和らげた。

「まさか、女のパートまで教わるとは思わなかったけどな!」

 ルージュの苦笑混じりの言葉に、ギャルソンも「そうですねえ」と笑いながら返す。しかし、不意に真顔になると、少しだけ寂しそうに言った。

「どうぞお幸せにおなりください、ルージュ様。それをこの目で見られないのはとても寂しゅうございますが……」

 次期国王との婚姻は『政略結婚』の意味合いが強い。一旦公国を離れたら、まず実家に戻れることは無いだろう。

「お前も息災でいてくれ、ギャルソン。長生きしてくれよ」

 思わずしんみりして言ったその時、曲の小節が変わる。無意識に足を踏み出したルージュは、次の瞬間ギャルソンの足を思い切り踏みつけ、ギャルソンは「ウッ!」と呻いてルージュを見ると、思わず詰まらせた息を大きく吐き出した。

「どうぞ、ノアール様の足はお踏みになりませんよう……」

「頑張る……」




 なぜルージュがこれほどまでに、あれほど嫌がっていた舞踏会の為に頑張ってダンスの練習をしているのか。それは、これしかノアールに会う方法がわからなかったからである。

「あの野郎……とうとう当日まで一度も来やがらなかったな」

 ルージュはブツブツ呟きながら、ギュウギュウと締め付けて来るコルセットにジッと耐える。

「うわ~、ルージュ様、だいぶ細くなられましたねえ」

 ルージュのウエストをグイグイと容赦なく引き絞っていたメイは感心したようにそう言うと、後ろでコルセットの紐を留めてきれいに纏めた。

「コルセットにももう慣れたようですね。良かったです」

 メイの言葉に、ルージュはブスッとして答える。

「あれだけ毎日のようにグイグイ締められりゃあな」

 イヤでも慣れるさ、というルージュの言葉に、メイが楽しそうにクスクス笑った。

「良かったです。これからは死ぬまでこれを着るんですから」

「死ぬまでか……」

 途端にルージュはズンと落ち込む。メイはテーブルの上に載っていた大きな箱の蓋を開けると、中から化粧瓶やコンパクトの類を次々取り出した。

「今日は本番ですからお化粧もしますね。大丈夫、私が世界一の美女にして差し上げますから」

「うええ……」

 そうなのだ。今日はその舞踏会の本番なのだ。メイの嬉々とした言葉にルージュはイヤそうに顔を歪める。その顔を見てメイは再びクスリと笑うと、ルージュの顔に化粧水をつけながら言った。

「お化粧をしましたらあまりお顔にはお触れにならないでくださいね、ルージュ様。何かお召し上がりになる時にも唇をあまりお舐めになりませんよう」

「無理」

 無意識の行動は自分でどうにか出来るものではない。そう言うと、メイが「意識してください」と言って乳液を手にとった。

「それにしてもルージュ様のお肌はなんてお綺麗なんでしょう。白くて滑らかで、これで男だなんて反則ですわ」

「褒められても嬉しかないワ」

 メイの言葉にルージュはプンとして答えると、不意に真顔になって、自分の顔に乳液を塗っている乳兄妹を見上げる。

「……世話になったな」

 なんだかんだ言っても今回のことではメイには随分世話になった。まだ輿入れは先だが礼を言うと、その言葉にメイが「あら」と言って目を細めて笑った。

「それを言うなら『お世話になります』ですわよ、ルージュ様?」

「え?」

 驚いて見上げると、ルージュの視線の先で乳兄妹が嬉しそうにウフフと笑う。

「実はルージュ様の側仕えとして一緒について行くことになりましたの。まだまだ宜しくお願い致しますわね、ルージュ様」

「ほ、本当かッ?」

 てっきり単身で敵陣に赴くのだと思っていたルージュは驚いて目を丸くすると、ガバッとメイの腰にしがみ付いて「うわーん!」と喜びの声を上げた。

「実は凄く心細かったんだ! すっげー嬉しい!」

「あらあら」

 ルージュの今にも泣き出さんばかりの言葉に、メイが笑いながらルージュの頭を母親が子にするように抱え寄せる。

「ルージュ様に国王家の側仕えをお付けするわけにはいきませんからね。ノアール様のお心遣いでございます」

「ノアールの?」

 メイの言葉にルージュは再び驚いて目を丸くすると、「そうか、ノアールの……」と言って瞳を揺らした。

「ノアールは……何で来ないんだと思う?」

 あれほど毎日のように来ていたのに、もう一週間も顔を見ていない。呟くように言うと、メイがその言葉に優しく微笑みながら言った。

「大丈夫、きっとノアール様も会いたがってらっしゃいますわよ。ですから今日はとびきり綺麗にして、ノアール様を驚かせてあげましょうね」

「ノアールは喜ぶかな……」

 不安に思って尋ねると、ルージュの言葉にメイが「もちろん!」と答えて笑う。

「今日の舞踏会は第一王子の花嫁候補のお披露目会でもあります。たくさんの姫君がやっかみ半分で着飾ってやって来ると思いますので、誰も文句が言えないくらいの完璧な姫君になってノアール様を惚れ直させてあげましょうね、ルージュ様!」

 メイの力強い言葉にルージュはつられて元気になると、笑顔になって「おう!」と答える。

「ノアールに会ったら今までの不満を全部ぶちまけてやるぜ!」

 舞踏会が始めるのは、夕刻を過ぎてからである。そして、それはあっという間にやって来た。




「北公爵様のご息女、ルージュ姫様ーーー!」

 会場に到着すると、呼び出し係がルージュの名前を高らかに叫ぶ。その言葉に、そこにいる全ての視線が一斉に会場の入り口に注がれた。ルージュはグッと顔を引き締めると、大広間の入り口に立つ。そして、ゆっくりと会場内を見渡すと、ドレスの豊かなドレープをスイと摘まんでにっこりと優雅に微笑んだ。途端に「おおッ……!」と男性陣から感嘆の声が上がる。

「なんという美しさだ……!」

「きっと北公爵様が大切に隠されていたに違いない……!」

 今宵のルージュは黄金色の髪を長く背に垂らし、真珠をたくさんあしらったティアラを付けている。ドレスはこの日の為にメイが仕立て屋に大急ぎで作らせた特注品で、ノアールの好きな赤色を基調にした、ドレープをたっぷり取った優雅なデザインになっていた。胸元から首までは豪奢なレースでしっかり覆われ、喉仏を隠している。他の姫君たちが着ているような、これ見よがしに胸の開いたドレスと違い、それがかえって清楚さを見る者に与えた。その精錬された美しさを口々に賞賛する男性陣とは反対に、女性陣は戸惑うようにざわめく。

「では、あれが北公爵様の……」

「きっと田舎娘に違いないと思っていたのに……!」

 聞こえて来る囁き声は決して好意的なものではないが、しかしそれははなから想定内である。ルージュはとりあえず挨拶を済ませると、後ろで控えているメイを振り返った。

「何かあったらすぐに呼ぶから、それまで別室で控えておいで」

 声をひそめて身振りで示すと、メイが頷き退室する。いよいよ一人きりになったルージュは再び会場内に視線を向けると、見知った顔はいないかと見回した。

(げっ……!)

 見れば、あちこちの夜会で顔を合わせているホブスター男爵家の放蕩息子ダレンの姿が見える。いつもルージュの人気をやっかんでおり、会えば嫌味を言ってくるイヤな奴だった。それとなくそちらを避けながら大広間に入って行くと、そのダレンがスッとこちらに近付いて来る。その視線がまっすぐ自分に向けられているのを見て、ルージュの背筋をゾゾゾッと怖気が走った。

(来るな来るな来るなってば!)

 遊び人のダレンは女に手を出すのも早い。そのダレンが自分にロックオンしたことに気付き、ルージュはすぐにでもそこから逃げたくなる。するとその時、再び呼び出し係が来賓の名を高らかに叫んだ。

「南公爵様のご息女、オディール様ーーー!」

(オディールッ?)

 オディールは例の手紙をルージュに送ったと思われる姫である。名前だけは知っているが、顔を見たことはない。興味深々で視線を向けると、その視界を黒いスーツが遮った。

「失礼。北公爵様の姫君とお伺いしたが……」

(げげッ、ダレン!)

 その顔を見た途端、ルージュはギョッとして顔を引き攣らせる。しかしそれも一瞬で、すぐにニコッと愛想笑いを浮かべると扇を広げて口元を隠した。

「いやあ、北公爵様にこんな美しい姫君がおられたとは今の今まで知りませんでしたよ。僕はあなたの兄上とも仲良しなんですよ」

(嘘をつけッ!)

 ルージュはダレンの白々しい言葉に胸の内でツッ込みながらも、目元だけでにっこり微笑む。

「おや、飲み物がありませんね」

 ダレンがそう言ってドリンク係のボーイを目で探した隙に、ルージュはこっそりとその場から逃げ出した。

(クソッ……お陰でオディール姫を見られなかったじゃないか!)

 ルージュは正面口とは別の狭いドアをすり抜けて廊下に出ると、プリプリ怒りながら化粧室を探す。しかし、なにぶん王城は初めてなので右も左もわからない。とにかくメイのいる側仕えの部屋を探そうと思い、当ても無くウロウロと彷徨っていたルージュは、廊下の角を曲がったところで突然誰かとぶつかった。

「うわッ!」

 膝を突いた途端に思わず叫び声を上げてしまったルージュは、その声の低さに思わずギョッとして固まる。

(やばいッ……!)

 今の声でぶつかった相手には自分が男だということがバレてしまったに違いない。この危機をどう乗り越えたらいいのかと、床に蹲ったまま冷汗をダラダラ流していると、その相手がスッとルージュに手を差し出した。

「何をしている。早く立て!」

 囁き声での叱責に、ルージュはハッとして顔を上げる。そして、その男を見上げた途端にウルッと大きな碧の瞳を潤ませた。

「ノアール……」

 今にも泣き出しそうなその顔を見て、今度はノアールがギョッとする。慌ててルージュを助け起こすと、手近な部屋に連れ込んだ。

「どうした、ルージュ。誰かに何か言われたのか」

 険しく眉を寄せながら問われて、ルージュは俯いたまま首をフルフルと横に振る。

「ではどうした。体の具合でも悪いのか」

 ノアールが心配そうに重ねて尋ね、ルージュはその言葉に再びフルフルと首を横に振ると、顔を上げて純白の正装に身を包んだ幼馴染みを見た。

「何でずっと来なかったんだ、ノアール……ずうっと待ってたのに」

 ルージュの呟くような言葉に、ノアールが驚いて目を丸くする。ルージュは拳を作ってノアールの胸をドンと叩くと、再び俯いて唇を噛んだ。その途端、ポロッと大粒の涙がこぼれて落ちる。それは、ようやくノアールに会えたことでの安堵の涙だった。

「ルージュ……」

 ノアールは心底驚いたように目を見開くと、慌ててルージュを抱き寄せる。

「すまなかった……お前に嫌われたとばかり思っていた」

「何でだよ、バカ。お前ってほんとバカ」 

 ルージュは鼻を啜り上げながら毒づくと、あ、と言ってノアールの胸元から顔を上げた。

「ご、ごめん……」

 見れば、ノアールの白装束の胸元にしっかりとルージュの化粧が付いてしまっている。

「そんなのは構わない。それより、ルージュ」

 これから本番だというのにノアールは気にもせずにそう言うと、ルージュの腕をグッと掴んだ。

「お前、本当に俺のことを……」

 しかし、ノアールが真剣な眼差しで何ごとか尋ねようとしたその時、ドアの外で側近がノアールの名を呼ぶ。

「ノアール様! ノアール様! どこに行かれたんですか、ノアール様!」

「チッ」

 ノアールがドアの方を見て、小さく舌打ちをする。

「俺なら大丈夫だから行けよ、ノアール」

 ルージュが鼻を啜り上げながら言うと、ノアールは視線を戻して怖いほど真剣な眼差しで言った。

「俺の正室はお前だけだ、ルージュ。これだけは誰にも譲れない……たとえお前にもだ」

 ノアールは低い声音でそう言うと、身を翻して足早に部屋を出て行く。

「え……正室?」

 ルージュはその背中をポカンと口を開けて見送ると、その言葉の意味を解した途端に『ボン!』と耳まで真っ赤になった。


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