27 若返る
小雨がいっとき上がっている。
自宅踊り場の開いた窓から空をみていた老騎士の視界のはじ、樹々の向こうにちらりと虹の断片がうつった。
羽ばたきが聞こえて、しゅるっと黒羽の女神が入ってくる。
「ちゃんとお返しして来ました?」
『ええ』
ナイアルに“会う”ために、ちょっと先のお宅に通う女中さんの体をお借りした女神だった。
「久しぶりに、黒羽ちゃんの“のりうつり”を見ましたね。あらためて見ると、ほんとに不思議……!」
『なにが?』
「その人の年代に合った、黒羽ちゃんになっちゃう所ですよ。小さなお嬢ちゃんや、おばあさんにもなれちゃうのですか?」
『ええ、たぶんね。でもなぜかわたし、女の人にしかのりうつれないの。男の人は、どうしたってだめなのよ』
「へえー?」
『ちょっと前だけど、ミルドレが昼寝中に配達の人が来たの。呼んでも揺さぶっても起きないんだもの、切り札ののりうつりで出ようかと思って……』
「ええー、私で試してたんですか!」
『でも、どうしてもできなかったの。わたしがおろおろしていたら、配達さんは玄関の箱に気が付いて、包みを中に入れてくれたわ』
「うわー、良かった、箱を置いといて! 配達日時を指定しておきながら忘れて居留守しちゃうなんて、無礼千万というか傍若無人というか言語道断ですよ、騎士道にもとる!」
『本当にごくろうさまよね、配達の皆さん。わたし全力で、祝福するわよ』
・ ・ ・ ・ ・
イリー暦181年花月。
テルポシエ第十三代元首、ウルリヒ・エル・シエ王即位。
年少の王のために、久方ぶりに摂政職が復活する。
手頃な年齢の適任者を探す間の移行措置として、前々王の傍らの騎士、ミルドレ・ナ・アリエがそこに据えられた。
「……では。万が一、“御方”が不審な動きを見せたら?」
「ああ。その時は迷わず、始末してしまって下さい。少人数でちょろちょろ外出することも多いらしいですから」
「かしこまりました」
「念押しですけど、マグ・イーレ領内でことを起こしては、絶対にだめですよ。ファダン……には来ないか……、ガーティンローあたりで、網を張っておくのが良いでしょう」
一見巡回騎士のように見える中年の男は、草色外套を翻してミルドレの個室を出て行った。
入れ替わりに、同期の文官騎士が書束を抱えて入ってくる。
「こちら、署名をお願いしますよ」
「はいはい」
机に座って硬筆を取り出すミルドレを、同期文官はじっと見下ろしていた。
「いま出てったのって……?」
「ああ、裏方さんです。ちょっと雑用を頼んだもので」
それ以上は言わない。ミルドレ個人の雑用だから。
「……君は、本当にいいよね……」
ぼそり、と言われてミルドレは書類から顔を上げた。
同期文官は、くらい表情で微笑んでいる。弱々しい光を瞳に湛えて、明らかに老いていた。
『大丈夫?』
「大丈夫ですか」
女神に重ねて、ミルドレは問うた。
「うん……ちょっとね、色々疲れてしまって。また後で書類、取りに寄るよ」
・ ・ ・ ・ ・
あと十日ほどで夏至が来る。
薄闇に包まれた露壇、長椅子の上に腰かけて、ふたりは藍色の空に浮かぶ半月を眺めていた。
『干しあんずの最後の一個、たべちゃったわ』
呟き声に、寂しさが滲む。
「また、ナイアル君のこと考えてるんですか?」
『ええ。……もうウルリヒと会うこと、ないんでしょうね。二人はあんなに、仲良しだったのに……』
わたし達とも、もうたぶん会わない……。女神は心の中で付け加えた。
「……良い子でしたね、ナイアル君は。見えない、聞こえないのにあなたのことをずっと気遣って。幸せになって欲しいものです」
『……』
「私はお姉さんの言ってたこと、よく思い出しますよ。一番大切な、ご縁の話」
『ああ……』
「……私は。黒羽ちゃんに出会えるという、最大最強の幸運なご縁を、私は得ました。……だからこれも、きっと成功します」
黒羽の女神は、じいっと騎士の瞳をのぞきこんだ。
『……じゃ、やってみるのね?』
「ええ。子孫に……他の人にあなたを任せるっていうのは、もう却下です。私が自分で、黒羽ちゃんと一緒にいますから」
女神は隠しをごそごそ探して、小さな手巾包みを取り出す。
ぶどう色の布を開くと、小さな黄金色の玉がふたつ、淡くゆらゆらと光を放っていた。
『じゃ、いくわよ』
「……ああ、黒羽ちゃん。お髪にあの花、咲かせてくれませんか? ほら、ティルムンの」
『……たちばな?』
にゅるん、しゅぽん。白い花々が開いた。
「そうそう、これ。この香りを嗅ぐと、奇跡が起こるって気がするので」
初めて本当にふれられた、そのきっかけを作ってくれた花だ。
♪ 俺はイリーの土地うまれ きれいなあの子を恋に誘おう
ミルドレは歌い始めて鼻歌におとす、女神の額にくちづける。
黒羽の女神は騎士のその胸に、黄金色の玉をそうっと押しつけた。
ゆっくりと吸い込まれ、消えてゆく玉――熱の玉。
もう一つを続けて、ミルドレの胸に入れてゆく。
鼻歌がやんだ。
騎士はがくりと頭を落として、長椅子に座り込んでいる。
虹色のちりちり頭を抱え込んでいた女神は、こらえきれずに聞いてみた。
『……ミルドレ??』
騎士はゆっくり、顔をあげる。
かの女は息を飲んで、彼を見つめた。
「黒羽ちゃん、」
三十年くらい前の顔で、騎士がきょとんとしている。
「何だかお腹のあたり……腰帯が、やたらすかすかするんですけど……。変だなあ?」