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第二話「有給、取れませんでした」

 有給休暇というものがある。



 労働者が賃金を受け取りながら休める権利だ。私は入職時の契約書に「有給:適用」と書かれていたのを覚えている。契約書には他にもいろいろ書いてあったが、「適用」という文字を見た時だけ、少しだけ安心した。



 今日、私は初めて有給を取ろうとした。



 理由は単純で、昨日が三百二件で深夜一時帰りだったから、今日くらいは休んでいいと思ったからだ。朝から端末を開いて、有給申請フォームを出した。「取得日時:本日」と入力して、申請ボタンを押した。



 端末から通知音がした。



 「承認待ち:秩序」と表示された。



 ……まあ、そうなりますよね。




───────────────────────


第一章「秩序さんと、有給の話」



◆ 朝、秩序さんの執務室前



 秩序さんの部屋の前には、小さな表示板がある。「在室中」か「不在」か「業務中(応答不可)」かが切り替わる。今日は「業務中(応答不可)」だった。



 ……だいたいいつもこれだ。



 私はドアの前で三分待った。表示が変わらなかった。



 ノックした。



 少し間があった。



「……どうぞ」



 入ると、秩序さんが机で書類を見ていた。机の上は塵ひとつない。書類も定規で揃えたように整列している。私の203号室とは宇宙的な差がある。



「おはようございます。有給の件で来ました」



「おはようございます。確認しています」秩序さんがペンを持ったまま顔を上げた。「昨日三百二件処理したのは把握しています。お疲れ様でした」



「……ありがとうございます。それで今日は——」



「一点確認なんですが」と秩序さんが言った。「今日の午後、第443世界線で軽微な観測ズレが発生する可能性があります。担当者が世達さんである以上、念のため確認をお願いしたいんですが」



「……今日は有給を——」



「第443世界線の観測は十五分で済みます。午後三時の予定です」



 ……十五分。



 私は少し考えた。十五分だけなら、有給中でも対応できるか? でも有給中に業務をしたら、それは有給じゃない。



「……有給中の業務は、有給とは言わないと思うんですが」



「そうですね」秩序さんが少し間を置いた。「では、有給の取得日を明日以降にずらすことは可能ですか」



「……明日は、案件が来ないとは言い切れないですよね」



「そうですね。それは保証できません」



 私と秩序さんはしばらく無言で向き合った。



 秩序さんの表情は変わらない。責めているわけでも、困っているわけでもない。ただ事実を言っている顔だ。秩序さんの言う事実は、たいてい正しい。それが余計にきつい。



「……今日の観測は、私じゃないといけないですか」



「代替担当を探すことは可能です。ただ——」と秩序さんが少し間を置いた。「第443世界線は世達さんが一年担当してきた世界線です。他の担当者が対応する場合、引き継ぎに三十分かかります。そうなると今日の処理コストが増えます」



 十五分か、三十分か、という話だ。



 ……わかってる。わかってますよ、そういう構造なのは。



「……有給申請を本日付で取り消します」と私は言った。「午後三時に第443世界線を確認します」



「承知しました。お疲れのところ申し訳ありません」



「……いえ」



 私は執務室を出た。



 廊下に出てから、一回だけため息をついた。長いやつ。三百二件分の疲れが全部入ったくらいの長さのため息をついた。



 それから業務室に向かった。




───────────────────────


第二章「午前中と、小さな案件たち」



◆ 業務室。端末を開く



 今日の案件数は、十七件だった。



 昨日の三百二件と比べると、十七件は少ない。数字だけ見れば少ない。昨日の一割にも満たない。でも疲れた体で十七件と、通常コンディションで十七件は、同じ十七件じゃない。



 ……まあやるしかない。



 コーヒーを入れた。今日はちゃんと温かいうちに飲めた。小さいことだが、それだけで少し気持ちが前に向く。



 一件目を開いた。第61世界線が「全住民の声が突然オペラになった」。



 ……なんですかそれ。



 調査した。原因は、その世界線の大気成分に微妙な変化が起きて、声帯の振動数が変わったからだった。住民は何も悪いことをしていない。ある朝起きたら全員オペラになっていただけだ。



 大気成分を元に戻した。住民の声が通常に戻った。



 一部の住民が「オペラの方が良かった」という反応を示した。それについては何もしなかった。



 処理時間:十一分。



 二件目。第188世界線が「全員の影が逆方向を向き始めた」。



 光源の問題か存在認識の問題かで処理方法が変わる。調べたら存在認識の問題だった。「影」という概念が世界線内で微妙にズレていた。概念の再定義を行った。影が正しい方向を向いた。



 処理時間:八分。



 ……今日は案件が地味だ。



 地味なのは良いことだ。昨日が大変だったぶん、今日が地味なのはありがたい。でも地味な案件を疲れた状態で処理するのは、それはそれで少しだけ虚しい感触がある。なんというか、手応えがない。昨日は三百二件あったので手応えがあったかというと、それはそれで手応えどころではなかったが。



 三件目。第29世界線が「全員が同じ夢を見ている」。



 夢の内容を確認した。「広い草原を歩いている夢」だった。特に何もない夢だ。害もない。でも全員が同じ夢を共有しているのは、世界線の認識が一部共有状態になっているサインで、放置すると集合意識化が進む可能性がある。



 夢の共有接続を切断した。全員の夢がバラバラになった。



 一部の住民が「あの夢の続きが見たかった」という感想を持ったかもしれないが、確認はしていない。



 処理時間:十四分。



 コーヒーを一口飲んだ。もう少し温かかった。良かった。




◆ 午前十一時。第7世界線の定例確認



 午前十一時になった。



 今日の第7世界線の定例確認時刻だ。週に一度ではなく、最近は毎朝確認するようにしている。別に義務ではない。ただ、確認しておきたい気持ちがある。



 観測画面を開いた。



 村が映った。朝だった。第7世界線の朝は、こちらの朝と大体同じ時間帯に来ることが多い。理由は分からないが、そういう世界線だ。



 煙が出ている。何軒かの家から朝の炊事の煙が出ている。川のそばに昨日いた住人が今日も出てきていて、水を汲んでいた。子供が一人、家の外を走り回っている。犬がそれを追いかけている。



 今日も変わっていない。



 私は少しの間、それを見た。



 特に何もない。案件も何も起きていない。ただ朝の村が、朝らしいことをしているだけだ。何かを期待して見ているわけじゃないが、見てしまう。



 ……なんで滅びないんですか、この世界線。



 答えはない。観測ツールで原因を調べようとしたことが一度あるが、「特異事象なし」としか出なかった。ぱんでむに来てから担当になって以来、ずっと「特異事象なし」だ。滅びる気配がない。でもそれは良いことなので、何もしない。



 子供が犬を捕まえて、一緒に転んだ。二人でゴロゴロ転がった。犬が子供の顔を舐めた。子供が笑った声が、観測ツールからかすかに漏れてきた。



 ……元気だな。



 今日もレポートを書いた。「特異事象なし。継続観測を推奨」。



 閉じた。次の案件を開いた。




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第三章「午後三時と、第443世界線」



◆ 有給が消えた午後



 昼飯はコンビニのサンドイッチだった。昨日の鮭おにぎりと比べると、少し豪華だ。タマゴサラダのやつ。それだけで少し気持ちが上向いた。自分でも単純だと思う。



 午後の案件を処理した。



 第77世界線が「雨が上に降っている」。重力の局所的な反転だった。該当エリアの重力を補正した。処理時間:七分。第201世界線が「全員の記憶が十年前にリセットされた」。認識ログを復元して現在時点に同期した。処理時間:十九分。



 午後三時になった。



 端末に通知が来た。「第443世界線・定例観測」。



 ……来た。



 私は有給を取れなかったことを改めて思いながら、観測画面を開いた。




◆ 第443世界線



 第443世界線は、海の世界線だ。



 陸地が非常に少なく、全体の九十三パーセントが海だ。住民は海上の浮遊都市に暮らしていて、漁業と交易を主な産業としている。人口は多くない。世界線としてはかなり安定していて、滅びる気配が薄い。私が担当して一年になる。



 今日の観測の目的は「軽微な観測ズレの確認」だ。正確には、先週の定例観測で、第443世界線の浮遊都市の一つの座標が通常より三十メートルほどずれていたことが分かって、それが継続しているか、あるいは修正されているかの確認だ。



 観測画面を開いた。



 海が映った。



 青い。深い青だ。空も青くて、雲が少ない。浮遊都市が遠くに見える。城みたいな形をした建物が、海の上にゆっくり浮いている。



 座標を確認した。



 ……三十メートルのズレが、四十メートルになっていた。



 ゆっくりと、都市がずれている。原因を調べた。海流の変化に引きずられて、係留システムに微細な負荷が積み重なっているようだった。このまま放置すると一ヶ月後に係留が外れて、都市が漂流する。



 処理した。係留システムの補正設定を調整して、海流変化に対して自動補正が入るように変更した。テストした。問題なかった。



 処理時間:二十三分。



 ……十五分じゃなかった。



 まあ、見てみないと分からないこともある。



 観測画面を閉じる前に、少しだけ都市を見た。



 城みたいな建物の上に、誰かが立っていた。手すりにもたれて、海を見ている。遠いので顔は分からないが、ただ海を見ているのは分かった。風が吹いているのか、服の端がゆっくり揺れている。



 その人が何かに気づいて、上を向いた。



 雲が来ていた。雨雲だ。さっきまで晴れていたのに、遠くから大きな雲が流れてきた。その人が空を見上げて——少し、笑ったように見えた。



 雨が来る前に外に出てきたんだろうか。



 私は観測画面を閉じた。



 残り、七件。続きを処理した。




───────────────────────


第四章「今日の終わり」



◆ 午後九時



 七件を処理し終えたのは午後九時だった。



 昨日より四時間早い。



 端末を閉じた。業務室が静かになった。



 今日の疲れは昨日より少ない。件数が少なかったから当然だ。でも昨日の疲れが完全に抜けていないので、足し算になっている。合計するとけっこう疲れている。



 私は椅子に座ったまま、少しだけ動かなかった。



 今日、有給を取れなかった。十七件処理して、第443世界線の観測をして、有給を取れないまま終わった。それが悔しいかというと、そこまでではない。ただ「そういうことがあったな」という感触が残っている。明日もたぶん何か案件が来る。明後日もそうだ。有給をいつ取れるかは、正直分からない。



 まあ、それはそれとして。



 引き出しを開けた。昨日使ったカップ麺の容器はもう捨てた。今日の分が残っているはずだ。



 ……なかった。



 もう一個あると思っていたが、なかった。補充を忘れていた。



 少し考えた。コンビニが遠いかと思ったが、ぱんでむから渋谷に出れば近い。でも今から渋谷に出るのは少し億劫だ。



 廊下に出た。



 リビング・オブ・カオスに向かった。共有のキッチンに、非常用のカップ麺が置いてあることがある。



 キッチンを開けた。



 あった。一個だけ、塩味のカップ麺があった。私のじゃないかもしれない。でも誰のかも書いていない。非常時用の共有備品と解釈することにした。後で一個補充しておく。



 お湯を沸かした。



 待っている間、リビング・オブ・カオスのソファを見た。安寧ちゃんがいた。コタツではなく今日はソファで、クッションを顔に乗せて仰向けになっていた。寝ているのか起きているのか分からない。



「……安寧さん」



「……zzz……」



「寝てますか」



「……ん……起きてる……たぶん……」



「今日、私は有給取れませんでした」



「……そっかあ……大変だったね……zzz……」



「また寝てますよね」



「……んん……聞こえてる……お疲れ……」



 安寧ちゃんがクッションの向こうから手を一本だけ出した。親指を立てていた。



 ……なんとなく、少し笑えた。



 お湯が沸いた。カップ麺を作った。三分待った。



 食べた。



 塩味だった。私は普段醤油味を選ぶが、塩味も悪くない。すっきりしていて、疲れた時にちょうどいい塩気がある。今日みたいな日に、誰かが補充しておいてくれたカップ麺が塩味だったのは、たまたまだが悪くない組み合わせだった。



 食べながら、少し考えた。



 今日、第443世界線の都市の上で、雨が来る前に誰かが空を見上げて笑っていた。なぜ笑ったのかは分からない。雨が好きなのかもしれない。雨が来る前の空気が好きなのかもしれない。ただそれだけのことかもしれない。



 でも、その人はその瞬間にそこにいて、空を見上げて、笑った。



 処理は十五分の予定が二十三分かかったが、その二十三分がなければ私はそれを見なかった。



 ……まあ、そういうこともある。



 塩味のカップ麺を食べ終わった。



 容器を捨てた。キッチンに補充用のカップ麺を一個置いた。醤油味にした。次に誰かが取る時のために。



 部屋に戻った。



 始末書を五枚書いた。今日の処理で手続き漏れが五件あった。昨日より少し多い。疲れていたからだと思う。



 机に積んである始末書の束を見た。まだある。だいぶある。でも今日の五枚を足した分だけ、また少し増えた。



 いつか終わる。たぶん。



 電気を消した。



 横になった。目を閉じる前に一つだけ思った。



 明日こそ有給を申請してみよう。



 たぶん、また何かある。でも申請するだけはしてみよう。



 それだけ思って、寝た。




──────────────────


◇ 業務記録モノローグ —— 世達 午後九時四十分



 今日の件数:十七件。


 処理完了:十七件。


 未処理:零件。


 始末書記入漏れ:五枚(本日中に対応済)。


 有給取得:できなかった。


 カップ麺:一個(塩味、共有備品より拝借。醤油一個を補充済)。


 特記事項:第443世界線・係留補正完了。第7世界線、今日も継続中。城の上で誰かが雨前の空を見て笑っていた。



 ……以上。


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