5 ふれられない恋
きれいに晴れ上がったある日。
一人と一柱とは、久し振りに東の鐘楼の透かし堂に座っていた。
『空、きれいねえ』
「……」
最近、騎士はどうも元気がなかった。“傍らの騎士”として、王と一緒に色々な重職の人や外国の要人と会食する事が多くなったから、黒羽の女神の分をもらってお供えする事ができなくなっていた。
べつにいいのよ、わたしはお腹が空くわけじゃないしね! そう言ってかの女は姿をくらますのだけど、そうやってミルドレに気を遣わせないようにしていたら――あんまり一緒に居なくなっていた。
「黒羽ちゃん。実は母がね、結婚しろって言うんです」
『おおおっっ』
けっこん! こんいん! ことぶき! かの女の得意分野である、そうだそうだミルドレだってそういうお年頃である。
――これはもう、わたし史上最強最高の祝福を授けてあげましょう!
女神は頬っぺたを、くわーともも色に染めた。この時は、ミルドレがお嫁さんをもらって幸せになるという、その素晴らしさしか頭になかったのだ。
「ほら、王様と私って同い年でしょう? 向こうにお妃がいるんだから、私だって奥さんもらってしかるべしって。そうやってぐいぐい話を進めちゃってるんです」
『いいじゃな~い!』
「全ッ然よくないですよ」
ぎゅーっと眉間にしわを寄せて、騎士は隣の女神を見下ろした。
――えっ? どうしてミルドレ怒るの、そこで?
「私は別のひとがいいんですッ。母が決めちゃったお嬢さんは人柄も家柄もいい方ですけど、私が奥さんにしたいのは彼女じゃありません。黒羽ちゃんなら、どう解決します? この大問題」
『うひゃー、出たわ! 人間特有の、恋の悩みとお家相続のぶったがい難問ね! うーんとー……、ミルドレがいいと思ってる本命ちゃんは、あなたのこと好きなの?』
「どうなんでしょうね! 私が知りたいですよ」
『なーんだ、片思いなんじゃないの。その人が、お母さんの推す人より家柄高い人なら、まだまだ話は変えられるわよ』
この辺は、昔も今も変わらない。
「家柄か……! 格はもう、ぶっちぎり段違いに高い方ですね」
『ほほう……。はっ、まさか道ならぬ恋じゃないでしょうね? ティユール妃とかは、何がどうでも無理よ?』
「いえいえいえ、人妻じゃないですよ。……あれ? ですよね?」
盛大にかぶりを振ってから、ふいっとミルドレは小首をかしげる。
『ふうむ。それじゃまず、その本命ちゃんにぶち当たって、想いのたけを打ち明けてみたらどうなのよ。話はそこからじゃない? 本命ちゃんにこれまた別の恋人がいたり、ミルドレが全然理想と違ってて生理的にだめ、ってこともあるわけだし……。ううっ、そんな辛そうな顔しないで。たとえよたとえ、万事通ってその人と一緒になれる可能性だって、いっぱいあるんだし!』
しゅうんとしぼみかけた騎士の顔が、また活き活き復活した。
「ほんとですね。それじゃあここはひとつ、騎士の名誉にかけて、かの女にぶち当たってみましょう!」
『そうよミルドレ! がんばるのよ!』
かの女も両のこぶしをぐうと握って、力強く応援する!!
「黒羽ちゃん、私のお嫁になってくれませんかッッ」
『ふぎゃあああッッッ!?』
正面真っ向から放たれた、恐るべきミルドレの全身全霊の気合をずどーんとくらって、黒羽の女神はひっくり返りかけ、思わず左右の翼を最大限に伸ばしてしまった。
「私はあなたがいいんですッ。あなたでなけりゃ、だめなんですっっ」
女神は口を大きく開けた、四角くあけた。
『ここ、冗談言うとこじゃないわよッ』
「これが冗談なら、私の人生ぜんぶ冗談ですよ。いやもう本気なんだけど、どうしたらわかってもらえるのかなあー!」
『あのね! そもそもわたし神さまだからね、人間とそういうことは……』
「でも、女性でしょうがっ」
熱っぽい声で、騎士が遮る。
「それに人間お断りって言うんなら、何でそんなにむちゃくちゃかわいい姿してるんです?? 白状なさい黒羽ちゃん、何百年か前には、もう何人も人間の恋人がいたんでしょうッ」
『いるわけないわよー!』
「いーや、信じませんよ。これだけきれいなひとに、誰も言い寄る男がいなかったとは思えない」
『むかしはもっと、おっかない見かけだったのよう』
言いがかりなんてつけられたことがないものだから、女神は頬を真っ赤にしてしどろもどろになる。でも、畏怖だけされていたのは本当だ。
「……あなたはこれからも、ずうっと生き続けるのでしょ。その中の一部分だけ、私と一緒に居てくれませんか。あなたの最後の男にはなれないだろうけど、私には唯一のひととしてあなたがいれば、他には何にもいらないから」
騎士は真面目な顔になって、かの女の前に膝をついた。
「私は、黒羽ちゃんがいいんです。黒羽ちゃんは、ミルドレがいやですか?」
ぶんぶんぶん、かの女は頭を横に振った。
「もう三年にもなりますけど。ずーっと一緒にいるのがよくて、ずーっっと声を聞いていたくて、毎日夢に見ちゃう女のひとなんて、他にいないんです。私の奥さんになって、ずっと大事にさせてください」
女神は唇を引き結んだ。笑っているけど、哀しいのをがまんする顔で。
かの女は手をのばして、騎士の左頬にふれた。
その瞬間、ミルドレははっと目をみはる。
もう片方の手も、同じようにミルドレの右頬をつつむ。
『……その夢のなかで、わたしは幸せだったんじゃないかしらね』
「……」
『触れてみて、わたしに』
ミルドレは右手をのばして、かの女の左頬にふれた――
「……何で……」
彼の右手はなににも触れなかった。かの女は確かにそこに在るのに、右手は空をつかむだけ。
『わたしは、あなたに触れられる。……でもあなたは、わたしの手のひらを感じない』
小さな手のひらはミルドレの頬をなでている。けれど騎士はその動きを見ることはできても、手のひらの質感をまるで感じないのだ。
『そしてあなたは、……人間はわたしに触れられない。見て聞こえた昔の人々の中にも、わたしに触れることのできた人はいなかった。そういう風に、わたしはできている』
長く厚いまつ毛の下で、髪と同じ闇色の瞳が、寂しげにミルドレを見ていた。
『わたしも、ミルドレがいい。一緒にいられて、今までで一番楽しくて、嬉しかった』
にこっと笑って、かの女は両手を離した。
『だからね、わたしの大事なミルドレには、めいっぱいの祝福をあげる。お嫁さんと楽しく生きて、仲良くして、たくさんたくさん子どもをつくってちょうだい。いつかあなたの子孫にも、わたしとおしゃべりできる人があらわれるといいな』
「……」
『あっ、そうだ。あなたのおかげで今の人間世界を見られたんだから、わたしもお返しするね。立って、ミルドレ!』
力なく立ち上がった騎士の後ろに回り込むと、かの女はふわりと浮かんで彼の脇の下あたりに両腕を差し入れた。ぎゅううううっと抱きしめた。そのまま、羽ばたく。
「うわああああああああーっ」
シエ湾上を、騎士は“飛んだ”。
足の下に何もないッ。彼の背中を抱きしめている女神の感触もないものだから、ミルドレは本当に自分が鳥だか風だかになって、広々とした海上の大気の中をぐーんとつめたく突っ切っていくのをびしびし感じた。
『大丈夫よー、わたしと一緒だからー!』
耳元で声がする、ぐっと顔を横にすると、肩の上でかの女が笑っている。
「……!!」
ぎゅーん! すういっ、もとの透かし堂にひらりと戻って、一人と一柱は石床の上に着地した。騎士の膝はがくがく震えている。たまらずがくんと座り込む。
『これがわたしの世界』
巨大な翼をささっと取り縮めて、隣に女神がしゃがんだ。
「すごい」
拍子抜けしたまぬけな笑顔で、ミルドレも呟く。
その額に、女神はぷちゅっと口づけした。
『しあわせになってね、ミルドレ。ここにはもう、来ちゃだめ』
いま彼が何よりもいとおしいと思うその笑顔、でも触れられない笑顔。
高く結い上げられた闇夜のような髪、頭のてっぺんにあかく白く、無数のえりかの花が咲きあふれていた。