29 マグ・イーレ王子達の出立
一応晴れ上がってはいるものの、霧のような小雨が時折ぱらつく。
いちいちつけたり取ったりの億劫なミルドレは、草色外套の頭巾をかぶったまま、マグ・イーレ王ランダルの話の相手をしていた。
「こちらの港は、本当に二十年来変わっていませんね。私の留学時も、ほぼ同じ旅程にて海路をつかったのです。貴侯は、ティルムンへおいでになった事は?」
「いえ。恥ずかしながら、ほとんど領内から出た事がございませんで」
「そうですか。まだお若いのですし、ぜひ一度訪ねてみる事をおすすめしますよ。風土と環境の差はもちろんですが、文化の相違には目を見張るものがあります。例えば文学…」
テルポシエ・ティルムン間を三月にいちど就航する、大型の通商船。ものだけではない、多くの人々がこれに乗ってティルムンへと旅立ってゆく。見送りに来た人々でごった返す港の一画、ぱっとしない濃いねずみ色の外套を着たマグ・イーレ近衛騎士団に囲まれていると、ミルドレの草色外套はよけいに鮮やかだった。
――こんなぼそぼそ調のお話、よく付き合えるわねーえ…さすがミルドレ。
テルポシエ騎士代表としてマグ・イーレ王子の留学出立見送りに来たミルドレは、そのまんま陰気なランダル王のお喋りに捕まっている。女神は不健康に膨らんだ、王の顔をじっと見た。
のべつ幕なしに話を連ねているが、彼の目は寂しげな虚ろさを湛えていた。すべてに幻滅し、落胆して諦めにかられているような乾いた雰囲気は、毒をもってミルドレに迫ったディアドレイにも似ている気がした。
――けれど、この人。まだ自分がある…。
完全には人生を諦めていないらしい。恐らく、心の奥底で彼をぎりぎり、支えとめている誰かあるいは何かがあるのだ。グラーニャではもちろんないのだろう、少し離れて隣に立つ、第一王妃と二人の王子でもないらしい。こちらは父王と違って、本当に普通の母と子達である。
「からだに気を付けるのよ。何がなんでも、健康でなくっちゃ始まらないんだからね」
「はい」
「母さまー、俺ら医者になりに行くんだよー?」
「医者の不養生って言うじゃないの。オーレイはお兄ちゃんや騎士兄さん達の言う事よく聞いて、…お馬鹿な事をするんじゃないわよ。…」
「へーい。もう泣くなよー、フィーラン手巾もってなーい?俺、ない」
「…きーっ!これだから、あんたはッッ」
「母さま」
年かさの少年が母親を抱きしめた。
「心配しないで。ちゃんと帰って来るから。無事に」
囁いて体を離すと、彼はくるりと父に一礼する。そしてさっさと、甲板への渡し板を踏んでしまった。楽しそうにそれに続く、弟の王子。黒羽の女神は慌てて飛んで、二人の少年に祝福を授けてから、母親の元へ戻った。
「そうね。必ず無事に、帰ってちょうだい。二人とも」
必死の笑顔で子らを見送りつつ、マグ・イーレ第一王妃が呟くのが聞こえた。
「あなた達が必要なのよ。わたしの計画に…」
――何の計画だろう?一途に願う未来なら、叶うといいわね。
あまり考え込まず、女神は第一王妃のふかふか巻き毛に口づけて、祝福する。ついでに、まだまだミルドレと話し込んでいる夫の方にも。
――あなたは…何だか祝福いらない気もするけどね。たぶん名前に守られて、自分でこれから切り拓いていけるような感じだから。
この人の、…この家族の中でグラーニャはどうなっているのかな、という不安がかの女の胸をよぎる。もちろん今回は来ていない。暗殺計画はしくじって、…内心で女神はほっとしていた。
西の雄マグ・イーレとは表面上友好関係にあるけれど、テルポシエの筆頭仮想敵国だ。壮絶な悔恨とともにそこへ行ったグラーニャも含めて、要注意であることは承知している。
――けれどマグ・イーレの旗の中にも、わたしは描かれているのよね…。
・ ・ ・ ・ ・
直後に起こった“クロンキュレンの追撃”の報は、瞬く間にイリー諸国に語り伝えられた。
王を救い国を守るため、騎士団の先頭に立って軍旗をかざしたマグ・イーレ第二王妃が、ならず者の賊集団を蹴散らして追っ払ったという話はあまりに鮮烈だった。
“白き牝獅子”として、グラーニャ・エル・シエの名が再びテルポシエでも囁かれるようになる。
ミルドレは渋い顔をした。
グラーニャのマグ・イーレが不気味に勢力をつけ始めた事、同時に彼女が“エノ首領”を取り逃がした事。どちらもテルポシエにとっては良くない要素であった。