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「なんだ、こんな所にいたのか。探したぞ」
聞き覚えのある低音の声音に振り向けば、そこにはルージュが今一番会いたくない人物、ノアールが立っていた。
「こんな所で何やってるんだ、ルージュ」
ノアールが『こんな所』と言うのも無理はない。ルージュがいたのは馬屋の一番端にある干した藁や干草を入れておく為の部屋である。部屋と言っても馬屋の入り口を入ってすぐの、扉も衝立も何も無い場所だった。
「お前に会いたくないからに決まってるだろ!」
問われたルージュは歯を剥き出して答えると、再びバサッと干草の山の中に体を丸めて倒れ込む。目を閉じてスンと鼻を啜り上げると、ノアールが小さく溜息をつくのが聞こえた。
昔からルージュはイヤなことがあると、すぐにこの馬屋に隠れる癖があった。そのことは北公爵や使用人達もよく知っていて、だからルージュがヘソを曲げるとほとぼりが冷めた頃、だいたいは夕食の頃合いに誰かがこの馬屋に迎えに行くのである。その癖は未だに健在で、だからノアールもまっすぐここに来たわけだが、ちなみに「探したぞ」と言ったのはルージュの体面を慮ってのことではなくて、この館の暗黙のルールに従っただけだ。馬屋ではすぐに探し出されてしまうと考えたルージュが隠れ場所を変えてしまうと、みんなが多大な迷惑を被ることになるからだ。
「そうか」
ノアールが感情の窺えない声音で答えて、躊躇もなく部屋に入って来る。干草を踏みしだくガサガサいう音に、ルージュはグッと体を小さく丸めると「来るなよ!」と怒鳴った。
「来るな!」
「何を怒ってるんだ、ルージュ?」
ノアールがすぐ傍で立ち止まり、やはり感情の窺えない声音で低く尋ねる。
「『何を』だとッ?」
ルージュは目を開けてキッとノアールを睨むと、体を起こしてキツい瞳で幼馴染みを見上げた。
「お前オレを、よ、よ、嫁に寄越せって父上に言ったそうだな!」
情けなくも怒りに声を震わせながら叫ぶと、黒髪黒瞳の幼馴染みが冷静な声音で「なんだ、そんなことか」と答える。
「『そんなことか』だと!」
ルージュは再び声高に叫ぶと、傍らの干草を掴んでノアールに向かって投げ付けた。もちろん干草は乾燥していて軽いのでノアールにまでは届かない。ノアールは少しだけ顔を逸らして避けるような仕草をすると、「なんだ、聞いてないのか」と言って続けた。
「お前を嫁に貰ってくれと言ったのはお前の父君だぞ?」
「……は?」
あまりにも予想外な言葉に、ルージュは一瞬言葉も忘れて問い返す。
「だからな」
ノアールは呑み込みの悪い子供に言い聞かせるようにそう言うと、南公爵に煽られて引っ込みがつかなくなった北公爵が真っ青な顔をして自分の居室に飛び込んで来た時のことを淡々と話した。
「お前の父君には幼少の頃から世話になったからな。恩返しと言うわけではないが、断る程のことでもないし」
だから承諾した、というノアールの言葉に、ルージュは呆れて「断れよ!」とツッ込む。
「バカを言うな」
ノアールは一瞬眉を険しくしてそう言うと、大きな溜息を一つついて言った。
「お前の父君は他の公爵の面前で、国王に向かって『娘がいる』と嘘をついたんだぞ。いくらお前でも、それがどういうことだかわからない程のバカではあるまい?」
「……ッ!」
ノアールに指摘されて、さしものルージュもハッとして凍り付く。
「そ……それって……」
愚弄罪とか詐称罪とか反逆罪になったりするのだろうか。そうなればすぐさま北公爵は御役ご免、北の公国は取り上げられてたくさんの家臣が路頭に迷うことになる。
「ど、どうしよう……」
ルージュは真っ青になって思わず言葉を途切れさせる。
「安心しろ」
ノアールはそれへニコリともせずに答えると言った。
「だから俺がお前を嫁として貰ってやると言ってるんだ。感謝しろよ」
相変わらず無愛想な幼馴染みの言葉に、ルージュはガックリ項垂れながらも「うん」と小さく答える。
「ありがとう……」
いつもの元気はどこへやら、膝を抱えて俯いている幼馴染みの姿にノアールは再び小さく溜息をつくと、歩み寄ってポンと金髪の頭を叩いた。
「いつまでここにいるつもりだ。お前の好きな焼き菓子を持って来たぞ」
「いらない……」
抱えた膝の上に額を押し付けたまま、ルージュがくぐもった声でボソリと答える。
「お前の好きなフランボワーズの砂糖漬けがたくさん載ったヤツだぞ。生クリームのたっぷりかかった」
言葉にするだけでも胸焼けしそうなほど甘いものの苦手なノアールが、苦渋に眉をしかめながら更に言う。
「いらない……」
「生のパイナップルも持って来たぞ。お前、好きだろう?」
「パイナップルッ?」
大好物のフルーツの名前に、途端にルージュはガバッと顔を上げると勢い込んで尋ねた。
「なんでッ? あれはこの時期には生ってないだろッ? どうやって手に入れたんだッ?」
「南の農園で取れたらしい。珍しいものだから是非にと言って、今朝方贈られて来た」
食べるかと問われて、ルージュは即座に「食べる!」と答える。
「よし、じゃあ立て」
ノアールは頷いて手を伸ばすと、ルージュの手首を掴んでグイと引き寄せた。
「まったく世話の焼ける姫君だな。ヘソを曲げる度にこれでは敵わんぞ」
「な、なんだよ!」
ノアールの溜息混じりの言葉に、ルージュが真っ赤になって頬を膨らませる。そして荒っぽい仕草でノアールの手を振り解くと、プイとそっぽを向いてドカドカと足音も荒く干草部屋の外へ出た。
「オレのことなんか放っとけばイイだろ!」
ルージュの後に続いて馬屋の外へと出ながら、その背にノアールが再び小さな溜息をつく。
「それが出来ればどんなに楽か……」
呟いた言葉は、しかし既に南国のフルーツに心奪われ、ウキウキと館に急ぐルージュの耳には届かなかった。
「おお。こんな所におったのか、ルージュよ」
屋敷に戻ってさっそくパイナップルとフランボワーズのパイを頬張っていると、父公爵がやって来て実に機嫌の良さそうな顔でニコニコ言う。
「ノアール王子もご一緒でしたか。相変わらず仲睦まじいことで」
「いやいやいや!」
父公爵の言葉を、すかさずルージュは手を顔の前で激しく横に振って否定する。
「あり得ないから! ってか、何でそんなに危機感無いんだよ、父上!」
危機感がイマイチなのはルージュも一緒だと思ったが、ノアールも召使い達もあえてそこにはツッ込まずに『似たもの親子』の会話を見守る。
「まあそう興奮するな、ルージュよ。綺麗な顔が台無しじゃぞ」
「綺麗とか言うな! オレは男だぞ!」
父公爵の言葉に、ルージュはフォークを握り締めたままキーッとなって怒鳴る。すると、優雅にティーカップを傾けていたノアールが、まあまあ、と言いながら二人の会話に割り込んで来た。
「しかし、確かに顔だけならどこの姫にも引けを取らんな。ちゃんと化粧をすれば、誰も男だとは思うまい」
ノアールはそう言うと、持っていたカップをソーサーに戻してルージュの頬をムギュッと摘まむ。
「うるひゃい!」
ルージュは頬を摘ままれたまま怒鳴ると、ノアールの手を掴んで引き剥がした。
「何か用なのかよ、父上!」
ここは同じ城の中と言ってもルージュ専用の客間である。わざわざ来たということは自分に用があるのだろう。そう思って問うと、父公爵がポンと拳で手の平を打ちながら「そうそう」と言って目尻を下げる。
「もうすぐ仕立て屋が来るから支度をしなさい」
「仕立て屋?」
父公爵の言葉に、ルージュは「?」と頭にクエッションマークを付ける。
「もちろんウェディングドレスのじゃ。それから普段着るドレスも季節に合わせて五十着ほど用意するしかあるまいな。そうじゃ、後から宝石商も呼ばんと。みすぼらしい格好をさせて、王子に恥をかかせては申し訳ないからな」
「ド、ドレス五十着に宝石って……うちのどこにそんな金があるんだよ、父上!」
ルージュが呆れて目を見開くと、父公爵が「なに、心配には及ばん」と返す。そして、ルージュの隣に座っている人物に向かって満面の笑みを浮かべた。
「つい先程、王子から勿体無い程の額の支度金を頂いてな」
「他人の金かよ!」
ルージュは思わず情けなくなり、呆れて父公爵に声を荒げる。
「遠慮には及びませんよ、父上殿。その為の支度金なのですから」
ノアールが微笑みながら北公爵に言い、その言葉にルージュは「『父上殿』ッ?」と叫んで隣を見た。
「何を驚くことがある。妻の父君は俺にとっても父君であろう」
「なんと勿体無きお言葉!」
ノアールの言葉に北公爵は涙を流さんばかりにして喜ぶと、「そうと決まればこうしてはおれん!」と言って後ろで控えていた侍女を振り返った。
「メイ! さっそくルージュをこの国一番の姫に仕立て上げるのじゃ!」
「はい、公爵様!」
メイは幼い頃から一緒に育った、ルージュとは乳兄妹のような間柄の少女である。
「お覚悟は宜しいですわね、ルージュ様?」
メイはニッコリ笑ってルージュの前に進み出ると、手にしていた薄い布きれをピラッと開いた。
「ヒッ!」
「ほぉ」
それが何なのかを認識し、ルージュとノアールが同時に短く声を出す。しかし、その顔に浮かんだ表情は天と地ほども違った。
「オ、オ、オレにそれを着ろって言うんじゃねえだろーな、メイ!」
女物の下着を前に、ルージュが真っ赤になって顔を引きつらせながら今にも泣き出さんばかりの声で叫ぶ。
「今から仕立て屋が参ります。その前にルージュ様には完璧な女性になっていただきませんと」
メイはルージュの非難の言葉をピシャリとひと言で撥ね返すと、怖いほど真剣な眼差しで乳兄妹を見詰めた。
「もはや動き出してしまったのです、ルージュ様。ルージュ様の双肩にはこの国の存亡が掛かっております。ルージュ様が男だと知れれば北公爵様は打ち首、私たちも同罪として処刑され、国民は家や土地を奪われて奴隷として他国に売られるでしょう。ルージュ様に無事御輿入れして頂く以外に我々が生き残る道は無いのです」
「ヒイイッ……!」
メイの脅迫にも似たオドロオドロしい言葉に、父公爵が悲痛な叫び声を上げながら床にしゃがみ込み、頭を抱えてブルブルと震える。
「心配しなくても大丈夫ですよ、父上殿」
ノアールはそれへ安心させるように声を掛けると、ルージュに視線を戻して言った。
「ルージュは父上殿や領民を見捨てたりするような男ではありません。なあ、ルージュ」
「うッ……!」
いきなり返答を求められたルージュは、ノアールを凝視したまま息を詰まらせる。
「う……うん……」
ようやく蚊の泣くような声で答えると、途端に床の上で蹲っていた父公爵がガバッと勢いよく起き上がった。
「そうと決まれば、さあ支度じゃ! もう仕立て屋が来てしまうぞ、ルージュよ!」
たった今まで恐怖にブルブル震えていたとは思えない父公爵の威勢のいい言葉に、ルージュはポカンと口を開けてそれを見詰める。
「何をボンヤリしておる! まったくお前は子供の頃からグズなんじゃから!」
北公爵の言葉に、メイが「あら、そこがまたルージュ様の可愛らしいところなのですわ」と笑いながら答える。父親同様、先程までの切羽詰った表情とは打って変わった楽しそうな声音に、ルージュはキツネに鼻を摘ままれたような顔をしてその乳兄妹を見詰めた。
「ねえ、王子様?」
メイに同意を求められたノアールが、「そうだな」と言って含みのある目でルージュを見詰める。それからフフンと意地の悪い笑みを浮かべると、椅子の背に無造作に掛けてあった上着を掴んでバサリと肩に羽織った。
「まあ、せいぜい頑張れよ、ルージュ。どんな姫になるのか楽しみにしている」
ノアールはそう言うと、楽しそうに笑いながら戸口へ向かう。
「うるさい!」
ルージュはノアールの揶揄するような言葉に真っ赤になって怒鳴り返すと、戸口から出て行く後ろ姿に向かってイーッと歯を剥き出して鼻に皺を寄せた。その子供っぽい仕草に、メイがクスリと小さく笑って「さあさあ!」と声を張り上げる。
「公爵様も出て行ってくださいまし! 今からレディのお着替えですわよ!」
メイのシャキシャキとした言葉に、父公爵が「おお、すまなんだな」と言いながらイソイソと部屋を出て行く。どうやら自分は彼らの三文芝居に騙されたのではないかとルージュがようやく気付いたのは、夜も更けて布団に入ってからのことだった。