68.女心の不思議
「あ……。もう、お風呂の時間……?」
と、シュエンは不思議そうな表情で、周囲を見回した。
「ううん。ちょっと、シュエンのことが気になって、立ち寄らせてもらっただけ」
「ふーん……」
胡坐をかいて座るシュエンの膝の下あたりに置かれた、食べかけの粥が気になる。
「食べてないの?」
「美味しくないから……」
「食べないと、体がもたないよ」
「うん……、でも、喉を通らないし……。美味しくないし……」
俺は粥をひと口、食べてみた。
――美味しくないのは、ホントだな。
シュエンは、急にそわそわし始めて、視線を泳がせた。
「お風呂は……? お風呂は、まだ?」
「うん。まだ、夜だ……」
こんな精神状態で、それでもシキタリを守ろうと追い詰められてるように、俺の目には映った。
この国の人たちがシキタリを重んじていることは解るつもりだ。だけど、俺の感覚では心を縛る因習のように感じてしまうのも抑えられない。
あのキャッキャした大浴場が、そんな思いをしてまで行かないといけないものには、俺にはどうしても思えなかった。
「シュエン、無理してお風呂に行かなくてもいいんだよ。ちゃんと休んで、元気になったときに……」
と、俺が語りかけると、話の終わる前にシュエンの表情が変わった。
「イヤ!! お風呂に行かせて! お風呂に行っちゃダメなの? マレビト様、私、お風呂に行ったらダメ?」
俺の胸に腕を押し当て、ひどく取り乱すシュエンに俺もツイファさんもメイユイも、ただ驚いてた。
「ううん。シュエンが本当に行きたいんなら、俺は全然構わないんだけど……」
シュエンは、おでこを俺の胸に押し当て、俯いた。
「……みんながね」
「うん……」
「帰って来るの……」
「……」
「朝になると……、剣士が帰って来る……。奥さんや、子供が、飛び出してきて……、泣いて喜んでる……。毎朝……、毎朝……」
「うん……」
「私が外に出て待ってても……、お父さんは帰ってこないの……。みんなが抱き合って、宿舎の中に入っていっても……、私は独りなの……」
シュエンの声には感情の色がない。
「お風呂に行けば……。見なくていい……。帰って来る剣士も……、出迎える家族も……」
「そうか……」
「お風呂に行けば……。独りじゃない……。それに……、お風呂にいるのは……、家族じゃない……」
「うん……」
「なんか、変な集まり……」
絶妙に口が悪いな。
「だから……。私も、お風呂に行かせて……?」
「うん、いいよ」
「ほんとう……?」
「ああ、本当だ」
「よかったぁ……」
シュエンは額を俺の胸に押し当てたまま動かない。
シアユンさんの「シキタリを半分だけ守りたい」という妙な理屈で始まった、あの妙ちくりんな『女風呂プラス俺、あるいはハーレム風呂』だけど、シュエンの心が壊れるのをギリギリで食い止めてた。シュエンの逃げ場として機能してた。
なにもかもがギリギリのこの城の中で、ギリギリのバランスで持ち堪えてるこの城の中で、あの大浴場にも果たしている役割があった。
でも――。
俺はシュエンの肩にそっと手を乗せ、スベスベの肌に内心ドキッとしながら、ツイファさんの方を向いた。
「シュエンを宮城に連れて帰りたいんですが」
「宮城にですか?」
「ここに、このまま独りにはしておけません」
「確かに……」
と、ツイファさんは少し考え込んだ。メイユイを見ると涙ぐんでる。シュエンの話に共感してしまったのだろう。メイユイが鼻声で口を開いた。
「わ、私の部屋に連れて帰ります!」
……いや、メイユイの部屋って。
「メイユイ。あなたは今、マレビト様のお部屋に、護衛で泊まり込んでいるのでは?」
と、ツイファさんがクスッと笑いながら言った。
「あっ」
「分かりました。この娘は、私の部屋で預かります」
と、ツイファさんは俺の胸に顔をうずめたままのシュエンに近付いて、背中にそっと手を置いた。
「こう見えて、私もあれこれ忙しいのですよ。部屋の掃除などしてもらえると、大変助かります。シュエン? 良かったら、私の手伝いをしてくれないかしら……? 私の部屋だと、お風呂も近くなりますしね。どう……?」
しばらく固まったまま動かなかったシュエンは、やがて小さく頷いた。
そして、シュエンを着替えさせるからといって、俺は部屋の外に出された。
……。
俺、既に、大浴場でシュエンの、全部、見ちゃってるんだけど……?
と、女心の不思議――なのかも、分からない――に、俺は首を傾げながら外で待っていた。