26 ディアドレイの最期
オーリフが死んで四日めの昼過ぎ、ミルドレは呼ばれて女王の居室に赴く。
ディアドレイは起きて、灰色の室がけに包んだ体を安楽椅子の中深く埋めている。
医師が診察を終えたところだった。
「だいぶ落ち着かれました、もう大丈夫です。気晴らしにお喋りをされたいと」
笑顔の医師に囁かれて、ミルドレも安堵する。扉を半開きにして、医師は出て行った。
「いかがですか。何か欲しいものがあったら、ミルドレがすぐにお持ちしますよ」
椅子の中から、ディアドレイはミルドレののほほん笑顔を見上げる。
「真実が、欲しゅうございます」
「……はい?」
ディアドレイは無言で、小卓を挟んだ向かい側の椅子を見た。騎士は座る。ディアドレイはつと立ち上がって、その側に腰掛をひとつ寄せた。
『……??』
そのまま女王は歩いて行って、静かに扉を閉め、鍵をひねった。
しっかりした足取りだった。戻ってきて、座る。
「身を投げる前に、オーリフは全て話していきました」
平らかな調子で、ディアドレイは言った。
椅子の中の騎士と、腰掛上の女神とは身じろぎする。
「それによれば、アリエ侯は女王の真の父だということです。得体の知れない、まやかしの術にたよって、ティユール妃をたぶらかしたと」
黒羽の女神は、両のこぶしをぎゅううと握った。
「さらに。アリエ侯は同じことをオーリフの母にもした、テルポシエじゅうの女性にしたとも言っていました。つまり女王とオーリフとは、腹ちがいのきょうだいなのだそうです。これは本当ですか、アリエ侯」
「全くの虚言でございます。陛下」
笑顔を崩さず、ミルドレは優しく答えた。
ディアドレイは無表情でうなづく。
「あの晩、呂律の回らない舌でまくし立てられた時は、女王もやや怯みました。どうしてオーリフが女王のことを妹ちゃんと呼ぶのか、ようやく合点がいったのもあります。ですが今考えれば、酔っ払いの妄想でしかありません」
「オーリフ王のことは、まことに残念でなりません。しかし陛下は、前王とティユール妃の正統な御子にあらせられます」
「女王は、オーリフのあとを追おうと思いまして」
ミルドレの言葉を聞いているのかいないのか、ディアドレイは平らかに続けた。
「うろうろしていたら、すべって転んで頭を打ちました。こぶが、ここに」
女王はすっと、頭の横を指差す。
「おいたわしや」
「なので、ずうっと寝ておりました。こんなに長く横になっていられたのは、久し振りです。色々と、楽しいことを考えました」
「どんなことでしょう?」
「オーリフの言い置いたことが、本当だったらと。女王も妄想してみたのです」
ミルドレは首をかしげる。
「もし、本当にアリエ侯がディアドレイのお父さまであったなら。ディアドレイは女王になど、ならずに済みました。あの、元気でかわいいグラーニャちゃんにすべて任せて、ディアドレイはどこかの田舎で静かに、お花の絵を描いて暮らしていたでしょう」
「……」
「王位めあてのオーリフに言い寄られて、心身をうばわれることも、母親になることもありませんでした。ディアドレイは子どもなんて、もともと大きらいです。何であんなに楽しそうにはしゃげるのか、理解できません」
淡々と語るディアドレイの顔を、女神はじいっと見つめた。何てことだろう、本気で言っているらしい!
「……特に、あのエリン姫を見るのが苦痛です。グラーニャちゃんに、何もかもそっくりだと思いませんか? アリエ侯」
「いえいえ、姫様は陛下にこそ、そっくりでいらっしゃいます」
「ディアドレイはいつも、あの顔を見てひやりとします。グラーニャちゃんが、あの輝く笑顔で仕返しに来たのかと思います。ウルリヒがお腹にできて体調が悪かった時、オーリフはあの子とも関係があった。あんなばか男すら引き留めておけない自分のせいなのに、ディアドレイはいじわるな意趣返しをしました。即位式用のみっともない衣の生地を選んで、仕立て職人には裁ちばさみをわざと部屋に忘れてくるよう、言い含めました。それでグラーニャちゃんが自害するのもいいだろうし、あるいはディアドレイを殺して、重罪人として後生を台無しにしてくれてもよい、と考えたのです。間諜によると、あの子マグ・イーレで食べ吐きになったそうで、ざまあみろと思いました。ざまあと言えば、酒などに飲まれるオーリフもですし、そんな男にくっついたままのディアドレイもざまあみろ、です」
女神はかたかた震えだした。
「まあ、過ぎたことはどうでもよろしゅうございます。ただ、妄想してみたという話でした」
「はい……」
間が、あいた。
けれどディアドレイは表情のない視線を、ミルドレから離そうとはしない。
「……けれど、アリエ侯。ディアドレイは今、そのオーリフの妄想が、真実であったらどんなにか良いだろう、と思い始めたのです」
「陛下、……」
「ディアドレイは、あのどうしようもない、いとしきばか夫を、信じてみようと思います。ミルドレ・ナ・アリエが黒羽の女神のまやかしでティユール妃と通じ、そうしてできた偽物の女王が、テルポシエ元首であるという妄想を」
ディアドレイは卓の上に置いてあった黒い箱を開け、中から小さな玻璃杯を二つ取り出した。水差しの中身を注ぐ。次いで、室がけの裏かくしから指先ほどの瓶を取り出した。ふたを開けて、一滴二滴、両方の杯にたらす。ひとつをミルドレの前に置き、もう一つを自分で手にした。
「ディアドレイは、目に見えないものや聞こえないものを信じません。形式として、子ども達には色々と伝統を言い聞かせたこともありますが、実際には妖精も精霊も、ついでに女神もいないものと思っています。まさに子どもだまし」
うすい肩を、ちょっとすくめて見せる。
「そういうディアドレイですが。この妄想がほんとであったら良いなと思うあまり、アリエ侯とともに毒占いをこころみることにしました。毒を分けあって同時にのみ、真実を言っている方だけが生き残れるという、危険きわまりない迷信です。ちなみにこちら、緊急自決用の蘭毒」
「……やめましょう、陛下。お医者様を呼びますから、ね」
「アリエ侯が死んだら、ディアドレイは自分が偽物の女王なのだとわかった上で、自分に関係のない不特定多数の民の幸せのために費やされる不幸せな人生を、続行することになります。もし反対なら、正統な女王としてそんな迷惑千万な生を終わりにできる」
「ディアドレイ女王」
「この世に生まれて、わたしは大迷惑なのです!」
女王は大きく目を見開いた。ミルドレが伸ばした手が届く直前、ディアドレイは杯をあおる――そのままのけぞった全身がびくんと震えて、がくりと安楽椅子にもたれた。
黒い翼をわなわなと震わせて、女神は両手いっぱいにディアドレイの“熱”を抱きしめていた。
『ミルドレ。そっちの杯を、窓から捨てて』
かすれ声でかの女は言った。
「……黒羽ちゃん」
『でもって、わたし達もここ出ましょう。ミルドレ抱っこして飛ぶから、窓から……忘れもの、ないわね?』