30 イリー暦183-184年
イリー暦183年。
テルポシエは市民成人男性の兵役義務を拡大、二十歳から四年間とした。
従来の枠では、膨れ上がる一方の武装集団の脅威にとても対応できない。多数の遊撃隊が新設されて、湿地帯内外・広範囲での警備にあたるも、領内での襲撃と略奪は続いた。
イリー暦184年。
ウルリヒの成人に伴い、ミルドレは摂政職を解かれる。しかし近衛騎士の主司として、常に若き王の背後に付き従っていた。
早いとこ“傍らの騎士”を決めろという各宗主の要求を、ウルリヒはのらりくらりとかわし続ける。この辺の八方美人戦法は、ミルドレから大いに教授されていた。
前王、前女王の“熱”で約三十年分を巻き戻したミルドレの身体は、全く普通の人間だった。
食べ過ぎればお腹がもたれるし、切り傷からはあかい血が出る。
けれど眼差しだけは、今までのどの瞬間よりも深くなっていた。瞳の蒼さではない。彼が人として経た年月、叡智と呼ぶべきものがそこに濃くなったのである。
萌えたつ野にけぶる白い朝もや、庭にあふれる千草、甲高く励まし合いながらわたってゆく雁の群れ、灰色の空の下で輝く金柑の実、そういうものを繰り返しくりかえしともに眺めながら、黒羽の女神は時おりミルドレの双眸をぬすみ見る。
『若いのに老いている、老いているのに若い。……』
低く静かに口の中で呟いて、 ……それはまさに自分のことでもある、と思い当たる。
かの女はよく、髪にたちばなの花を咲かせた。