9 イリー暦146年 湿地帯
『湿地、あいかわらずものすごいわよね』
「ぬかぬかのぐっちょぐちょです。まさに天然の防壁」
とある晴れた夏の日。
市を囲む湿地帯の防衛壁へ視察に出る王、それに付き従うミルドレ、さらにそれにくっついてゆく黒羽の女神である。
と言っても、王自身が泥炭の中へ踏み込む事はもちろんなくて、草地から遠巻きに眺めるだけだ。
少し風がある、女神にむけたミルドレの低い囁き声を聞きとめる近衛騎士など皆無である。
『ここで見張りをしている二級騎士って、市民兵のことなのよね』
「ええ。二十一歳から二年間だけ、義務で兵役やってもらってる平民の皆さんです」
『ここでずーっとがんばるのは、辛いわよね……。昔は騎士が城壁守ってるだけだったけど』
「私もあんまり有効だと思いません。湿地は天然防壁そのままにしとくとして、街道沿い中心に別の防衛拠点をいくつか置いた方が、良いと思うんです」
『騎馬兵おくのね』
「そう。傭兵でも良いと思うんです、とにかく職業軍人ね。今の状態じゃ、ほとんどしろうと同然の市民兵を一番きつい所に配備して、むだに消耗させるばっかりで意味うすいです」
王を中心とした近衛騎士らが、がやがや移動する。その一団からふいと抜けた者が一人、ミルドレのそばに寄ってきた。
「今夜のこと、聞いたかい」
同期の文官騎士である。王室身辺の細々したことを切り回す、字のうまい男だ。
「いいえ。私は当直だったはずですけど、何かお出かけでも入ったんですか?」
「また例の方向で、内々の夜会なんだってさあ。東区だって……。正直、お供するの嫌になるよ。君、“傍ら”なんだし代わってくれないかね?」
「無理ですよう」
どちらも苦笑した。
「かわいそうにね、……ティユール様も。これじゃますます遠くなっちゃうって、分かんねえかなあ、じじい連……。仲悪いわけじゃ全然ないってのに。はあ」
同期文官は疲れた翠の目で、ミルドレを見る。
「君んところは絶好調で、本当にすばらしいよ。こんど三人めだったよね」
「ええ、おかげさまで」
ミルドレの草色外套のかげに隠れつつ、黒羽の女神は頬っぺたをあかくして、うつむいた。
――ほんとはその七倍、いるのだけどね。