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18 イリー暦176年 書庫と『テアルの巻』

 がちゃり。重い錠音を響かせて、ミルドレは書庫の扉を開けた。



「はい、どうぞ」



 小さな姫と、女性教師とを通す。



「ちょっと空気がよどんでいますね。先生、窓開けて風を入れましょう」


「はい、アリエ侯」



 明り取り、風通しの小さな窓を目いっぱいに開けてから、少女は書棚の前に立った。狙い定めたようにうすい木箱を手に取る。



「『鷹の王』のお話です」


「では座って、読みましょう。アリエ侯、失礼いたします」


「はいはい」



 定年年金生活まであと一息。“傍らの騎士”でなくなったミルドレは、今では王子と姫を中心に世話する、王室係の主司である。


 のんびりしたウルリヒ王子と、ちゃきちゃき利発なエリン姫。ディアドレイ女王とオーリフ王のふたりの子は、すくすく育って元気いっぱいだ。……でも女神を見ることも、聞くこともできない。


 家族の“熱”によって赤点疼を生き延びたミルドレは、どんどん静かに、穏やかに変わっていった。いいや、もともと彼は割とそういう人である。それまでミルドレを追い立てていた雄の本能がよわまると同時に、見えて聞こえる子孫をつくることへの悲愴な執着から、解放されつつあった。


 今日も隣でふよふよ浮いている、もこもこ黒羽の女神への想いはまったく薄れない。けれどここに来て、考え方は別方向へと傾きつつあった。



『ねえねえねえ、ミルドレ、これ知ってる?』



 卓子について、年輩女性教師と熱心に本を読むエリン姫には聞こえないが、女神はちゃんと声を低くして囁いた。そう、書庫では大きな声でしゃべってはいけません! けじめはつける女神である。


 二人のいる卓子とミルドレの間には、ひとつ書棚が置いてあるから、大丈夫だろうと見当をつけて彼も囁きかえす。



「何ですか?」


『わたしのこと、見えた人と聞こえた人が、一緒に作ってくれた本よ』



 木製の箱からして高そうなのが、女神の指差すところにある。普通の騎士なら触ってはいけないのだろうが、近衛の主司なんだから問題ない。


 中の布包みをそっと開くと、きらきらした貴石つきの表紙が出てきた。『テアルの巻』。


 一緒に箱に入っていた絹の手袋をはめて、手に取ってみる。



「おやっ、古イリー語ですね」


『そりゃそうよ、百五十年も前のだもの。……字、小さい? 読める?』


「装飾してあるから、むしろ普通の書簡よりも読みやすいですよ」



 老眼絶好調の騎士は、ぐーっと腕を伸ばして写本に見入った。



「へえー、……ほーう……ふーむ」



 ぱらり。



「あらららら、これ黒羽ちゃんじゃないですか! かわいいですねえ!」


『しーっ、声が大きくなってるわよッ』


「おっとっと。けどこんな風に、ちゃんともこもこのふわふわに描くなんて。広場の像なんかより、よっぽど実物に似てますね。……あれ? でも何だか、見おぼえが……」


『西の塔の壁にくっついてる彫刻でしょ。あれもこの本と同じ、ユングードおじさんが作ったのよ』


「ああ、そうなんですか。でもこれだけ可憐に描けるってことは、ユングードも黒羽ちゃんに恋してたんじゃないですかねえ。……何だかしゃくに触る」


『……ミルドレ。つづき、続き』



 老いらくの嫉妬はみっともないのである。



「はいはい。えーと? あらら? ちょっと黒羽ちゃん、変じゃないですか、この話」


『?』


「王子様をひょいと手のひらにのせたり、お城をぶん投げたりって……。黒羽ちゃん、どうしてお話の中で大っきいんです? こんなに小っちゃくってかわいらしい、あなたなのに」


『……』



 黒羽の女神はきょとんとして、目を丸くした。



――あちゃあ、そうだった。ミルドレは、……今の時代の人には、全然知られてないんだっけ。



「笑ってないで、教えて下さいよ?」



 きょとんとしてもぼけっとしても、笑いがおに見える女神の地顔である。



『……うん、ごめんなさい。詳しくは晩のごはんの後にでもしっかり教えるから、ミルドレ。今はとりあえず、最後まで読んじゃってね』


「?……ええ……」





 やがてぱたん、かたかたと音がして、小さな姫がひょいと書棚の後ろから現れた。



「ミルドレおじさま、お勉強おわりました」


「おや、もうそんな時間ですか。……先生、お疲れ様でした」



 窓を閉めていると、開かれた扉の外から声がきた。



「お、エリンちゃーん!! 妹ちゃーん!!」



 はっ、と姫が息を呑む音をたてて、さあっとミルドレの背後にまわった。



「これは陛下、ごきげんよう」



 よろよろ、どたり、規則性の全くない足音を石床に響かせて、オーリフが入ってきた。


 後ろに壮年の近衛が二人。ミルドレの横で、年輩教師はひたすらお辞儀の姿勢である。



「ごきげんよう、アリエ侯っっ!! 今日は会っていなかったね、エリンちゃん! お父さまに抱っこさせてくれないのかな、妹ちゃん!!」



 さっとしゃがんで両腕を広げるオーリフ、……しかしエリンはミルドレの腰のあたりにぎゅっとしがみついて、隠れ続ける。



「もう、本当ーにエリン姫様は、おできになるもんですから!」



 いつもと変わらない、のほほんとした笑顔を装備して、ミルドレは王を見下ろす。



「一刻以上もぶっ続けでお勉強されたので、ちょっと頭がちかちかしちゃったんですねー」


「あはははは! すごいなーあ、エリンちゃん! お兄ちゃんを追い越して、女王さまになっちゃうぞ!」



 オーリフも満面の笑顔だ。うつろな笑顔、ばかでかいどら声。女神はその耳元に顔を寄せる。



『オーリフ。ここは書庫よ、大きな声で喋ってはいけません』



 囁き声が耳に入った途端、すっとオーリフは口をつぐみ、そして立ち上がった。



「……さっ! 会議の時間かな!」



 笑顔を貼り付かせたまま、くるっと踵を返すと、書庫を出てゆく。


 ミルドレと女神は、同時に溜息をついた。エリンがようやく、ミルドレの腰から離れる。



「おじさま、ごめんなさい」


「……」



 ミルドレはゆっくりしゃがんで、エリンの顔を見た。


 白い頭巾にひらひら絹長衣、白金髪を含めて全身ぴかぴか純白の少女は、顔をけむたそうにしかめて言う。



「最近のお父さま、大嫌いなの。すごく、くさいから」



 ぐわーん!! 頭を殴られたような、いいやそれこそ翼びんたされたような衝撃をおぼえて、女神はつい後じさってしまった。



――ミルドレの加齢臭を何っとも思わないエリンちゃんに、ここまで言われてしまうオーリフって……!



 寂しげな笑顔で、ミルドレはうんうんとうなづいた。



「……くさいのはお父様ではなくって、お父様ののんでらっしゃるお酒なんですけどね……」


「お酒のむの、やめて欲しいわ」


「ミルドレも、そう思います」


『黒羽の女神も、そう思います』



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