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6 嵐の晩に

 それからひと月、ふた月、みつき。


 ミルドレは東の鐘楼を訪ねて来なかった。


 黒羽の女神はてっぺんの透かし堂にうずくまったまま、もう下に降りていくこともなかった。


 かの女は城の中の会話に、耳を閉じた。人間たちの声を拾わなくなった。


 代わりにひたすら海を眺めた、風を感じて空を見つめ続けた。変わりゆく世界のいろどり、温度湿度の上下にのみ細心の注意を向けて、そうして他のことを考えないようにした。


 けれどテルポシエの気候は、一日のうちにくるくる変わる。


 小雨が降って止んで照って、まるで凝縮された一年のように、一日のなかに四季が巡る。


 だから一日は一年のように、とてつもなく長かった。


 雨がやんで陽がわらう、そこに虹がかかる。虹のなかに必ず、のほほんとしたあの笑顔がみえてしまう。


 何度も何度も、虹はかの女を訪れた。太く細く、淡く濃く、かの女に向かって虹はその手をさしのべる。


 胸の奥がいたくなる。


 こらえきれなくなって、かの女は下を向く。ぽろぽろと涙がこぼれる。



・ ・ ・



 透みわたる海と空、青月なかば。


 ある日の午後おそく、季節外れの嵐がテルポシエにやって来た。



――うわあ、これはおかしいわ!?



 自分の頭上、テルポシエ市、その正面シエ湾をぐるうっと取り囲むように渦巻き始めた黒い暗雲を見て、女神は腕組みをする。そしてしゅたっと飛び立った、市内をぐるりと見て回る。


 どこの家も店もかたく戸締りをして、出歩く者など全くいない。



――よしよし、皆ちゃんと備えているのね! 堀の上の橋も大丈夫。



 テルポシエ城の上も飛んでみた。ずいぶん早くどこも鎧戸を閉め切って、もれ出る明かりもない。安心して透かし堂に戻った、 ……ざわぁああああっ! 波のような風雨が押し寄せてくる!



『ひゃあっ』



 さすがの女神も驚いた。まわりはどんどん暗くなる、何も見えないし……。鐘楼の中に降りようか?


 ざわぁあああああ!



『いいえ、平気へいき。わたし女神様だもんね、このくらいの嵐でひるんでちゃあ、つとまらないわ』



 かの女は肩幅に足を踏ん張り、腰に両手をあてる。余裕しゃくしゃくの姿勢である。



『こうやってがっちり見張って、誰かがうっかりふっ飛びそうになったら、すかさず助けるんだもんね!』



 ざわぁあああああ! すごい嵐だ!



『……いけ好かない風だわね、何よプンだ』



 ざわぁあああああ――


 ひときわ強い風が、ざぶざぶ水滴を伴ってかの女をひっぱたいた。


 よろめきかけたかの女の耳に、意地悪な声が聞こえた――気がした。



((強がってても、ひとりじゃないか。おまえ))



 嵐の声なんてかの女は聞いたことがなかったけれど、それが初めてだったのかもしれない。


 全然平気なはずなのに、ずぶ濡れた感覚にかの女は負けそうになる。


 いや、羽や衣が濡れているんじゃない。濡れているのは、かの女の頬っぺただった。いつの間に、こんなに泣いちゃったのだろう??



――……ちゃーん!



 暴風にまじって、声が途切れ途切れに聞こえた。


 はっとして見わたす、透かし堂へ繋がる鐘楼からの段々通路に、誰かいる!



『ミルドレっっ!? 何してるのよ、あなたはぁッ!?』


「迎えに来たんですよー、危ないからー!」


『危ないのはあなたでしょうっ!? 早く鐘楼に入ってっ』


「だから一緒に、黒羽ちゃんっっ、わ――っっ」



 またしても、ものすごい風が押し寄せた。横なぐりの向きに吹かれて、階段に這いつくばるようにしていたミルドレが闇の中によろめき、空に落ちる。


 瞬間、かの女は跳んだ。


 ミルドレを受けとめて、同時に抱きしめて、暴風を押しきって飛ぶ。


 鐘楼の扉の中に、どかんと転がり込んだ。




 はあはあはあ、肩で息をしているミルドレの動悸がぐんぐん聞こえる。べしょべしょに濡れそぼった、あのちりちり髪の先から水が滴った。



「いや~危なかった!!」



 先にここに灯りを置いておいたのだろう、鎧戸を閉め切った鐘楼の中には、二つ蜜蝋がともっていた。


 それに照らされ、のほほんとした笑顔が、かの女の目の前であたたかく輝いている。



『ここ来ちゃだめって、言ったじゃないの! 神さまの言うこと、きけないのッ』



 ぶるぶる震えながら、女神はきつい声で言う。



「あなたが鐘楼か、他のところに移っていたら来ませんでした。でも、ずうっと透かし堂でがんばってるんだもの。ひとりにできるわけないでしょ?」


『……』


「今日、お式のはずだったんですけど」


『!!』


「こんな天気です、もちろん延期です。なので当直に入りました」



 せまい鐘楼、ぺたんと石床に座り込んだそのままの姿勢で、ミルドレはかの女に話し続けた。両手がかの女の肩におかれていた、触れられなくてもそこに在るかの女を、離さないように。



「……黒羽ちゃん。お供えのしくみ、前に教えてくれましたね。あなた自身では、目の前に食べものや布があっても、それを口にしたり、自分のものにすることはできないって。誰か人間に、あなたにあげますと捧げられたものに限り、受けとることができるのでしょう?」



 女神は怪訝な表情で、うなづいた。


 どうしてなのかはかの女自身にもわからないが、そういうことになっている。ずうっとそうだ。



「先日は、私の言い方が悪かった。女神さまに、お嫁になってくれと頼むなんて、ミルドレふぜいが言える立場にありませんでした。だから、方向を変えてみようって、ようやく思い至ったんです。土壇場で」



 ミルドレは笑った。



「私は、私自身を黒羽ちゃんにお供えします。ミルドレの人生、受けとってもらえませんか」


『何を……』



 女神の顔が、みるみるあかくなった。



「ほんとに、ね。あなたがいいんです。この三月、今までの人生史上最悪でしたよ。壮絶に哀しくって、やってらんなかったです。これが続くくらいなら、あなたに食べられちゃった方が、私は幸せです」


『食べないわよー!!』



 ぽろぽろと涙があふれ出て、まっかになった頬を伝う。



「……透かし堂の中で、ずうっと泣いてたのも見てました」


『ふぎ――ッッッ』


「大好きなひとがひとりで泣いてるのに、そこに背を向けるなんてできません」



 ミルドレは外套下をごそごそやって、しろい手巾を取り出した。女神の顔ちかくに広げる。


 それをかの女は両手で押さえて――顔いっぱいに押しつけて、そのままミルドレの胸のなかで泣いた。


 ミルドレの熱がそこにある、ミルドレの鼓動がきこえる。



 ざわぁああああ!


 ごぉおおおおお!


 すさまじい嵐の轟音は、夜更け過ぎまでずっと続いた。その中で、異質な崩落音はかき消された。




 次の日の朝、晴れわたった青い陽光の中で、一人と一柱は基盤からばらばらに崩れた透かし堂を見た。


 遥かむかし、かの女を見る人々がかの女のためにつくったかの女の居場所は、石がけらに分解されてなくなってしまっていた。


 中途までで途切れた段々を眺め、騎士はかの女に言う。



「いらっしゃい、私と」



 かの女は見上げて、うなづいた。

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