第三話「始末書、三千枚目」
始末書というものは、節目がある。
百枚目を書いた日のことは覚えている。手が少し痛かった。五百枚目は覚えていない。たぶん普通の日だった。千枚目は秩序さんに「千枚に達しました」と報告されて、初めて気づいた。「そうですか」と言った。それだけだった。
今日、三千枚目に達する。
昨日の夜に計算した。今日の業務を終えて、手続き漏れの始末書を書いたら、ちょうど三千枚になるはずだ。
節目だ。
何かが変わるわけではない。三千一枚目もある。でも節目は節目だ。
……今日くらいは、少し早めに終わりたいな。
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第一章「水曜の案件」
◆ 朝、業務室
水曜日だった。
月曜が三百二件で、火曜が十七件だった。水曜の件数を端末で確認した。二十四件。微増だ。昨日より七件多い。多い、という事実だけ確認して、ため息を一回ついてから、一件目を開いた。
コーヒーを先に入れた。今日は最初から温かいうちに飲む作戦だ。マグカップを近くに置いておく。
一件目。第302世界線が「全住民の時間の流れが人によってバラバラになった」。ある人には一秒が一秒で、別の人には一秒が十秒に感じられる。会話が成立しない。仕事ができない。信号が守れない。社会が機能不全に陥っている。
時間知覚の統一補正を行った。全住民の主観時間を標準値に揃えた。一部の住民が「ゆっくりの時間が良かった」と言ったかもしれないが、確認しなかった。
処理時間:十二分。コーヒーを一口飲んだ。温かかった。良かった。
二件目。第19世界線が「全員の名前の読み方だけ変わった」。漢字はそのままで、読みだけ全員別の読み方になった。「田中」が「たなか」ではなく「でんちゅう」になっている。本人たちは新しい読み方に慣れてきているが、書類や記録との整合性が取れなくなってきている。
読み方を元に戻した。一部の住民が新しい読み方を気に入っていたので、希望者だけ変更申請できる仕組みを追加した。処理時間:十五分。
三件目を開いたところで、ドアをノックする音がした。
「……はい」
ドアが開いた。
流焔ちゃんだった。
◆ 流焔ちゃんが来た
流焔ちゃんが業務室に入ってきた。虎縞の黄色い短い髪が、廊下の光を受けてやたら明るく見える。焦げたスカーフを首に巻いている。今日も袖を片方だけまくっている。じっとしていない。
「世達ちゃん!」
「……おはようございます。何ですか」
「あのさ、今日ちょっとお願いがあって」
流焔ちゃんが業務室に入ってきた。狭い。四畳半の業務室に二人いると、けっこう狭い。流焔ちゃんがそわそわしているぶん、余計に狭く感じる。
「座ってください」
「あ、うん」流焔ちゃんが椅子に座った。でも座り方がそわそわしている。膝の上で手を動かしている。「えっとね、先週の外の仕事で、ちょっとやらかしちゃって」
「……何をやらかしたんですか」
「えっとね……第552世界線に配達に行ったんだけど、そこの草原を少し、燃やしちゃって」
「少し」
「……だいぶ」
私は端末を開いた。第552世界線のログを確認した。
先週火曜日。流焔ちゃんの配達記録。配達完了。備考欄に「周辺環境に軽微な影響あり」と書いてある。
地図データを見た。
……草原の六十パーセントが消失していた。
「……「だいぶ」どころじゃないですね」
「ごめんなさい!」流焔ちゃんが頭を下げた。「でも配達はちゃんとできたんだよ! バーガーは無事に届けた! ただその時に少し炎が——」
「始末書が必要です」
「……そうだよね。でも私、始末書の書き方がよくわからなくて。世達ちゃん、詳しいじゃん」
詳しいのは事実だ。二千九百九十何枚か書いているので。
「……草原が回復するまでの期間の試算と、原因の説明と、再発防止策を書けば基本的な形にはなります」
「全部わかんない!」
「……今から教えます」
「いいの!?」
「始末書は早く書いた方がいいので」
流焔ちゃんがぱっと顔を明るくした。その明るさが少し眩しい。朝の業務室に向いていない明るさだ。でも悪い気はしない。
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第二章「始末書講座と、三千枚目」
◆ 始末書の書き方
流焔ちゃんに始末書の基本を教えた。
まず事実だけ書くこと。感情はいらない。「うっかりしていました」は感想なので書かない。「炎の制御範囲の見積もりが実際の出力と乖離していた」が事実だ。
「難しい言い方だな……」と流焔ちゃんが言った。
「難しく書く必要はないですが、感情を排除する必要はあります」
「なんで?」
「始末書は記録書類なので。読んだ人が事実を把握できれば十分で、書いた人の気持ちは必要ないんです」
「でも反省してるんだよ? それは書かなくていいの?」
「反省は行動で示すものなので。再発防止策の欄に書く内容がそれに当たります」
流焔ちゃんがうーんと唸りながら、始末書の用紙に何かを書き始めた。私は自分の案件を処理しながら、時々流焔ちゃんの手元を確認した。
五件目を処理し終えた頃、流焔ちゃんが「できた」と言った。
確認した。
事実の欄:「第552世界線への配達中、炎の制御範囲の見積もりを誤り、周辺草原の約六割を焼失させた。配達自体は完了」。
原因の欄:「風向きの確認が不十分だった。配達対象に集中するあまり周囲の環境確認が疎かになった」。
再発防止策の欄:「配達前に風向きと周辺環境を確認する手順を追加する。炎の出力を配達時は標準の七割に抑える設定にする」。
……思ったより、ちゃんと書けている。
「……よく書けています」
「ほんと!?」流焔ちゃんが顔を上げた。「世達ちゃんに褒められると思わなかった」
「褒めてはいないです。よく書けているという事実を言いました」
「それって褒めてるじゃん!」
私はそれには答えなかった。始末書を秩序さんへの提出用に整えて、流焔ちゃんに返した。
「これを秩序さんに提出してください」
「わかった! ありがとう世達ちゃん!」
流焔ちゃんが立ち上がった。業務室が少し広くなった。
「……あと一個だけ聞いていいですか」
「うん?」と流焔ちゃんが振り返った。
「第552世界線の草原、燃やした時どうでしたか」
流焔ちゃんが少し考えた。
「……きれいだった」と流焔ちゃんが言った。「夕方でさ、燃えてる草原が夕日と同じ色になって。まずいと思いながら、きれいだとも思った。両方同時に」
「……そうですか」
「なんで聞いたの?」
「……始末書に書かなくていい部分が何かを確認したかっただけです」
流焔ちゃんが「なんかいいな、それ」と言って出ていった。
業務室が静かになった。
私は次の案件を開いた。
◆ 午後。二十三件目
午後三時を過ぎた頃、二十三件目を処理した。
今日の案件は残り一件だ。
第7世界線の定例確認を午後に回していた。本来は午前中に見るのだが、今日は流焔ちゃんとのやりとりで少しずれた。
観測画面を開いた。
村が映った。午後の光だった。
川のそばに、いつもの住人がいた。今日は水を汲んでいるのではなく、川に足を入れて座っていた。靴を脱いで、足先だけ川に浸けている。水が冷たいのか温かいのか、こちらからは分からない。ただ、その人がのんびりした顔をしているのは遠目にも分かった。
子供の姿が見えない。昨日は広場にいたが、今日はいないのか、別の場所にいるのか。
……まあ、どこかにいるだろう。
「特異事象なし。継続観測を推奨」と書いて、提出した。
今日の案件、全部終わった。
二十四件。
◆ 夕方。三千枚目
案件が終わったのは午後五時だった。
今日は早い。定時に近い時間に終わった。珍しい。
手続き漏れを確認した。今日は三件あった。始末書を三枚書いた。
三枚書き終えた時点で、私は少し手を止めた。
枚数を数えた。今日の三枚を含めて——ちょうど三千枚だった。
……三千枚。
紙の束を見た。今日の三枚が一番上にある。その下に昨日の五枚がある。その下にずっと、積み重なっている。部屋の隅のラックに収まっているぶんと、秩序さんに提出済みのぶんを合わせると、三千枚だ。
何かが変わったわけではない。
明日も始末書を書く。案件があれば処理する。三千一枚目が来る。
でも三千枚という数字は、今日ここにある。
私はしばらく、何もしなかった。椅子に座って、ラックを見ていた。
……まあ、よくやった。私。
誰かに言う言葉でもないし、言う相手もいないので、頭の中だけで言った。
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第三章「今日の終わり」
◆ 夕方。廊下で
業務室を出た。
廊下を歩いていたら、郷愁ちゃんとすれ違った。ピンクと白のレトロな制服で、お盆に何かを乗せて運んでいた。
「あら、世達ちゃん。今日は早いのね」
「……珍しく定時に終わりました」
「それはよかった。お茶、飲んでいく?」
郷愁ちゃんが「黄昏」に向かっているのだと分かった。郷愁ちゃんの拠点、昭和の夕暮れが続く喫茶スペースだ。
今日は三千枚目だ。
「……少しだけ」と私は言った。
◆ 「黄昏」にて
「黄昏」に入った。
窓の外はいつも夕暮れだ。橙色の光が差し込んでいる。今日みたいに外が明るい時間でも、「黄昏」の中は夕方だ。不思議なことだが、慣れた。
郷愁ちゃんがお茶を入れてくれた。湯呑みに、薄い黄色のお茶が入っている。においがした。草のような、でも甘いような、落ち着いたにおいだ。
「何のお茶ですか」
「第338世界線の茶葉よ。あそこは植物の種類が豊かで、この葉は疲れた時に飲むといいって言われてたの」
「……第338世界線は」
「もう終わった世界線よ」と郷愁ちゃんが静かに言った。「でも茶葉は残ってる。飲んでいれば、少しだけあの世界線のことを覚えていられるでしょう」
私はお茶を一口飲んだ。
温かかった。草のにおいと、少しの甘さと、知らない世界線の午後みたいな感触があった。
「……おいしいです」
「でしょう」と郷愁ちゃんが笑った。
しばらく二人で静かにいた。郷愁ちゃんは何も聞かなかった。私も何も言わなかった。窓の外の夕暮れが、変わらずそこにあった。
「……今日、始末書が三千枚になりました」と私は言った。
郷愁ちゃんが少し顔を上げた。
「三千枚」
「はい」
「……それは、大変だったわね」
「大変でした」と私は素直に言った。「でも、一枚ずつ書いてきたので」
「そうね」と郷愁ちゃんが言った。「一枚ずつ書いてきたのね」
それだけだった。郷愁ちゃんはそれ以上何も言わなかった。責めるでも、慰めるでもなく、ただ「そうね」と言った。
それが、ちょうど良かった。
お茶を飲み終えた。湯呑みを置いた。
「ありがとうございました」
「またいつでも来て。茶葉はまだあるから」
私は「黄昏」を出た。
◆ 203号室
自分の部屋に戻った。
203号室。現代日本の重力が支配する狭いアパートだ。六畳一間。机と、本棚と、始末書のラックと、冷蔵庫と、ベッド。それだけ入れるとほぼ満杯になる。
冷蔵庫を開けた。
昨日コンビニで買っておいたプリンがあった。
プリンは節目の日のために買っておいたわけじゃない。昨日コンビニで見かけて、なんとなく買っただけだ。でも結果的に今日食べることになった。
プリンを持ってベッドの端に座った。
スプーンで掬って食べた。
甘かった。カラメルが少し苦くて、プリン本体が甘い。そのバランスが好きだ。カップ麺も好きだが、プリンはまた別の良さがある。疲れた日の甘さは、疲れていない日の甘さより少し違う味がする。
三千枚。
始まりは、世界線の処理順序を一つ間違えたことだった。本来の終わり方とは少し違う終わり方を、ある世界線にさせてしまった。その世界線の人たちが、少しだけ悲しい終わり方をした。ほんの少しだけ。でもそれが三千枚分だった。
三千枚書いたら、何かが終わるわけじゃない。書いても、あの世界線の終わり方は変わらない。変えられない。
それでも書いてきた。
理由は——うまく言葉にならない。でも書き続けてきたのは事実で、今日三千枚になったのも事実だ。
プリンを食べ終えた。容器を捨てた。
机に座った。今日の始末書の三枚を、もう一度見た。ラックに重ねて入れた。
電気を消した。
横になった。目を閉じる前に思った。
明日、第7世界線を見たら、子供がいるといい。
それだけ思って、寝た。
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◇ 業務記録モノローグ —— 世達 午後八時二十分
今日の件数:二十四件。
処理完了:二十四件。
未処理:零件。
始末書記入漏れ:三枚(本日中に対応済)。
始末書累計:三千枚。
定時退勤:できた。
おやつ:プリン一個(カラメル多め)。
特記事項:流焔さんの始末書指導。郷愁さんのお茶(第338世界線産)。第7世界線、今日も継続中。
……以上。




