33 決戦の夜
イリー暦188年、闇月七日の夜半にそれは始まった。
じめじめと降り続いた小雨が止み、びりっと切りつけるような寒気がテルポシエ一帯を覆う。
そろそろ冬季潮流変化の起こる頃、それと同時にエノ軍が奇襲を仕掛けてくる――と言う話を誰もが知っていた。誰もが知る作戦で挑んでくる、あほうな蛮族集団……恐るるべからず! 城の中の一級騎士らは余裕であった。湿地帯の石壁の裏で迎撃準備に配置された二級騎士らは皆、エノ軍と貴族とを同様に恨みながら寒さの中で震えていた。
湿地帯北西部にて、火の手が上がる。エノ軍の黒ずくめ傭兵達が、闇夜の中で動き始める。
何日か城に詰めた後、自分用の個室で横になっていたミルドレは、響く警鐘を耳にして飛び起きた。
「頑張りましょう、黒羽ちゃん」
『女神と騎士が、テルポシエを守るのよ!』
ウルリヒは冷静であった。寝入りばなを起こされて壮絶に機嫌の悪いはずだが、廊下で妹姫を抱きしめて、接吻した時には優しい笑顔でこう言った。
「とっとと片付けて来るから、お前は心配しないで待ってな。体冷やすんじゃねえぞ」
エリンの後ろに立つ最重装備のシャノン・ニ・セクアナ若侯、一直線に心を決めていた未来の正妃、未来の傍らの騎士の肘に触れて言葉を交わすと、力強くうなづいて大股で歩き出す。ミルドレと伝令がその後を追う。
『さあウルリヒ、ここでいっちょう男を上げるのよ! 凱旋と一緒に、どかんと婚約大発表よ!!』
女神も張り切ってこぶしを握りしめつつ、ついてゆく。
・ ・ ・ ・ ・
煌々と灯りのついた、真夜中の中広間。
絶え間なく伝えられる戦況は芳しくない。どころか厳しい。
湿地帯の一番外側、第一壁が北西側から突破されていた。ウルリヒは早くも、キヴァン傭兵隊を回す。
『おかしいわよね? 湿地帯の枯草を燃やした灰で、水溜まりを埋めて、地場をならしてから騎馬で侵攻したかったはずでしょう、エノ軍は。でなきゃわざわざ、冬場を選ぶ必要もないのに』
「……ですね。しかも地上戦に総力をつぎ込んでしまったら、海上からの挟み撃ちもできなくなる」
これまで作ってきた足場を壊して、敵は自ら有利な点を放棄しているようにも見えた。
キヴァン傭兵の二隊は善戦した。北西部からのエノ軍の進撃速度が遅くなる。報告に沸く中広間、ミルドレは女神に囁きかける。
「キヴァンの傭兵らがここまで使えるとは、予想外でしたね」
『ほんとね! 戦争終わったら、ご褒美をたっぷり出してあげないと』
「あの奇妙な仲介業者のこと、憶えてますか?」
『えーと?』
女神は腕組みをして、小首を傾げた。
「ふた月ほど前でしたか。エノ軍の包囲をどうやったのだか、うまくすり抜けて……。たった一人で十人ものキヴァン戦士を連れて来た、あの若い男性ですよ」
『ああ、思い出したわ。男の子なのに、お肌と髪がつるっつるだったあの人ね! そうね、おじさんになった時の姿が想像不可能な、実に奇妙な男性だったわ』
ミルドレは女神をじーと見た。彼としては、その青年に妙な印象を受けていたから言ったまでなのだけど。そうか……女神がその程度の反応ならば、勘違いだったのかもしれない。気持ち悪いくらいの“闇”を感じていたなんて……。
『ところでミルドレ……。ウルリヒが何だか、しんどそうな顔でぼさっとしてるわよ?』
「むっ、これはいけませんね。
陛下。何か、眠気ざましの花湯でも、お持ちしましょうか」
このまま膠着させて夜明け後に市外壁前で騎馬迎撃を、と宗主たちは身構えた。
しかし西門と東門とで、ほぼ同時に火の手が上がる! どこから湧いて出たのだ、百人程度のエノ傭兵らが火の外を取り巻いていた。市民自警団だけでは無理だ。その消火と補強に人員を割いたとたん、今度は北門で総攻撃が始まった。ありえない速さ、早さである。城壁上から見下ろせば、騎乗している奴なんていないらしい。馬を後方に並べて残したまま、エノ軍主体の数百人は全員が歩兵となって、闇の湿地帯を通過したのだ。
せっかく大量に馬を準備したのに、歩きで来るとは!?
「聞いてないぞ!!」
テルポシエ貴族宗主達は怒り狂った。
「ぜんッぜん、聞いてねえぞぉッッ」
エノ傭兵達も、湿地帯を歩きながら、同じことを言っている!
「あなたの頭の中はどうなってんですか、一体!! 徒歩攻めなんて、一言も言わなかったじゃないですか。これじゃ土ならしのために、苦労して工兵を集めた意味がないッッ」
長い杖をひょいひょい振り歩く老賢人に糾弾されつつも、エノ首領は全然どこ吹く風である。
「いいじゃん、別に。私も今思いついたんだしさ、多分テルポシエの連中も絶対思いつきっこないって。こんなあほうな進軍」
「自慢げに、あほうと言うなッッ」