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11 オーリフ・ナ・ターム若侯

『……うん、だいぶん落ちたわよ。もう大丈夫?』


「すみません。ちょっと取り乱しちゃった」


『珍しい』



 執政官の部屋と書簡庫の立ち並ぶ一画、傍らの騎士用個室で、ミルドレはげんなり座っていた。その胸にぴったり耳を押し当てて、鼓動の速さを聞いていた女神は、彼の顔を見る。



「最近ほんとに動悸が上がっちゃって……、いかん、このままじゃ早死にしちゃう。もうちょっと落ち着かないとなあ」


『深呼吸、深呼吸』


「そうそう、深呼吸」



 騎士は少ししわの刻まれた顔を、かの女の頭のてっぺんに寄せた。黒髪のなかに鼻を埋めることはできないけれど、そこに咲いている青い紫陽花あじさいの匂いはちゃんと鼻孔に入ってくる。



『ディアドレイ姫のこと、すごく心配してるのね』


「ええ。ほら本人からもこの間、話されたばかりでしょう……」



 のっぽな身体を猫背に丸めて、第一王女ディアドレイは下を向いていることが多い。


 つとめて明るく、ミルドレは彼女を励まし続けた、さあ上を向いて! 笑顔で! 色々はっきり言ってみましょう、ねっっお姫様! 力が入るのは当たり前だ、自分の娘・・・・なんだもの。



――わたし、何もしたくないんです。



 拒絶なのか反抗なのか、先日ディアドレイはとうとう言った。



――だってなんにも楽しいこと、ないんですもの。



 どきりとしたミルドレが見つめていると、うつろに寂しげなみどりの瞳が見返してきた。



――言われたことは、いたします。けどたのしく笑えなんて、無理。



 生まれつきの重い何かが、若い娘をがんじがらめに拘束していた。少し後ろで、窓際の陽光を浴びつつ妹姫がころころ笑う。



――ねえ、姉さま! 雨があがったし、お堀のざりがに、見に行こう!





『たのしくないって、……どうしてそうなのかしらね。他の皆は簡単に見つけてる小さな幸せを、ちゃんと感じられないってことなのかな』


「そう言えばちっちゃい時から、食べてる時もずっとむっつりの子でした」


『……ごはんもおいしくない、ってこと?』


「乗馬も読書も槍もしているけど……全然笑わないし、何かこう不機嫌というか虚ろですね。頭が悪いわけではないけど、何もかも仕方なくしぶしぶやっている感じだから、成績として光るものが何にもない。こりゃ王様の言う通り、グラーニャ様に女王座を持ってかれてしまうなあ……」



 女神はミルドレの膝に乗っかったまま、内心ではそれでもいいんじゃないの、と思っていた。


 けれど口に出しては言えない。ミルドレは自分の娘が女王になることを望んでいる、自分の血がテルポシエ王統に強く入り込むことを願っている。ディアドレイ自身はかの女を見ることも、聞くこともできなかった。けれど、ディアドレイの子孫である王室の誰かが黒羽の女神を見られる未来が来ると、ミルドレは信じているのだ。



『いやいや、まだまだわからないわよ。ほら、ありきたりだけど、自分にぴったり合う分野の何かが見つかれば、がぜん張り切り出すかもしれないし!』


「お習い事は、通りいっぺん試しましたがねえ」


『それに女の子だもの。すてきな誰かに恋をして、別人みたいに変身しちゃうことだってありうるわ』


「うーん。女の子歴数千年の黒羽ちゃんが言うんだから、そうなんでしょうねえ」



 中年の域にさしかかった騎士は、笑顔で首をひねる。



「あなたはずうーっと、変わらずにあなたですけどね。ほらそうやって、また照れる」


『……』


「一緒につくった子が四十五人……。いまだ、見る子聞く子は出てきませんね」


『隔世に期待しましょ。あなただって、ひいひいおばあさんから三代とばしだったのだし……ね、時間大丈夫なの? 会議でしょう』


「ですね。やれやれ、膝ちょっと痛い」



 よっこいせー、と立ち上がり、騎士は草色外套を羽織る。



「今晩も、どこか行きましょうか」


『動悸がいけないんじゃなかったの』


「そっちのどきどきは、むしろ健康によろしいんですよ。あはは」


『ほんとかなあ?』



 扉を開けて、騎士はおや、とちょっと驚く。



「やあ……びっくりした」



 書束を抱え持った若い騎士が、そこに立っていた。



「申し訳ありません、アリエ侯。会議場の変更を、お知らせに参りました」


「扉を叩いてくれれば良かったのに」


「……すみません。楽しそうにお話されてる声が聞こえたんで、……その。女性のかたと」


「……女性?」


「ええ、いらっしゃるんですよね?」



 若い騎士は端正な顔で、じいっとミルドレを見上げた。聡げな翠の瞳に、油断のならない光が輝いている。



「……ちょっと、中へ」



 ミルドレは彼の肩を抱き込むようにして、室の中へ入れ、扉を閉めた。



「ターム若侯」


「はい?」



 ミルドレの後ろから、そろりと出た女神も、目の前の若者を見つめる。



『……あなた、わたしの声が聞こえるの?』


「え? ええ、はい。どちらにいらっしゃるんです」



 声の主を探して、ターム若侯は右左と見回した。けれど視線は、すぐ前にいるかの女を突き抜ける。



『オーリフ・ナ・タームは、わたしの声を聞ける……』



 瞳を大きく見ひらいて、女神は若者を、そしてミルドレを見た。



「ええ、だから聞いてますって。どこなんだろう、困っちゃうな」



 ミルドレはぐーっっと唇を引き結んだ。“卵”が孵った!!


 女神の声を聞けても、その姿を見られないミルドレの息子は、自分がかの女に抱きしめられているのも知らず、困惑顔で辺りをきょろきょろと見回している。



・ ・ ・ ・ ・



「いやー、ミルドレ。本当に良かったよ、ディアドレイがここまで変わるとはね! 前は槍の稽古にもむっつり不機嫌だったと言うのに。短槍から長槍に切り替えた途端、あんなに伸びるとは、びっくりした!」



 香湯こうゆの椀を手に、嬉しそうに言う王である。



「これまでは女の子だから、と短槍ばかりでしたけど……。あの子の身の丈を考えれば、長槍が良かったんですのね。やはり人間、自分に相性のよいものが必要なんですわ」



 ティユール妃も、隣でおだやかに笑う。



「君の進言取り入れて、大正解だったよ」


「いえいえいえ、陛下。ミルドレ何にもしておりません。ディアドレイ様が長槍むきとひと目で見あてたのは、オーリフ・ナ・ターム若侯なのです」


「確か、実技の首席で一級合格した人だったね」


「筆記の方も、ぶっちぎりでございます。どうでしょう、そういう優秀な方に指南に入っていただければ、ディアドレイ様さらにぐんぐん伸びると思うのですが!」


「ほんとだね、良いかもしれないね」



 通常と比較して三倍増しくらいの情熱的あいそう・・・・を湛えて、王にオーリフを売り込むミルドレの横、黒羽の女神ははらはらしながら聞いていた。

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