16
「猫ちゃん?」
いつもの川原で足を止める少女。
昨夜置いたダンボールの箱の中に、じっとしゃがみこんだまま、顔を上げる。
一緒にいた犬の姿は、ない。
「おじいちゃんは、どうしたの?」
辺りを見回してみる、が姿がない。
保健所に──、という言葉を思い出し、同時に少年との昨夜の様子を思い出す、が今朝の出来事が頭に浮かび、また、唇を噛む。
ミィ、とあくびのついでに声がでた猫の頭を撫でてやろうとして。
「タバコ?」
吸殻に気がつく。
万が一、火事になったら大変。
それに、タバコ、食べたら毒だって聞いた事ある。
こんなとこに捨てなくてもいいのに。
拾い上げて、ティッシュにくるんでポケットにしまうと、猫の頭を撫でる。
ふわふわと、柔らかくて指先がほんのりと温かくなる。
気持ちよさそうに目を細めて頭を摺り寄せてくるのが嬉しくて、思わず笑みを零す。
その、すらりと長かった尻尾。
「……!」
その先が、毛が剃られたようになって、赤く腫れ上がって……
「これ……っ!?」
腫れ上がったのではなく、「肉」なのだと、気がつく。
半透明な液体がにじみ出て。
昨日まであった部分はなく、傷のせいだろう、その先は異様に膨らんでいる。
「猫ちゃん、大丈夫っ!?痛くないっ!?」
思わず、指先で触れようとするが、触っていいものか躊躇う。
近くに触れた刺激を嫌がってか、尻尾を引っ込める猫。
敷き詰めたタオルやセーターにわずかに血が付着しているのを見つけて、言葉に詰まる。
「痛くない、わけ…ないよ…ね…」
呟くが、猫は撫でられるのが心地よいのか、ごろごろ、と喉を鳴らしている。
他にも誰かがエサをあげているのか、すぐ近くに陶器の器が置いてあり、中にはエサが入っているのをみて、ほんの少しほっとして。
誰かに、やられたんだろう…
でも、エサくれる人も、いるんだよね…?
どんな人が、こんなちっちゃいこの尻尾切るなんて…っ
ぐっ、と閉じた口の奥で、奥歯をかみ締める。
こんな、小さい子に、と腹ただしく。
許せない、と腹が立つが、どうしたらいいのか。
家に連れて帰る、と頭に浮かぶが、そこで考えが止まる。
ずっと、面倒を見ていく自信がない。
ただ、気まぐれのようにエサを与えて、撫でて、可愛がって。
そこで何か起きたらこうして苛立つしかできない。
もし、もっと酷いことが起きたとしても、どうしてやることも、できない。
無責任に、戯れに、気が向いたときに可愛がる。
まさに、そうなのだと思う。
責任がない、だから、何かがあっても、自分は責められることもないし、責める事も、できない。
しかし、責任を負うことが、余りにも重く感じられて。
「……ごめん…ね…」
呟いて、小さなその猫の頭を撫でて。
尻尾、切られちゃうなんて。
人間だったら、どういう気持ちなんだろう。
私に、尻尾はないけど、どれだけ、辛いんだろう。
……同じ目にあえば、いいのに。
そんなことして、平気で今もいるのかもしれないなんて思ったら、許せない。
同じ目に、同じ気持ち味わえば、いいのに…っ。
うん、河合さんに尻尾はないよね。
ネコミミと、尻尾、可愛くてボク大スキ。
よく、ニンゲンでもつけてる人いるけど、ちょっといいよね?
ニンゲンに、尻尾は、ない。
猫の尻尾と同じのって、ニンゲンだと、なんだろうね。
ボク、ふかふか大スキだから、そんな意地悪はキライ。
イタイのも、イヤなんだけどな。
ねぇ、河合さん。
そんなことしたのが、桜井君だってしったら、どうする?
桜井君も、尻尾はないよね。
ねぇ、どうする?
「あ、おじいちゃん!」
わずかに足を引きずりながらこちらへ向かってくる、犬。
乱れた毛皮のあちこちに、土が付いていて、それをぶるぶるっと体を震わせてはらう。
撫でてやると、ゴツゴツという、感触。
「ん…?」
みてみると、それは、乾いたご飯粒。
それが、長い毛に絡まってこびりついている。
「ちょっと、とるね。痛かったら、ごめんね」
そういって、それを押さえてぐっと引っ張る。
特に痛みはなかったらしく、首をかしげて、わずかに尻尾を振りながらその手を舐めてくる犬。
クンクン、と鳴らす鼻先に猫が体を伸ばして鼻を近づける。
すりすり、と顔をすり寄せ合うと、再び箱の中に座り込む猫。
「……足、ケガしてるの?」
引きずっていた足を見る。
外からは、目だった傷はないが、中まではわからない。
どうして、と唇を噛むが、やはり、どうしていいかわからない。
箱の側の皿からエサを食べると、そこに座り込む犬の背を撫でて。
「……ひどい、ね…」
呟いて。
「酷い人、イヤだよね…ごめん、私も、何もしてあげられなくて…」
隣に座り込むと、じっと川を見つめる。
穏やかな、天気のいい一日。
なのに、気持ちは暗く、冷たく。
これから、どうしたらいいのだろうか、と思う。
「私、これから、どうしようかなぁ…」
犬の背を撫でながら、呟く。
猫の小さな寝息が聞こえ始めて、ふっと肩の力を抜く。
「明日も、学校行かなくちゃいけないんだけど、行きたくないの…」
くぅん、と犬が鼻を鳴らす。
その鼻先をとんとん、と撫でて。
「おっきなケガしたり、事故とかあったら、学校、いけないよね…。行きたくても、行けないなら、仕方ないよね…」
うん。
行きたくないんじゃ、ないの。
行きたいんだけど、行けないもん。
それなら、親も心配しないよね?
ケガとかなら、動けないもん。
じっと見つめた視線の先は、川。
キラキラと太陽の光を反射して、水面が眩しい。
そっと立ち上がって、水辺に近寄って。
「………」
水面に指を近づける。
「冷たい……」
指先が痛くなって、川から指先を引き上げる。
その指先に、はぁっ、と息を吹きかけてぎゅっと握り締めて。
「──きゃっ!」
がらっ、と足場の石が崩れ、体勢を崩す。
冷たい水の感触が瞬時に頭に浮かび、無意識でか、体を捻る。
慌てて体をばたつかせ、その弾みに後の草むらに倒れこんで。
「……バカ、みたい」
ふう、と溜息をつく、少女。
実際、怖くて、逃げてるくせに。
ケガしたら、なんて、できるわけないのに。
川の水は、冷たくて。
思っていたよりもずっと、冷たくて。
ほんの数秒、指を浸しただけで、指先は酷く冷えて、痛んで。
──ほんとに、死にたいなんて、おもったわけじゃ、ないもん。
ただ、ちょっと、学校行けないくらいのケガができたらって──
そう思って、後でじっとこちらをみている犬と、目が合う。
「……ごめん」
したくて、したわけじゃない、ケガを負わされた犬と、猫。
痛みを癒すには、自分で、自力でただ、じっと。
誰も、好き好んでケガするわけじゃないんだよね…
私は、ケガしたら、おうちで。
ママに、病院連れてってもらって、温かい部屋で大人しくして。
でも、おじいちゃんと、猫は……?
病院、連れてってもらえなくて。
私、病院連れてってあげられなくて。
しようと思えば、出来ないことじゃないのに……
ごめん…
少女の目に、涙が滲む。
それだけが、ただ、熱くて。
ぐっと目をつぶって、涙が頬に零れ落ちる、その温かさを感じる。
それは、すぐに、冷たくなって。
ケガ、痛いよー?
ボク、この間爪噛んでたら指もかじっちゃってさ、いたかったもん。
でも、もちろん泣いたりなんてしなかったけどね?
だってほら、ボクはダンディな危険なナイスガイだもん。
そうそう、それに、死んじゃいたいなんて。
みたこと、ある?
お葬式って、大変なんだよ。
皆えーん、ってないてて、燃やしちゃったら、もう、顔とかもないんだもん。
骨だけがぽろぽろってあってさ。
ボク、なんだか見てたら淋しくなっちゃった。
でも、燃やしてあげないと、ニンゲン、腐っちゃうんだって。
温かかったのが、冷たくなって、すごいニオイがして。
どろどろって溶けていって、その頃は臭くて、同じ部屋にいれないんだって。
そして、いつか、骨になるんだってさ。
どんなビジンも、腐って、ぶわって膨らんで、最後は骨。
そうなるの、きっと、見てるの辛いよね?
死んじゃったら、燃やされても熱くないのかなー?
ボクだったらさー、
あ、でも、ボクは夢見るナイスダンディだからヒミツ。
「それじゃ、私、そろそろ行くね」
犬と猫に呟いて、少女は立ち上がる。
昼にはまだ時間がある、午前中の空気。
かさっと足元で音を立てる落ち葉を踏み分けて、すぐ側の家へ向かって、少女は帰路に着く。