22 『くろばね』
「ミルドレ、きみ本当に最近、元気そうだね」
「そうですかね? おかげさまで!」
「何か若返っちゃってない? 新しい恋人でも、できたんかい」
「嫌だなあ。四十年来、心に思うのはひとりこっきりですよ!!」
――最近ね、よう~~やく!! 手を握れるようになったんですよ!!
自慢をぶちまけたいところを抑えて、ミルドレはいつも通りののほほん顔である。
かなり前に亡くなった奥さんのことを言っているのだと考えた同僚の文官騎士は、それでふっと真顔になった。机の上、手元の書束に目を落とす。
「……ところで今回の先生も、だめみたいだね」
「あー、ですね」
しゅうんと笑顔をしぼませて、机の反対側に座るミルドレもそれを見た。
同僚文官は首を伸ばしてミルドレの背後をうかがう、……個室扉はちゃんと閉まっている。
「何をどうやったら、十歳でここまできったない字を書けるんかね? 汚いどころか読めないよ。自分の名まえもごっちゃごちゃで、綴り間違いでとどめが入ってる」
『ほんとだね。ウルリヒ・エル・シェ―になっちゃってる』
ミルドレの横からのぞき込む女神も、鼻にしわを寄せた。
「歴代の王様女王様は皆達筆でいらっしゃるのに、どうしてよりによってうちらの王子様が、こんなあほ字なんだろう……」
「いや、頭は悪かないですよ。他の教科はそこそこできるし、単に先生との相性ですって」
「そうは言っても、今の先生で貴族子弟専門の師範は全滅だよ? こないだ言ってたけど、平民のお習字教室に連れてくって本気なのかい」
「案外、あたりがあるかもしれないでしょう」
女神は、ウルリヒ王子のお習字半布をじーと見つめた。大量発生した黒ぐろけむしが、一列に並んでたまなに突進待機中、な感じの仕上がりである。文に見えない。
――練習して努力するのを、全力で避ける努力をしてる子だもんねぇ……。
何をどうしたって、字は書かなきゃうまくはならないのである。
「はぁ……。エリンちゃんは、毎日毎日たくさん書きまくってるから、あんなにすらすら良い字を書くのになあ。どうして同じようにならんかね」
「まあまあ。次の先生に期待してみましょう」
「君にも手間かけるね。……あああ、早く定年退職して、ゆっくり悩みなく過ごしたいもんだ……」
文官の個室を出る、鐘の鳴る音が遠くで聞こえる。
『……あの人、何か重かったわ』
「……」
皆おもて立っては言わないけれど、近衛も宗主も全員わかっていた。現テルポシエ王室は全然うまく行っていない。子ども達は丈夫で健康、こちらは問題ない。ウルリヒ王子の字が超絶きたないことなんて、ごくごくささいなことである。オーリフ王がいけなかった。女王の夫は、明らかに酒毒に侵されていた。朝見会議にも昼の正餐にもよく遅れる。場違いな陽気さで紛らわしてはいるけれど、誰にだってそのおかしさは感じ取れた。ディアドレイ女王がいつだって悲愴に顔をこわばらせて、色々な調印署名を一人で引き受けている。そういう彼女を“支える”一部の宗主たちが、自然意見を大きくしてきている。
自分が傍らの騎士だった頃、前王がもらしていた危惧がそのまんま実現してきていた。けれど今のミルドレは、それに抗おうとも覆そうとも全く思わない。五年後に迫る定年まで騎士でいる、それしか考えなかった。
期待をかけて自分の血を王室に送り込んだ、それなのに孫たちは黒羽の女神の存在を感じもしない。理由はわからないが、ゆっくりと自滅してゆくオーリフの姿を目にするのも痛かった。この頃ではかの女がそうっと語りかけても、手で耳をふさいでしまう。
かけがえのない、彼の大切なもの。それは確かに存在して生きているというのに、かの女の声に誰も耳を傾けられない。かの女の姿を、誰も目にすることができない。かの女のすばらしさを、他の誰とも共有することができない。
……そういう人々で構成されている今のテルポシエ、現世界に、ミルドレは興味を失い始めていたのであった。
『なんだか、ひっかかるの。ただの気ふさぎかしら……変な病気でないといいんだけど。ねえミルドレ、わたしあの人のお家にちょっと寄って、様子みてくるわ』
「いいけれど、ちゃんと晩ごはんの時間には帰ってくださいよ?」
城門をくぐりながら囁く。自分のことを見聞きできない人なのに心配する、やさしい女神にだめなんて言えない。
『はーい』
女神はふわん、と飛んでいった。
・ ・ ・ ・ ・
しかしその晩、だいぶん遅くなってから女神は南区のアリエ邸に帰って来た。
「もううっ、いま何刻だと思ってるんですッ。ミルドレむっっちゃくちゃ心配したんですよッ!?」
使用人たちも帰ってしまったから、はっきりとした声で叱る。
『ごめんなさい……』
翼ごとしゅうんとしおたれて、女神はあやまる。アイレー史上初、門限をやぶって怒られる女神の出現である!
「はぁぁ、もう。お汁が冷める寸前……」
使用人が作っていった鍋から赤白かぶの煮込み汁をよそって、騎士と女神は静かなる台所で大いにたべた。
『あの人ね、お話書いてるの』
唐突に女神が言った。様子を見に行った、同期文官の事である。
「お話?」
『おうちに帰って、奥さんに接吻して、すごい勢いでごはん食べてから机に突進した。わき目もふらずに筆記布を字で埋めていくの、横で読んでたら物語だった』
「何と! お勤めの傍ら、創作していたのですか」
『お城での仕事中より、よっぽど活き活きしてたわ。単にそっちで頭がいっぱいだったのね、病気でなくって良かった』
「なーんだ。それで、書いてるものは面白いんですか?」
『強烈につまんなかったの。だからもう帰ろうかなって見回したら、机の端にとじた布本が重ねてあって……』
「布本?」
『表紙に大きく“くろばね”って題、下に小さく“我らが女神に捧ぐ”って書いてあったから……。ああ、お供えものなのかしら、って思って読んだの。175年翠月号と、176年燈月号』
「??」
『そ~し~た~らッッ』
女神の顔がくしゃーっとゆがんで、真っ赤になった。
『中にはね、すっっっごい素敵な短いお話や詩がいーっっぱいでね!! 何じゃこりゃぁあ、って引き込まれて読んじゃって!! それで遅くなりました、ごめんなさい! うわあああん』
「えーっ、ちょっと黒羽ちゃん、何でそこで泣くんですっ!?」
思わずおろついてしまって、騎士は手近にあった台所ふきんを差し出した。
『ぜんぶ別々の人が書いてるの! 皆、筆名使ってるからどこの誰なんだかさっぱりわからないのよ……、奥付みたって“ひみつ”としか書いてないし!! それなのに作品は詩魂の入りまくった感動作ばっかり、心が洗われるってこういうことを言うのね!? 思い出しても泣けちゃうのよう!』
芸術にも敏感な女神なのであった。
「そ、そうでしたか……。どんなのが、お気に召したんです?」
ミルドレは鼻歌をうたいながら頭を撫でてやる、ふきんで顔をごしごし拭きつつ女神は言った。
『いいのばっかりだったんだけど……、短いお話にひとつ、とんでもないのがあったわ。若い男の人が、義務でつくった家族と真実の恋の間でひたすら悩み悲しむすじで……倫理と使命と自己と良心にがんじがらめにしぼり上げられるの、読んでるこっちまで切なくってぎゅうぎゅうよ。そのくせ絶妙に笑いも入るし、上品かつ読みやすい文章、時々しれっと入ってくるかっこ良さが、もうたまらないわ! 書いてる人もきっとそんな感じに悩みまくりの、やさしき文学青年に違いないわ』
こんなところまで妬いちゃいかんぞと思いつつ、ミルドレはかの女に笑顔をむける。
「なんだ、楽しかったんなら良かった。有名な作家じゃないんですね?」
教養程度に、そこそこは読んでいる騎士である。
『ううん、パンダル・ササタベーナっていう人。本屋さんとかでも、全然名前見たことないわ』
「私も知らないなあ」
『ああー、また新しいの、書いてほしいな……』