34 女神の本体を起こす
ウルリヒと近衛騎士団は長槍短槍、最重装備で北大路を進む。
もう最終の第四壁はほぼ突破された、市外壁上からどんどん投擲を命じているが、このままでは持たないかもしれない!
『行くわよッ』
「はいッ」
ミルドレはふいと列を離れ、大路の暗がりに紛れ込む。瞬時、黒羽の女神は彼を後ろから抱え込み、そのまま羽ばたいて上昇した。
上空から見下ろすテルポシエの灯り、湿地の中にはぼつぼつと熾火がくすぶっているのが見える。エノ軍が初めの陽動でつけた火が、枯草と泥炭を燃やし続けているのだろう。西門・東門の火の手も赤々と明らかであった。
ぐうっと寒気の中を突っ切って、女神は暗い丘の上へと騎士を下ろした。
「おっと……」
うっかり、ミルドレは倒れた巨石につまづきかけた。まだ、目が慣れない。
『本体ーッッ! 起きて、わたしよ! 出番が来たのよ』
女神が地面に向かって、呼びかける。
しゅうー、つうー、風が過ぎる中で、ミルドレは別の声を聞く。
『……はい。鍵代の血を、導入してください』
平らかな調子だが、これも黒羽の女神と同じ声だった。どちらも“かの女”だから、なのだろうか。
『さあミルドレ、血を出して。ちょっとだけでいいのよ、鼻血でもいいし』
「いやー、意図して鼻血は出せません」
肩口の隠しから小刀を取り出して、ミルドレは左手人差し指の先をちょっと突いた。やがて血の滴がぷうっと膨らむ、それを地面に落とした。
『ありがとう、ミルドレ。あとはわたしに任せて!』
「ええ……!」
こんな時ではあるけれど、ミルドレはちょっとわくわくしている。巨大な女神の姿、どんななのだろう!?
『問題が発生しました』
しかし地の底から、またしても平らかな声が聞こえてきた。
『は?』
『この男性は、人間ではありません。鍵代として、正しく利用できないおそれがあります』
黒羽の女神とミルドレは、立ち尽くしてしばし沈黙した。
『えーと……本体ちゃん、何言ってるの? ミルドレは、何をどう見ても人間でしかないわよ?』
――ひょっとして、若返り延命したことに問題があるのだろうか??
一柱と一人、ふたりの胸のうちを、さあっと不安がよぎる。しかしもう一つの声は言った。
『この男性には、微小ながら人外の要素が含まれています。未知の海棲哺乳類の要素です。定められたところの“人間”に一致しません。鍵代とした場合、黒羽の女神が不安定になり、赤い巨人優勢に変化する可能性があります』
『……』
「……」
『至急、別の人間を鍵代として導入して下さい』
『……いないわよ、そんなの……』
うろたえた声で、女神は告げた。
『ミルドレ以外、今のテルポシエにわたしの姿が見えて、声の聞こえる人間なんていない。……ね、本体、どうしてもミルドレではいけないの?』
『あえて導入することはできます』
『じゃあ、やって! テルポシエは敵に囲まれて緊急事態なのよ。わたしが今出なきゃ、滅びちゃうかもしれない!』
『導入します』
『ようしッ!! 見ててね、ミルドレっ』
『確認します。もし完成体が不安定となり赤の巨人優勢になった場合、終了と封印にはこの鍵代男性の全身要素の吸収分解が必要となります』
≪ひひひひひひひひ≫
全く別の声、耳障りな笑い声を、ミルドレは聞いた。
足元のずっと下が、ゆらゆらと揺れざわめき始める。
『だめ――ッッッ!! やめやめやめッ、すぐ止めてッッ』
黒羽の女神の叫びが、空気を切り裂く。
ぴたり。
地揺れがおさまり、静かになる。
女神はがくり、と地べたに座り込んだ。がくがくがく……やがて震えだす。
「……黒羽ちゃん?」
さっと近寄って覗き込んだミルドレの目を、かの女はじいっと見返す。
『……冗談じゃないわ。そんな、……死なせちゃうかもしれない危険に。あなたを、ミルドレを、さらせるわけ……ないじゃないのよう……!』
震える右手を伸ばして、かの女はミルドレの腕を掴んだ。厚い外套生地の上から、かすかな重みを騎士は感じた。気付かないまま、感じていた。
ふうー……。深く呼吸してから、女神は無理やり、ゆっくり笑顔を作る。
『理由が全然わからないけど、……それはおいおい考えましょう、……どうにも大きいわたしにはなれないみたいね。ってわけで、作戦切り替えよ。わたしが単独でエノ軍をやっつける』
「どうやるんですッ?」
女神はすっくと立ちあがる!
『今こそ、黒羽の女神の究極奥義! “竜巻豪風拳”を炸裂させる時が来たわ!』
「おお! 何だかすさまじい名前ですね?」
『空中二愛里から急降下しつつ、きりもみ状態で旋回して強風を送り込むのよ! エノ軍の一番密集したとこにお見舞いすれば、何百人だろうがふっ飛ばせるわ。そうやってばらけてふらふらな所を、テルポシエ騎馬軍が各個撃破して、かっこよく敵を殲滅よッ』
きらーん! 不敵に笑う小っさい女神の口もとで、歯が白く輝いた!
「さすが黒羽ちゃん! 実質的な効果に加えて、けれん味あふれる演出まで考えてるんですね!?」
『ふっ。エノ軍に理術士でもいない限り、わたしが全力出せばどうにかなるわ』
「それで行きましょう! ミルドレも頑張りますよ!」
では市内へ飛び戻って……と、女神がミルドレの胸に腕を回しかけた所で、騎士はふと気づいた。
「おやっ? 丘のすぐ下の墓所に……誰かいる!」
『ええっ、エノ軍がもう来たのかしら』
ふたりがそうっと下って行って見ると、数人のテルポシエ騎士だ。墓石の間で、何だかごそごそやっている。
『……何してるのかしら、こんな時にこんな所で?』
「あっ、たぶん新北棟の“通路”を使って、脱出して来たんでしょう……」
ミルドレは全く不審に思わないようだ、すたすた歩いて行って声をかける。
「ヨース侯!」
「!!!」
四人の騎士はぎょっとして振り向いた。
「……アリエ侯? こんな所で何を」
「極秘任務で、これから帰城する所です。エリン様は?」
「……」
老人と後ろの三人は押し黙った。
「あの」
ミルドレの声にようやく、疑問が滲む。
「……姫様を、脱出させたのではなかったのですか?」
「あのお嬢ちゃんは、城に残ると言い張りましてな。女騎士もどきと、ともに」
老人は、ふるふると頭を振った――
どっ!
老人の後ろから中年騎士が静かに打ち出した長槍穂先を、ミルドレはすれすれのところ短槍で受ける。
「何を……!?」
言い終わる前に、他の二人も打ちかかって来る。一人を黒羽の女神が翼びんたで弾く。
『何すんのよッ?』
そいつは飛んで行った先の墓石に顔面を打ち付けて、のびた。
左右からの長槍攻撃をするりとかわして、ミルドレは左の騎士の足元を蹴上げてすくう、同時に下側から右の騎士の横つらを短槍で薙ぎ上げた。
「ぎぃやぁッ」
ふわん、ばたり! 仰向けに倒れた左の騎士の眉間にかかとの一撃。
よろめきかけた右の騎士の鳩尾にも石突の一撃、ずざざと倒れた。
ずぶり。
そこで嫌な音をミルドレは聞く。ふっと落とした目線の先、自分の右脇腹の真横に、細い細い剣先がぶち込まれているのが見えた。鎖鎧の輪を貫通して、ミルドレのはらわたまで――。
ぎいっ、と睨む。真横にいるヨース老侯の眼差し。かえす短槍をその首元に叩き込んだ、ひしゃげる寸前、眼をむいた老人のまるい顔が黄色く照らされる。そいつの“熱”を両手に抱えて、女神はどさりと倒れたヨース老侯の頭を、思いっきり蹴飛ばした。
両膝をついたミルドレの腹部に、かの女は淡く光る金色の熱を押しつける。それが体の中に入ったのを見届けてから、ミルドレは刺さったままだった細剣の柄を握る。
「ふんッ」
勢いよく抜き取った。また、血が噴き出した。
黒羽の女神は、のびていた三人の騎士の体からも、迷わずに熱をかき集めて取り上げる。それを全部ミルドレの身体に押し込めた。
「……大丈夫みたいです」
騎士は囁いた。
「行きましょう、黒羽ちゃん……」
かの女は黙って、ミルドレの胸に両腕をまわした。羽ばたいて、暗い夜空を飛んでゆく。視界のはし、東側の空が白みかけているのを見る。――夜が明ける、もうじきに。
黒羽の女神は北門を越えて、テルポシエ城の東の鐘楼に降りた。
誰もいない、もはや遠方を監視する必要もなくて、全ての戦闘要員は市門前へと駆り出されていた。目の前に迫った危機と対峙するために。
かつて透かし堂へと通じていた、半ばで崩れたままの階段上に、女神はミルドレを座らせた。
『ここからなら、北門の方見えるでしょ。わたしはウルリヒのそばで戦ってくるから』
「ちょっと黒羽ちゃん、私を置いてく気ですか!?」
『あったり前でしょ。ミルドレ、立てないじゃない』
一命は取り留めた。しかしあれほどの傷、すぐに元気にはなれない。熱による回復には、まだ時間が要る。現に騎士は短槍にすがり、座って身を起こすのが精一杯だった。
『かっこいいとこ、見せたげるわ!』
にっと笑って、素早く女神は騎士にくちづけた。
『応援してて。ミルドレ』
ぶわっと飛び立つ。
「死なないで、黒羽ちゃんッ」
『女神は、死にませーん!!』
声が遠ざかってゆく、北の空へ。