11
キーンコーンカーンコーン
吐く息も白い冬の朝に響く、始業5分前の鐘。
生徒達が慌しく席に着き、教師が来るのを待っている。
いつもこの時間はざわざわと騒がしく、笑い声や挨拶が教室中に響き渡る。
席についているものは少なく、大抵が友人と笑い声をあげ、数名が忘れた宿題を慌てて仕上げ。
なんてことはない極ありふれた日常の始まりだ。
「桜井君、問題13って、答えA−13であってる?」
「いや、僕はA−15だったかな」
「え、ほんと?じゃぁ直しておくね!ありがとー!」
後方の席で交わされる会話を漏れ聞いてほっと一息つく少女、河合。
──よかった、合ってる。
今日はここあてられても大丈夫。
昨日の夜、教科書を調べながら出来た答えは、A−15。
彼の答えと同じなら、一安心だ。
「そういえばさ、昨日夜桜井君コンビニいなかった?」
「え?」
「11時過ぎだったかな、うちあの近くなの。塾の帰り?」
「あ、そうそう。昨日はちょっと遅くなってね」
「そうだったんだー」
昨日の夜、という言葉にドキっとして、一瞬肩を震わせる河合。
あのあと、コンビニよって帰ったんだ、とふと思って。
桜井君、そんなに帰り遅かったんだ。
なのに、宿題も完璧だし、ほんと凄いよね。見習わなくちゃ。
繋いだ手を思い出し、ふっと顔が赤くなるのを感じて両手で頬を覆う。
「てか昨日、河合も見かけたんだよね」
背後で交わされる会話なので、桜井の表情は窺い知れない。
ドキドキと、自分の鼓動が早くなるのを感じる。
……が、どうするわけにもいかず。
只、教科書を出して、筆箱を開け、予習の準備をなるべくゆっくり、時間を掛けて行う。
「車だったからあれ?って思ったんだけどさ、陸橋渡った時あの川原で見かけてさ」
「車だった?」
「うん、親が妹迎えにいくの付き合ってたの」
「そうなんだ」
「丁度家帰って、その後でコンビニで見かけてさ」
なになに?という感じで何人かが会話に加わるのが漏れ聞こえてくる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
先生早く来て…無駄話は止めろって…
桜井君、困る。
きっと、困ってる。
ほんとに、ほんとに偶然なのに…っ
「え、なに、昨日河合と桜井君一緒にいたの?」
「ちらっと来るまで通り過ぎただけだったけど、一緒にいるの見たよー」
「なんでなんで?」
振り向きたい、が振り向けない。
どんな様子になっているのか、少しでも知りたくて少女はひたすら息を殺し。
一度出したシャープペンシルをもう一度芯を入れなおし、聞こえていないフリを装う。
そして教科書を開き、必死で予習をしているフリをし、背後の会話に意識を集中する。
「たまたま、塾の帰り道にあの近くに頼まれごとがあったんだよ」
「河合んとこ?」
「いや、塾の友達でね。丁度通りがかった時に偶然あったんだ」
「マジー?桜井君見かけて、河合がでてきたんじゃないのー?」
「ありえるー!やーらしー!」
不意に出た自分の名前に、思わず反応して顔が僅かに動く。
それを、必死で気づかれないようにと、わざとノートをめくり、目に付いた単語を書き綴る。
───for the purpose of… 〜の目的の為に
───retribution …因果応報
───pretend …〜のフリをする・みせかける・言い張る・要求する
「違うよ、只本当に偶然だったんだ」
「えー、ほんとー?どうなのよー、か・わ・い・さーん?」
「ぜってぇ狙ってるよねー、図々しいっつーのっ!」
「変な病気もってそうだしー?桜井君騙されちゃだめだからねー?」
───alert…油断のない・機敏な・警戒
───coincidence…同時発生・偶然の一致
「本当にたまたまだって」
「もうすぐ修学旅行だし、一緒に行動してーとかいわれたらどうするー?」
この学校では、真冬のスキー合宿が修学旅行となっている。
観光地が地元であり、であるからこそ、そこをめぐるのではなく真冬に雪山で親睦を深め、スポーツを通して心身共に健全にという名目なのである。
が、3泊4日ものスキー合宿とはいえ、日程後半にはほぼ半数以上の生徒が筋肉痛で苦しみ、部屋にこもる。
仲の良い友人同士で一日中会話に熱中したり、ここぞとばかりにカップルが出来上がったりするので、なんだかんだいいながらも生徒の楽しみなのである。
「冗談でしょー?!てか河合と誰が同じ班になるわけ?」
「うちパース!」
「あたしもやだって!キモイし、あんなの居たら旅行台無し!」
「そんなこといわないでさ」
背中越しの会話、であるが故に声は聞こえても表情まではわからない。
最後の、とりなしのような桜井の声。
どんな表情で言っているのだろうか。
───collaborate …共同して働く・共同研究する
───sin …道徳上の罪
──
「ねー、河合ー」
はっきりと、呼びかけてくる声。
会話に自分の名前が出ているのを聞きながら、気づかれないようにと綴っていた単語。
ぴた、とノートに書き込んでいたシャープペンシルが止まり。
少女は返事を躊躇い、息を呑む。
「ちょっと、シカトしてんなっつーの」
「……はい…」
「あんたさー。修学旅行誰と組むわけ?」
「てかさ?昨日桜井君見つけてでていったんでしょー?」
「……ほんとに、偶然で…。班は……」
班、組む人なんて、いないもん…
向き直って、返事はしたもののうつむいたその視界に桜井の顔は映らない。
ただ、落書きが目立つ木製の机。
そして、クラスメートの足と、指先。
「班は、なに?誰と組むのってきいてんの」
「……私……」
「いいじゃないか、ほら、授業始まるから」
桜井がかける声に、ほっとする河合。
そうだ、もうすぐ授業が始まるんだ。
そうしたら、この話から逃げられる。
───キーンコーンカーンコーン
一分の狂いもなく、毎日の始業を告げる、鐘の音。
「ほら、チャイムなったぞ」
「あーあ、またねっ」
鳴り始まると同時に自分の席へと向かうクラスメート達。
ほっとして、再び自分の机に向き直る河合。
よかった…
でも、次の休み時間はどうしよう…
誰と班組むかなんて、決まってないし…
桜井君と昨日会ったのだって、本当に偶然なのに──
気づかれないように、押し殺して溜息をつく少女。
とりあえずは逃げられた。
とはいえ、授業が終われば、また休み時間になる。
それを思って、憂鬱な気分になる。
同時に、憧れの少年が庇ってくれた事を思い、ほんの少し気分が良くなる。
昨夜の出来事を思い出して、再び鼓動が早くなる。
偶然だけど……
「まだ、冷たいなら」
そう言って差し出された手を思い出す。
冷たい乾いた夜の空気の中、それがわずかに湿って温かく。
交わした会話は短かったとしても、あの時間のあの気持ちは特別なはずだ。
「…つか、先生おそくね?」
「誰かみてこいってー」
先生、遅いけど、どうしたんだろう。
少しずつクラス中が騒ぎ出すのを聞いて、不安が押し寄せてくる。
既に隣の席同士でなにやら話し始まっているクラスメートの声。
「"誰か"みてこいってー」
「もしかして自習?」
「マジどうしたんだろー?」
「だから、ほら、"だーれーかー"見てこいって」
"誰か"
"だーれーかー"
徐々に声が大きくなって、少女はぐっと唇を噛む。
「早くいってこいっつーの、"誰か"」
「気づいてないんじゃなーい?"誰か"はニブいんだし」
誰か。
…きっと、私じゃ、ないよね?
私じゃ、ないよ…ね?
「いいよ、それじゃ僕が見てくるから」
すっと、涼しげな声。
それが少年桜井のものだと瞬時にわかる。
「なんでー?桜井君いっちゃつまんないんだけどー!」
「つか、"誰か"シカトしてんなっつーの」
「いいよ、僕が行って来る」
「えー、なんで桜井君がー!河合庇ってるのー?」
「マジー!?」
会話の矛先が、僅かに少年に向くのを感じる。
一瞬、何かを期待して、僅かに安心したような、妙な気持ちになって少女は息を呑む。
その気持ちは、なんなのだろう。
当事者から、第三者に、ほんの一歩動いたかのような。
経験したことは無い、が。
暗闇で銃で狙われていたのが、風でそれて、逃げられた獣のような。
多分、しっくり当てはまる事はない。
うまく言い表すには、何が足りないのだろう。
逆に、何かが余っているのだろうか。
なんともいえない気持ちで黙りこくる河合の耳に。
桜井に。
クラスに。
一人の言葉が響く。
「もしかして、桜井君、河合ラブ?」
あーらら、こららっ?
クラスメートの女の子、やきもちやいてるってやつ?
うんうん、おもしろくないよねー。
自分が好きなコが他のコかばうなんてさー?
だもん、文句の一つもいいたくなるってやつ?
手に入らないんだったら、壊しちゃえ?
思い通りにならないと、ムッカムカ?
ベイビー達ったら、過激なんだね。
でも、それも恋の炎に身を焦がすってやつ?
そして。
河合さん、どうするの?
桜井君、どうするの?
「えー、マジで?」
「桜井君、そうなのー?」
「それ、すっげガッカリなんだけどー」
──どうしよう、どうしよう。
桜井君…
「つか、なんで河合なわけー?」
──桜井君……っ
「河合が彼氏もちー?ありえないんだけど」
「ねー、桜井君ー?」