1 イリー暦136年 東の鐘楼
ざぶん。 ……ざっっぶーん。 ごごごご……。
灰色の曇り空の下、女は目を閉じて、ひたすら波の音を聞いていた。
自分のうずくまっている東の鐘楼の、ずっと下の方にある展望のきれいな長い露台、そこからさらに下はテルポシエ城の基盤が岩々に融け入っているところ。そのごつごつした岩礁にぶち当たっては引いてゆく海の音を、女は耳にしていた。
そうしていることのつまらなさ、ばかばかしさ、くだらなさを思うのもずうっと昔にやめてしまっていて、かの女はただそうすることで時が過ぎるに任せていた。
今日みたいな湿っぽい日にはあり得ないけれど、たまによく晴れた暖かい日には、展望露台をそぞろ歩く人々がいる。それらにぼんやり目を向けて、彼らの会話に耳を向けることもある。
かの女は城の中で話し合われる事柄も全て拾い聞いているから、イリー暦136年のこの日の政情や税率や年金受給者数なども知っていた。
ただ、それらは事実として頭の中に入ってくるだけで、それがテルポシエの人々にとってどういう意味をなしているのかを、かの女は知らなかった。知ろうともしなかった。
大きな黒い翼をもぞりと動かして、かの女は鐘楼の先端、自分のために作られた小さな屋根付き透かし堂の中で座り直す。もこもこの翼二枚の中にくるまって、頭だけを出している。
ぷああ、女はあくびをした。
眠いのではない、かの女は眠らない。眠る必要はないのだ、……けれど夢というのはちょっと見てみたい気がした。
人間が自分のなかに見るという別の世界、どんなものなのだろう?
「おーい」
城のどこかで、誰かが誰かを呼んでいる。応える声はなかった。
「こんにちはぁー」
今度は挨拶だ。やっぱり応える声はない。
「お嬢さああん」
どこのお嬢さんかしらね。早くお返事したげなさいよ、とかの女は思う。
目線をちょっとだけ下にした、 ……どきぃぃぃっ!とした。
すぐ目の前に人間が立っている。
透かし堂の段々の手前に人間がひとり、かの女の知らない男が立っていて、こちらに笑顔を向けているではないか。
「こんにちは、お嬢さん! いい日ですねっ」
その目は、……あまりにきれいな蒼い瞳は、かの女以外を見ていなかった。
ばちばち、かの女は目をしばたたく。
『……わたし?』
「ええ、そう」
男はうなづく。ちりちりした長い髪が揺れる。金髪とも赫毛とも言えない、その中間のような珍しい髪をしている。少なくともかの女はこんな頭の人を知らない、イリー人じゃないのかしらと思う。ひょろんと長い体に草色外套を巻き付けて、腰に短槍をさげているらしかった。
『騎士さん、あなた、わたしが見えるの?』
「ばっちり見えますよ?」
『……聞こえもするのね?』
「はい」
何でそんなことを聞くのか、……そう言いたげに若いテルポシエ騎士は小首を傾げた。
かの女はぽかんとした。口をまるく開けて、騎士の顔をまじまじと見る。もともとかの女の顔は笑っているようにできている、それで騎士も笑い返した。
「お隣、いいですか?」
『ええ、どうぞ』
もこもこ姿勢のまま、女はお尻をずらして騎士のために場所を空ける。彼はそこにひょいと座った。
「ミルドレ・ナ・アリエといいます。先週一級になったばかりの、ほやほやです」
『あっ、そうなの! おめでとう』
昔は世襲で騎士になっていたが、最近は貴族の子弟でも一応試験を突破しないといけないらしい。
「ありがとう。お嬢さんは?」
『わたし、黒羽の女神よ』
今度はミルドレが、目と口をまるく開けた。
「あらららら、そうでしたか、やっぱり」
『……』
「時々見てたんです。あの展望露台から、試験直前ですっごい緊張してたとき」
やたらひょうきんと言うか朗らかというか、こちらの力を脱けさせる調子の話し方である。本当に緊張してたのだろうか。
「あとほら、こっち側から食堂の屋上が見えますでしょ? そこからも」
別方向を指しながらミルドレは続けた。
「騎士になる前、お城で演武会やお年賀会があった時にも見ました。あなたはずうっと、ここにいらした」
――そりゃそうよ。女神だもの、持ち場はなれちゃいけないのだわ。
「ずうっとお一人で、お羽を丸くしてらしたんですか?」
おはね、その言い方が何だかおかしくて、黒羽の女神はぷっと吹き出す。
「ですから私、決めてたんですよ。騎士になれたら、あなたに挨拶しに来ようって。ひょっとしたら黒羽の女神さまなのかもしれない、鐘楼のお嬢さんに」
『正解よ、ふふふ。ほんものよ』
「ええ。来方がよくわからなくって、七日も経っちゃいましたけどね。この鐘楼、下階の入り口がややこしいんです」
記憶の限り、そう難しくもない構造だったはずだが……。微妙におっちょこちょいなのかもしれない。
「女神さま、くだもの好きですか?」
『ええ』
「じゃ、これどうぞ」
騎士は隠しの中から、真っ赤な林檎を取り出した。
『わあ、きれい!』
「うちの庭のなんですよ。あ、皮むきましょうか?」
ミルドレがもう片方の手でちゃきっと小刀を取り出すのを見て、女神は言ってみた。
『皮はそのままでいいから。はんぶんに切って』
「え?」
『いっしょに食べない? ミルドレ』
芯の部分を器用にぐるりっとくり抜いてから、ミルドレは果実を半分にした。
「はい、どうぞ」
もこもこ翼のあいまからそうっと手を出して、かの女はミルドレの手のひらから、それを受け取った。
『おいしーい』
しゃくしゃくしゃくしゃく……。
「ちょっと酸っぱいとこがね、また良いでしょう?」
『うん!』
「午後休憩が終わるので、そろそろ行きますね。また来ます、女神さま」
『ええ、ごちそうさま』
手を振り合って、ふたりは別れた。
百数十年ぶりに味わった果物のあまさが、かの女の中に長く長くとどまっている。女神はもこもこ黒羽の中で、ずうっと微笑していた。