21 たちばなの花の奇跡
『あっ、直した外套さっそく着ちゃってる! ほんとにすてきよ、ミルドレ。声かけてくれた日も、その姿だったんだっけ』
裏庭にはり出した庇付き露壇に出てきたミルドレを見て、女神は満面の笑顔になった。
「中の人は、もうおじいちゃんですよ」
うららかに晴れた卵月の終わり、露壇ちかくの林檎の樹の花がほころび始めていた。
「りんごあげたんでしたね。はい」
老騎士は、地下貯蔵庫から持ってきたあかい実を隠しから取り出す。去年の秋のだからしわしわだ、でもしまい方さえうまければ、ふるい林檎の実は香りを強めて、別のおいしさを持つ。
半分こにした実をしゃくしゃく食べている女神の頭には、ミルドレの知らない白い花がたくさん咲いていた。とてもいい匂いがする。
「今日のお髪、これは何の花です?」
『たちばな』
「うーん、全然知らない。ティルムンの花ですね?」
『そうそう』
よく見ると、深緑色の葉っぱもついていた。
ひらり、白い蝶々が雪片みたいに降ってきて、そこへとまる。
ぶぶぶぶ……。ひそかな羽音を流しながら、蜜蜂もやってきた。
――ふふふ、良い匂いですからね。黒羽ちゃんは、いきものにも人気……。
微笑みながら、ミルドレも林檎を頬張る。目の前に今年の花々が咲きかけている、同じ樹がもたらした昨年の実。りんごの樹にしたら、へんな風景だろうなあと思いながら。
「……」
彼はふと、ようやく気付いた。
「……くろばね、ちゃん」
『はあい?』
「……おぐしの花に、虫がいっぱい、とまってますよ」
『ええ、そうねえ』
女神はのんきに答えた。
「何で虫たち、黒羽ちゃんのお花にとまれるんです?」
女神は目をぱちくりさせた。数秒おいてから口を四角く開けた。
『え、うそ、本当だわ、なんでーッッ』
びくっとしたものだから、それで蝶々と蜜蜂が一瞬離れ、……またたちばなの花にもぐり込む。
「ううっ、深呼吸ッ。動悸どきどきです、落ち着かなくてはッ」
すーはー、……ミルドレはやがて、たちばなの花にそうっと手をのばす。
「私はさわれないのに」
指は白い花を突き抜ける。
『何でこの子たちは……?』
すうー、やわらかい春風がそよいでいった。
「……黒羽ちゃん。虫たちにあって、ミルドレにないものって何です?」
『何だろう……』
もにもにもに……ミルドレは、足元を通りかかった小さな小さないも虫を、やさしくつまみ上げた。
「この子も触れられるのかな?」
だめだった。いも虫はミルドレの指からたちばなの葉に渡ろうとするけれど、その体は空を切ってばかりいる。
『あ、今の子とみつばち達は違うわよ! ちょうちょとみつばちは、羽音で歌いながら触ってくるの。いも虫ちゃんは、お静かすぎだわ』
「歌ッッ」
『そう、羽音の歌があたったところに触れてきてる。歌があたる部分、わたしってさわれるのかな?』
「……」
ミルドレは首を傾げた。歌。うた……、
♪ 俺はイリーの土地うまれ きれいなあの子を恋に誘おう
女神はどきどきっとした。ミルドレが歌うところなんて、初めて見る!
――ええっ!? 何、なんでこんなに良い声なの!? 全然知らなかった、もったいないっ!
♪ 持参金なんざ要らないさ 俺は豊かだ きみがいるなら
大きな手、いとおしい手が伸びてきて、水蜜桃のようなかの女の頬に、……
……ふれた。
つき抜けなかった。
♪ イーレにいい土地もってるし ファダンの谷間の両側だって
四十年間のうちで初めて、借りものの身体を通してではなく、女神は騎士にふれられた。
ミルドレのてのひらが、黒羽の女神の頬に添った。
♪ シーエの地主なんだって 信じないかなあ
深く刻まれた笑いじわ、その中に埋もれかけた蒼い双眸が、喜びに潤んでいる。
むせんで、とうとう歌い続けられなくなって、彼は口を閉じる――途端、手のひらは空を切った。
『やったねえ……ミルドレ……!!!』
「黒羽ちゃん。……私の、黒羽ちゃん」
ふたりは笑った。心の底から笑いあった。
ふたりの上に降る陽光も、わらっていた。