28 ミルドレ・ナ・アリエ若侯
突如現れた主人の息子を名乗る人物に、使用人は面食らった。
しかし数年前に勤め始めたばかりの彼は平民、そこまで主人の人間関係にかかわりたくなかったし、それに相変わらず良い払いが続いている。上階で寝込んでしまったという老主人の面倒も、息子氏が一切を見るというので、彼としてはこれまで通りに食事を用意して家の中をきれいにしつらえるだけ、さっさと帰ってしまって口を挟まない。
「お城へは、ちょっとだけ病欠届を出して、と……」
二日おいてから、ミルドレは登城した。
城門をくぐる、行き合う誰もがあれ……? という顔をする。
「遊学に出ておりました、息子のほうのミルドレ・ナ・アリエです」
のほほん笑顔のきまじめ版で言う。
「父は体調を崩して、臥せっておりまして。代役を言いつかって参りました」
最初は、脇ではらはら見守っていた黒羽の女神であるが。
「そうですかー、いやお父様に生きうつしでいらっしゃる」
「よく似たおやこも、いるもんですなー!」
誰もかれもが“ミルドレ・ナ・アリエ若侯”に納得していくので、しまいには黒羽をもこもこっと毛羽立てて、その裏でぷぷぷと笑いをこらえていた。
・ ・ ・ ・ ・
「ぎゃふっ! やっちゃいました、黒羽ちゃんッ」
『どうしたのっ!?』
父の個室で手慣れた書類さばきの最中、騎士は声をあげた。
「つい、同じやり方で署名を書いてしまいました……! 別人としてふるまわなくちゃいけないのに……」
『……。いいんじゃないの? 名前も同じなんだし、気付く人いないわよ』
「いや、あの同期さんは気付きますよ……」
けれど、なかなかその姿を見なかった。たまたまなのだけれど、ミルドレが若返っていた数日のうちに、同期の文官騎士はひっそりと定年退職してしまっていたのである。
父親同様、息子がどしどし仕事をこなして何の滞りもないものだから、忙しい近衛騎士達は彼にかまわなかった。自然にとけこむ感じで、ミルドレ・ナ・アリエ若侯はそのまま、老侯の職を引き継ぐ。
ウルリヒとエリンだけが、しばらく不思議そうに首をひねっていたけれど。
机の向こうに立つ、見かけ巡回騎士の中年男は、顔に脂汗を浮かべている。
ガーティンロー近郊で、彼らはグラーニャ暗殺に失敗していた。
「……父の耳に入らなくて、幸いでした」
「面目ありません、アリエ若侯」
「引き続き、対マグ・イーレ間諜網を維持してください」
・ ・ ・ ・ ・
同、イリー暦181年眠月。
「すげえなあ。兄ちゃんの方ですら、俺より一こ下なんだぜ? そんなんでティルムン留学行っちゃうかね。肝っ玉、太いよなあ」
十五になったばかりの少年王は、しきりに感心している。
テルポシエ訪問中のマグ・イーレ王一家との会見を終え、これから執務室で山盛り書類に署名を始めるところだ。
「うーん。向こうはむこうで、一こ上なだけで王様やっちゃってすげえ、と思ってるかもしれませんよ」
「おかざりなんだから、誰だってできるさ」
明るくさばさばっと返される、一瞬経ってからミルドレは意味をつかむ。
「……陛下」
「今はね」
瞬時、ぎくりとする位にきつい挑発の光が少年の瞳に宿る。しかしそれはすぐに消えて、明るくてのんきな、いつものウルリヒの笑顔になった。
「定期通商船の出航はいつも通りに、港の組合事務所から見てていいんだろ? エリンちゃんと」
「ええ。セクアナのお嬢様もですか」
「シャノンは、エリンの護衛だもんね」
かたた、墨壺に黒羽硬筆を浸しながら、ウルリヒは言った。
「大事な妹の護衛に、あれだけ適任な人間はいない。何がなんでも、一級騎士になってもらうから」
――うーん。実に良い理由だわ、考えたわね! ウルリヒ。
机の端に頬杖をついて、女神はちょっと感心している。
「女性の一級騎士導入に、色々ごねてらっしゃる方も多いですが……」
一枚目の羊皮紙を王の手前に差し伸べながら、ミルドレは言う。
「シャノンさんの腕っぷしの強さを知れば、誰も何も言わなくなると思いますよ」