25 オーリフの最期
その日の夜更け。
眠るミルドレの横で、いつも通りもこもこと丸く翼にくるまっていた女神は、ぴかぴかした少年の顔を思い出して、じんわり幸せになっていた。
――お店、いつ開くかなあ!
そしてふいに、どきっとした。あの子が十二歳として、少なくともあと十年くらいは待たなければいけない。十年、自分は問題なく元気だろう、今のまんまで。でもミルドレは? 十年後のミルドレは??
きゅううっと胸を絞られる気がして、女神は慌ててミルドレの肩あたりに顔をくっつけた。
「ふがー」 起きない。
ミルドレがこの所よく言っている、“不老不死化大作戦”について考えてみる。長いかの女の人生……神生の中、それについて語る人間には何度か会ってきた。ただ、実践した人はいなかった。女神、半神であるかの女も、人間を不老不死にする方法は知らない。けれどひとつだけ、引っかかっていたことがある。仮説と言うやつだ。
――リルハと娘の熱をつかった後、ミルドレは前よりずうっと元気になった……。
四十代の頃にぼやいていた膝痛も、お腹の不調も、赤点疼からの快復を境にして、全くなくなった。本人は気に留めていないけれど、よく他人からお若いですねと言われている。確かに、同期の人たちと比べればずいぶん見かけは若いし、元気である。
自分がしたことのもたらした効果……彼の生命を救ったこと以外に、別の作用があったのではないか。
――“熱”を与え続けていけば……、ミルドレはもっとながく生きられるんじゃないのかしら?
女神は静かに、息を飲む。それはたぶん可能だ。……けれどそうするためには、他の人間から“熱”を奪わなくてはならない。奪ってしまったら、その人は死ぬ。
『……』
――例えば、よ? もう何をどうしてもこりゃ救いようがないわ、という風なおばかな悪者がいたとしたら。そういうやつの熱なら、もらっちゃっていいんじゃない??
ふるふるふる、小さく頭を振る。
――何考えてるのよ、わたし! 人間みんな、まっさら赤ちゃん魂で生まれてきたんじゃないの。極悪人であっても、憎むべきは彼をそこまで墜ちさせた事情なのよ……。その人自身じゃないんだし、それで命とられる理由にはならないんだってば。
むむむ……女神は眉間にしわを寄せる。
――けど……。もしその極悪人が、ミルドレを殺そうとして手をのばして来たら? うん……その場合はわたし、そいつをぶっ飛ばして熱をとるわ。正当防衛ってやつよ、ついでに熱をもらってミルドレにあげるの。ついでよついで、熱はついでよ。
かの女は目を上げる。暗闇の中、安眠しているミルドレの平和な横顔が見える。
――そういう風にしていのちをのばした場合、ミルドレは喜ぶのかしら?
ちゃんと話して聞いてみよう、と思った。よし、とりあえずこの件はこれで……。
くわッ、とかの女は目をあけた。
瞬時、身を翻して暖炉の中へ、ぎゅうんと煙突から上空に出る!
静まり返った夏の夜更け、テルポシエ城へ向かって最高速で飛ぶ。
自分を呼ぶオーリフの声が、途切れとぎれに耳に入って来ていた、……彼の断末魔とともに。
・ ・ ・ ・ ・
城の基盤のさらに下の岩礁表面、石榴の実のように半ば破れかけたオーリフがいた。
『……オーリフっっ!!』
女神は恐怖にひきつる。中のものがこんなに赤く出ては……ああ、もう助けられない!
「来たのか」
むせび泣きの合間に、王は言った。
『どうしたの、落っこっちゃったの!? 待って、今上へ連れてってあげる。ディアドレイにお別れを……』
「もう、した。俺のかわいい、妹ちゃんに」
かの女はずぶ濡れの岩の上にしゃがみながら、オーリフの顔を見つめた。
「あいつも、同じやり方で作ったんだろうがよ」
げふ、ごぼり。血を吐く。
「即位の後の、親父様のグラーニャへの鬼対応でよくわかった。あんたらはどうでも、血の濃い子どもが欲しかったんだ」
『……』
「気付いちまったからには忘れられん。権力に、妹ちゃんにのめり込んでみた。むり。酒に飲まれてみた。やっぱ、むり。知らなかったことに、できない。……だから終わらすんだ。きたねえ汚ねえ、この狂わされた人生をよ」
『オーリフ……』
「てめえはアイレーきってのあばずれだ。俺の母は、何も知らずに墓所ん中で眠ってる、あのやさしい清い人だけだ。……てめえは汚ねえまんまで、……永遠にあのくそ野郎、のほほん色魔と、汚くさかっていろ。死ね、……いやころせ。俺を殺せ、あんちくしょう」
『オーリフ!!』
「汚ねえ声で、母にもらった俺の名を呼ぶな!! あばず……」
囁き声で叫びわめき続けた男の身体の内、淡く輝く“熱”が一点に集まる。それをひょいと取り出して、女神は手のひらに転がした。腰のあたり、衣の隠しをごそごそやって、ぶどう色の手巾を出す。それに黄金色の熱の玉をていねいにくるみ込むと、かの女はまた隠しの中に入れた。
動かなくなったオーリフの体、そこの下に手を差し入れて持ち上げる、羽ばたく。はみ出したはらわたがぼたぼた、べしゃんと岩にぶつかる。回収に来る人達が安全に手を伸ばせそうな所まで来ると、かの女はオーリフだったものをそこにぽい、と投げ転がした。
・ ・ ・ ・ ・
王の体は、長いこと発見されなかった。翌朝は早くから強風を伴う雨になって、ディアドレイの居室のすぐ真下の崖に引っかかったオーリフは、必死に捜索する人々の目に留まらなかった。
雨が明けて気温の上がった三日め、大量に集まった鳥たちによって、ようやくその居場所が明らかになったのである。
ディアドレイは王が“失踪”した翌朝、床に倒れているのを侍女が見つけ出した。夫が開いた窓から跳躍した後、動揺して転び、その際家具か何かに頭を打ちつけたらしい、と医師が推測した。やがて気が付いたものの、意気消沈して何も話さず寝たきりという。
厳重な箝口令が敷かれた。ミルドレは近衛主司としてずっと城に詰め、ウルリヒとエリンのそばに控えていた。黒羽の女神はその左肘をつかんで、じっとうなだれている。
ウルリヒの居室にもう一つ文机を持ち込んで、そこに座ってエリンは本を読んでいる。ウルリヒは長いこと、書き取りを続けていた。時折ひょいとミルドレが手元をのぞく。友達に書いてもらった手本をいくつも並べ重ねて、それとそっくり明るい男の子らしい字を、ウルリヒは何列も何列もつづっていた。