10
「もう行っちゃうのか、ノアール……」
自室のバルコニーで一緒に朝食を摂り、メイの淹れてくれた紅茶を二人仲良く飲んでいたルージュは、ノアールが「さて」と言って立ち上がったのを見ると恨めしそうに尋ねた。
「まあ、そう言うな。俺だって行きたくはない」
しかし、今日も朝から謁見の予定が入っていて、夕方までほとんど休み無しのスケジュールである。ルージュはそれを聞くと、ハァ、と大きな溜息をついた。
「これからずっとこんな生活が続くのか。しかも、ノアールが王様になったらもっと多忙になってさ……」
ルージュはブツブツ呟くと、つまらなそうに口を尖らせる。それを見て、ノアールがフッと目元を緩ませた。
「あまり可愛いことを言ってくれるな。本気で行きたくなくなるだろう」
「可愛いってなんだ、可愛いって!」
それへ、ルージュがムッと頬を膨らませて怒ってみせる。その子どもっぽい仕草にノアールは再び目元を和らげると、テーブルを回り込んでルージュの傍らに立ち、朝日を受けて黄金色に輝いている髪を一房指先で掬い上げて口付けた。
「では、行って来る」
ノアールはそう言うと、後のことをメイに頼んで上着を羽織りながら戸口に向かう。あまりにも予想外のことに、思わずポカンと口を開けてその姿を目で追っていたルージュは、ノアールの背中がドアの向こうに消えた途端にハッとして我に返ると、真っ赤になって狼狽えた。
「なんだアレ……」
思わず照れ隠しに呟くと、メイがクスクス笑いながら言う。
「メチャメチャご機嫌でございましたわね、ノアール様。きっとルージュ様がお側にいらっしゃるので嬉しいのでございますわ」
確かにルージュがこの城に来てからというもの、昼は来賓との昼食会があるので無理だが、朝も夜も一緒に食事を摂り、もちろんベッドも一緒だった。必然的に朝も同じ布団で目を覚ますことになりわけだが、元々早起きらしいノアールはルージュが目を覚ますといつも隣で自分を見詰めていた。
(うッ……)
その時の何とも言えぬ気恥かしさを思い出したルージュは、「そ、そうかな……」と小声で呟き、真っ赤になった顔を俯けてティーカップを傾ける。メイは「はい」と言って頷くと、お茶のお代りを注ぐ為にティーポットを手に取った。
「誰が見たってひと目で分かりますわ。ノアール様のことは幼少の頃より存じ上げておりますけれど、あんなに柔らかな顔でお笑いになるノアール様を見たのは初めてですもの」
「そ、そうかな……」
ルージュはメイの言葉に照れ照れと笑う。それが自分と一緒にいるからだとしたら、こんな嬉しいことはない。もしかしたらその呪いのせいでノアールは男の自分を嫁に貰う破目になってしまったのではないかと思っていたルージュにとっては、それは何よりの救いだった。
「俺……ここにいてもいいのかな」
空になったカップを満たしていく琥珀色の液体を見詰めながら、ルージュはポツリと呟く。メイはその言葉に驚いたように目を見開くと、眉尻を下げて大きく息をつきながら笑った。
「違いますわ、ルージュ様。ルージュ様はここに『いなくてはいけない』のですわ」
「え?」
メイの言葉にルージュは驚いて乳兄妹を見返す。メイは大きく頷くと、空になったティーポットをワゴンに載せた。
「ノアール様が今一番必要としているのは『良き理解者』です。ルージュ様はノアール様が唯一お心をお開きになられている方なのですから、側にいて助けてあげなくてどうしますか」
「ノアールが……俺に?」
『心を開いている』という状態がどういうものなのかよくわからなくて問い返すと、メイは「ええ」と言って頷いた。
「ルージュ様に向けられる柔らかな眼差しが何よりの証拠でございますわ」
「柔らかな眼差し……」
ルージュはメイの言葉を口中で繰り返すと、先ほど自分が『退屈だ』と不満を洩らした時に見せたノアールの眼差しを思い出す。ついでに髪に口付けられた時のことまで思い出したルージュは、再びカァァッと耳まで真っ赤になると、カップの中の紅茶を一気に飲み干した。
『カン! キン! カイン!』と、金属の触れ合う聞き慣れた音が窓外から聞こえて来る。退屈を持て余して壁に飾られていた長剣を弄んでいたルージュは、その音に慌ててバルコニーに飛び出すと、身を乗り出して中庭を覗き込んだ。
(剣術指南だ!)
中庭の真ん中で十人ほどの若い剣士たちが二人一組になって剣を合わせている。少し離れた場所では、指南役らしい年嵩の男が腕組みをして立っているのが見えた。
「わざと外してどうする! 実戦では敵は手加減なぞしてくれんぞ!」
バルコニーまで聞こえて来た指南役の檄に、ルージュの血肉がゾクゾクと震える。ルージュは夢中で室内にとって返すと、先程まで弄っていた剣を掴んで廊下に飛び出した。
「これはルージュ姫様」
ルージュが中庭に出て行くと、すぐに指南役が気付いて深々と頭を下げた。
「いかがなされましたか、このような所へ」
尋ねられたルージュはニコニコと満面の笑みを浮かべると、持っていた剣を見せて『これこれ!』と指差す。
「はて、まさかルージュ様も剣術が習いたいと言うのではありませんでしょうな?」
指南役の問い掛けにルージュがコクコクと頷くと、指南役は驚いたように目を丸くして「滅相もございません!」と言って慌てた。
「もしルージュ様にお怪我でもさせてしまっては、このゴーヤめが打ち首になってしまいます!」
その言葉にルージュはがっかりしてシュンと項垂れる。それを見て一人の剣士が笑いながら言った。
「まあいいではありませんか、ゴーヤ殿。姫様も剣の真似事がしてみたいのでございましょう」
なんなら私がお相手しますよ、という言葉に、ルージュは目をキラキラさせてウンウンと頷く。そして持っていた長剣を鞘からスラリと引き抜くと、宝玉が嵌め込まれたその鞘を無造作に少し離れた木の根元へとブンと勢いよく放り投げた。そして、自分と同じ年くらいに見えるその若い剣士に向き合うと、ヒタと見据えてピタリと正眼に構える。その隙の無い完璧な構えに、『男勝りな姫様のお戯れよ』と失笑していた剣士たちが途端にザワッとざわめいた。
ルージュと向かい合った若い剣士の顔からも、スゥッと余裕の笑みが引く。ルージュはニヤリと不敵な笑みを浮かべると、両手で持っていた剣を右手に持ち替え、『こちらはガラ空きだぞ、さあ掛かって来い』とばかりに左手を煽るようにヒラヒラと振った。
「……ッ!」
途端に煽られた若者の顔がカッと怒りで朱に染まる。その一瞬の隙を突くように、ルージュの切っ先が素早く動いた。
カン! と剣先を弾かれた若者がそれを合図に切り込んで来る。
カン、カン、カン!
まだ躊躇いのあるその剣をルージュはことごとく左右に受け流すと、若者の隙を突いて長剣をブン! と横に薙いだ。若者がそれを紙一重のところで後退してかわし、ヒラリと刀身を翻して素早く反撃して来る。
(やるなッ……!)
だが、若い剣士の中では手練れの部類に入るであろうその若者も、ヨチヨチ歩きの頃から剣を習い始めたルージュに敵うわけがない。ルージュの素早い動きと鮮やかな剣さばきにあっという間に追い詰められると、地面の起伏に足を取られて「うわッ!」と叫んだ。
「ああッ!」
途端に周囲から叫び声が上がり、緊迫した空気が中庭に流れる。咄嗟に若者の左手を掴んで助けようとしたルージュは、しかし次の瞬間うっかり自分のドレスの裾を踏んづけ、滑って『スッテーン!』と仰向けに倒れた。
「姫ッ!」
「姫様ッ!」
途端にそこにいた全員が大慌てで駆け寄る。ルージュはムクリと起き上がると、後頭部をゴシゴシ擦りながらみんなにニッと笑い掛けた。
「大丈夫ですか、姫!」
同じように尻餅をついた若者が、慌てたように立ち上がってルージュに駆け寄る。ルージュは笑顔で頷くと、差し出された若者の手を掴んで立ち上がった。
『楽しかった! ありがとう!』
人差し指で手の平に文字を書いて見せると、それを覗き込んでいた若者が驚いたように目を見開く。そしてルージュの無邪気な笑顔に視線を移すと、眩しそうに目を細めて笑った。
「こちらこそありがとうございました、姫。大変勉強になりました」
ところでどちらで剣術を、と問われて、ルージュは途端にドギマギする。真っ赤になって答えに窮していると、それを見たゴーヤが「それにしても」と言って楽しそうに笑った。
「まだ若手とは言え、城の選りすぐりの近衛兵がここまであっさりやられてしまうとは、指南役であるわたくしめもいよいよ引退ですなあ」
その言葉にルージュは慌てて首をブンブンと横に振る。ルージュを『姫』だと思っている若者の剣には最後まで躊躇いがあった。もし相手が同じ剣士であったなら、もっといい試合をしていたに違いない。もちろん、それは指南役もわかっているのだろう。「お前も一から鍛え直しだな」と言ってポンと若者の肩を叩いたその顔には、元は人懐こい性格なのか揶揄かうような笑みが浮かんでいた。
「それにしてもノアール様がルージュ様を正妻に望まれたお気持ちがよくわかりましたぞ」
ゴーヤの突然の言葉に、ルージュはキョトンとしてその顔を見返す。
「国中どこを探しても、これほどの剣を使える姫はそうはおりますまいからな。ルージュ様は文字通り、ノアール様の『懐刀』ということでございます」
(俺が……懐刀?)
その時、遠くでメイがルージュを呼ぶ声が聞こえる。ルージュは慌てて屋敷の方を振り返ると、大急ぎで再び手の平に文字を書いた。
『また来てもいい?』
上目遣いに見上げると、心配そうなその顔を見て指南役がハハハと笑う。
「もちろんです、姫。こちらこそ、毎日でも来てこいつらをビシビシしごいて頂きたいくらいです」
ルージュはその言葉に途端にパアッと笑顔になると、皆にブンブンと大きく手を振りながら駆け足で城に戻った。
「楽しそうだな、ルージュ」
ノアールが一日の公務を終えてルージュの私室に戻って来る。ソファに座って手仕事をしていたルージュは「おかえり!」と言って振り返ると、再び視線を俯けて先程からの作業に戻った。
「何をしてるんだ? 剣?」
ノアールの問い掛けにルージュは「おう」と答えると、持っていた剣を持ち上げて見せる。壁に飾られたまますっかりくすんでしまっていた剣は、見違えるほどピカピカになっていた。
「せっかくの剣なのに埃かぶってるんじゃ可哀相だからさ、いつでも使えるように手入れしといたんだ」
ルージュはそう言うと、それより、と言って壁を見る。そこには対となるもう一本の剣がポツンと一本だけ飾られていた。
「お前、擬い物を掴まされたぜ」
ルージュの言葉に、ノアールも壁に掛けられている剣を見る。そして、ああ、と得心したように答えると、壁に歩み寄ってその剣を掴んだ。
「これは別に擬い物じゃない。これはこれで価値があるんだ」
「刃が無いのに?」
そう、その剣には刃が無かった。真っ平らな鋼の板では大根は切れても人を切ることは出来ない。ルージュがキョトンとして尋ねると、その言葉にノアールが「そうだ」と言って頷く。そして、その剣を鞘からスラリと引き抜くと、切っ先を上げて刀身にルージュを映した。
「これは『退魔の剣』と言って、魔物が近付くと共鳴反応を起こしてカタカタ鳴り出すと言われている」
まだ聞いたことは無いがな、という言葉にルージュは目を丸くして「マジでッ?」と問い返す。
「だから、実際に聞いたことは無いと言っただろう」
ノアールはそう言って剣を鞘に納めると、再びそれを元の場所に戻した。
「ところで、もう風呂には入ったのか?」
ノアールの言葉に、自分が磨き上げたピカピカの刀身を高く揚げてためつすがめつ眺めていたルージュは「うんにゃ」と答える。ノアールは「そうか」と答えると、脱いだ上着をポンと椅子の背に放り投げた。
「では、一緒に入るか」
「うえッ???」
いきなり背中と膝裏に手を入れて抱き上げられたルージュは、剣を握り締めたまま硬直してノアールの顔を見上げる。
「手は出さない」
ノアールは抗議の眼差しに薄く笑って答えると、ルージュの体を軽々と抱いたまま寝室に入り、その先にある浴室へと向かった。
「でも、『見るな』とは言われていない」
「男の裸なんか見て何が楽しいんだッ!」
ノアールのシレッとした言葉に、ルージュはキッと目尻を吊り上げて真っ赤になって怒鳴り返す。途端にノアールはピタリと立ち止まると、腕の中のルージュを見下ろして大きな溜息をついた。
「仕方のない奴だな。次は口で塞ぐと言っただろう?」
言葉と同時にノアールがルージュの上に屈み込む。
「んんッ!」
宣言通りに唇を塞がれたルージュは、咄嗟にギュッと両目をつぶると、すぐにそおっと薄目を開けた。
(あ……)
間近に、薄く閉じた目蓋の奥から自分を見つめる美しい黒瞳が見える。初めて触れたノーアルの唇は、びっくりするほど柔らかかった。




