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ノアールと初めて会ったのは、彼の母親である第一王妃の葬儀の時だった。
その日は朝から小糠雨が降っていて、教会の建物も墓碑も何もかもが白く煙っていた。家臣の差し出す傘に守られながら、父親の後に続いて墓地の中を歩いて行くと、やがてたくさんの黒い服を着た人々が啜り泣いている場所に出る。すると、父公爵の到着に気付いた参列者の群れがサササッと左右に分かれて、自分たちの前に道が出来た。
「あ……」
その道の一番奥に、数人の大人たちに囲まれて、黒いスーツを着た五歳くらいの男の子がいるのが見える。
「あの子は誰、父様」
そっと父公爵の服の裾を引っ張りながら尋ねると、代わりに隣にいた一番上の兄が「シッ」と小声で言って人差し指を口の前で立てた。
「おとなしくしておいで、ルージュ。あの御方が第一王子のノアール様だよ」
「ノアール……」
ルージュはその小さな後ろ姿を見詰めながら、口中で小さく呟く。すると、まるでその声が聞こえたかのように、その子供がこちらを振り向いた。
「さあ、行こう」
父公爵はそう言うと、家臣にそこで待つよう言い置き、子供たちを引き連れて人垣の間を歩き出す。
「冷たい……」
傘が無くなった途端に霧のような雨が顔に当たったが、ルージュはノアールも傘を差していないのを見て我慢した。
「国王……遅くなりました」
「遠路はるばる大儀であったな、北公爵。おお、これが自慢の子供たちか」
父公爵の言葉に国王は目を細めて返すと、一番小さなルージュに視線を留める。
「ウチの息子と同じくらいだな。ノアールのいい遊び相手になりそうだ」
国王の言葉に、ルージュはその隣に視線を向ける。近くで見ると、ノアールはルージュよりも一回り小さくて、背丈も自分の目の高さ程しかなかった。
(あ……)
ふと見ると、袖から覗いた小さな手が雨に濡れて真っ赤になっている。ルージュは咄嗟に手を伸ばすと、自分よりも小さなその手を両手で包んだ。
「寒い? 大丈夫?」
いつからここにいるのだろうか。つばの広い帽子を被っているので顔や首の後ろは濡れていないが、それでもふっくらとした唇はいくらか青褪めている。気遣うように尋ねると、ノアールはいきなり手を引っ込めて冷たい瞳でルージュを見上げた。
「触るな」
とても五歳の子供とは思えない冷たい声音に、手を振り払われたルージュは呆然とする。
「申し訳ございません、ノアール様! 愚息が失礼なことを致しまして……!」
慌てて父公爵がノアールの前に跪き、それを見た国王が「これこれ」と言って立つよう言った。
「優しい子じゃな、北公爵。いい息子じゃ」
国王は目を細めてそう言うと、ルージュに優しく微笑み掛ける。
「無愛想な息子じゃが、仲良くしてやっておくれ」
「でも……」
自分の手を振り払ったのはノアールの方である。思わず唇を尖らせると、それを見た国王が皆に背を向けている息子に向かって言った。
「友達は大切にしなければいけないよ、ノアール。母が生きていればきっとそう言ったであろう」
「母上はもういません」
国王の言葉に、しかし王子は固い声音で答える。その視線の先には大きな棺と、それを納める為の大きな穴が地面に黒々と口を開けていた。ノアールの言葉に、途端に周囲から再び小さな啜り泣きの声が漏れる。ルージュはグッと唇を引き結ぶと、両の拳を握り締めて「いるもん!」と叫んだ。
「母様はちゃんとここにいるもん!」
ルージュは大声でそう言うと、自分の胸を手の平でドンと叩く。ノアールは驚いたように少しだけ目を見開くと、ジッとルージュを見詰めた。
「僕の母様は僕が生まれてすぐに死んじゃったけど、でもずっとここにいるもん! だから僕は母様と会えなくても寂しくないもん!」
言ってる傍から、翡翠色の大きな瞳から大粒の涙がボロボロ零れる。いきなり泣き出したルージュをジッと見詰めていたノアールは、やがて小さく溜息をつくと、雨に濡れた小さな手を上着のポケットに入れた。
「ほら」
目の前に差し出された真っ白なハンカチーフを見詰め、ルージュは驚きに目を丸くする。固まったまま動かないルージュを見て、ノアールは再び小さな溜息をつくと、手を伸ばしてそのハンカチーフでルージュの顔を拭った。
「お前、名前は?」
ルージュの涙や鼻水を拭いながら、ノアールが静かな声音で尋ねる。もうその声の中に怒りの色が無いのを見て、ルージュは鼻の頭を赤くしながらニパッと笑った。
「僕、『ルーたん』だよ! 『ルーたん』って呼んでね!」
「あぁ、しまった……!」
アルバムの整理をしていたルージュは、昔の記憶を思い出して軽く自己嫌悪に陥る。
「そう言えば、『ルーたん』って呼べって言ったのは俺だったか……」
次の日からノアールは毎週のように馬車に乗ってルージュの家に遊びに来るようになり、やがて乗馬を覚えると毎日のようにお忍びでやって来るようになった。来ても何をするわけではない。ルージュと一緒にお茶を飲み、他愛もない話をして帰って行くだけである。なのに、何がどうして……。
『絶対に離さないから、覚悟しておけ……』
ルージュはノアールの真剣な眼差しを思い出し、思わず知らず大きな溜息をつく。
「何なんだよ、あいつ……」
あんな小さな喧嘩は昔からたくさんしてきたし、そもそも喧嘩と呼べるようなものでもない。しかし、昨日のノアールは本気だった。本気でルージュに『覚悟しろ』と言ったのだ。
「訳わかんねぇ……」
ルージュは小さく呟きながら、まだ微かに赤い痣の残っている手首をさする。すると、そこへコンコンと軽いノックの音がして、ギャルソンがお茶の用意を携えて入って来た。
「三時のお茶の時間でございます、ルージュ様」
「ああ、もうそんな時間か」
ルージュは時計を確認すると、ふと気になってギャルソンに尋ねる。
「その……ノアールから何か連絡はあったか?」
いつもだったらお茶の時間の少し前に来て、ルージュの好きな焼き菓子をギャルソンに手渡している筈である。
「いいえ」
ルージュの言葉にギャルソンは首を横に振ると、「そう言えば遅いですな」と言いながら窓の外を見た。
「途中で何かあったのかもしれません。どれ、誰かに様子を見に行かせましょうか」
ギャルソンの言葉に、ルージュは慌てて顔の前で手を振って「いい、いい!」と答える。もし昨日の諍いのことで怒っているのだとしたら、迎えに行っても無駄である。そればかりか、「そんなに俺に会いたいのか」と言って笑われるのがオチだ。
「クソッ……!」
ルージュは思わず口中で毒づき、ギャルソンの淹れてくれた紅茶をガブリと飲む。途端に「うわっチイッ!」と大声で叫ぶと、大慌ててギャルソンが差し出した水を一息に飲んだ。
その日からノアールの来ない日が数日続いた。
「あの野郎……」
ルージュは剣呑な目付きでイライラと客間の中を歩き回り、立ち止まっては窓の外を見る。ノアールはいつもこの窓の外を馬で通るので、ここで見張っているのが一番いいのだ。
「いい度胸だ」
しかし、文句を言いたくても肝心の本人がいないのでは仕方がない。しかも、ノアールが来てくれなければ自分は会いに行く方法すらわからないのだ。国王の第一王子と公爵家の十男坊という身分の差をイヤという程思い知り、ルージュは思わず手を揉みしだく。
「別に、そんなに怒る程のことでもないだろ?」
『触んな! お前なんか嫌いだ!』
そう言ってノアールを突き飛ばした時のことを思い出し、ルージュは思わず眉をギュッと引き寄せる。
「なんで来ないんだよ、ノアール……来いよ」
思わず小声で呟くと、それを待っていたかのように部屋の扉がトントンとノックされた。
「ノアールかッ?」
慌てて戸口に向かおうとしたルージュは、しかし扉を開けて入って来た人物を見て思わずがっくりと肩を落とす。
「なんだ、メイかよ……」
つい不機嫌になって呟くと、その言葉にメイが「あら」と言って笑った。
「ノアール様からのお手紙をお持ちして差し上げましたのに、要らないのですか?」
「いるッ!」
乳兄妹のイジワルな言葉に、途端にルージュは慌てて叫ぶ。そしてドレスの裾を踏みそうになりながら駆け寄ると、メイの手から白い封筒をサッと奪った。
「あのバカッ……手紙一通で許すと思うなよ!」
そう毒づきながらも、さっきまで沈んでいた気持ちが喜びに浮かれ上がる。メイの差し出したペーパーナイフでウキウキと封筒を開けたルージュは、しかし中から出て来たメッセージカードを見るなり、思わず愕然として目を見開いた。
「はあッ? 舞踏会ぃぃいッ?」
ルージュの素っ頓狂な言葉に、メイが「まあ」と言ってそのメッセージカードをサッと取る。
「これは婚約者のお披露目パーティですわね」
メイのウキウキとした言葉にルージュは思わず「ウガアッ」と叫ぶと、綺麗にセットされた髪をグシャグシャに掻き乱した。
「あの野郎ッ、何考えてやがるんだーーーーッ!!!」
とても公爵家の令嬢とは思えない下品な叫び声が屋敷内に木霊する。もちろんその後、大喜びのメイに新しいドレスをとっかえひっかえ着せられたことは言うまでもなかった。