美しい星
暗黒の宇宙を旅している。
数十秒に一度、脈動のような音が船内に響く。高熱の臨界流体が船体を駆けめぐる音だ。船は空間の一部をつかみ、力強く加速する。
眼の前には水と飴玉。気がつくといつの間にか置かれている。
「到着予定は1時間後です」
船内アナウンスが流れる。無味乾燥な合成音。高度に自己進化を続ける船において、人間の仕事はほとんどない。
「ようやく、故郷に戻ってきましたね」
横にいた老人は感慨深げにつぶやく。大勢の人間が集められたホールにはモニターがあり、超望遠で映し出されるのは赤い星。7つの衛星に取り巻かれた美しい星。
「そうですね」
「いかがですか、私のぶんも」
老人は飴玉を差し出す。彼はずっと食べていない。生命活動に必要なエネルギーは目に見えない形で供給されているらしい。
ではこの飴玉は何かというと、脳の活性化だ。
ほとんど刺激のない船内では脳が鈍麻してしまう。この飴はニューロンを活性化させ、思考を明瞭に保つ効果があるようだ。
「では、いただきます」
食べると同時に、どこかでからんと音がする。誰かが飴玉を排水口に捨てた音だ。
みんな、果てしない旅に疲れ果ててしまった。
脳を明晰に保つこともやめて、ただぼんやりと闇を見つめるだけの日々。私達に老化や病気はない。飴玉のせいでそういう事が理解できる。
「美しい星です」
老人が呟く。
「ようやく帰ってこれました」
老人の言葉の意味も理解できる。老人は、あの星を故郷だと思い込もうとしている。
老人だけではない、ホールにいるたくさんの人間、何もせず、座り込むか寝そべるかだけの違いしかない人間たちが、漠然と共有している概念。
これは故郷への旅であると。
頭が冴えてきている。私は手を伸ばし、転がっていた飴玉を拾う。水を飲む。
「歓迎の火が上がっています」
老人が言う。宇宙に明滅する光。純水爆だろうか。知的生物による攻撃だろう。この船には蚊が刺すほどの痛みもない。
飴玉を噛み砕く。摩滅していたニューロンがうごめき、頭の中のイソギンチャクが手を取り合って結ばれていく。冷水で脳を洗うようなぞくぞくする快感。
理解できる、この船はどこにも向かっていない。
目的地はなく、寄港地もない。あるのは食欲だけ。
それは生き物に似ている。たどり着いた星の資源をすべて奪って、飴玉のように星をねぶるだけの生き物。
「ああ、ようやく、帰ってこれた」
老人がまた言う。少しわざとらしく感じた。
不思議なものだ。どこかへ行く旅ではなく、皆が帰り道だと思い込んでいる。思い込もうとしている。
おそらく罪悪感からだろう。
どこか新しい星へ向かうことが、罪悪感と結びついているのだ。
「もしもし、我々に故郷などありませんよ」
私は小声でささやく。
「過去にはあったかも知れませんが、もう食い尽くされてしまいました。この恐ろしい船に」
この船は、一種の怪物。
乗組員を必要とせず、無限に泳ぎ続け、立ち寄る星からすべてを奪う。飴玉をねぶるように。
「私達はこの船に捕らわれています。永遠に生かされているんですよ」
その言葉は、老人の乾ききった脳に届いただろうか。
故郷に帰る、最後の最後にそんな妄想だけが残った老人に、どんな作用を与えただろうか。
「美しい星です」
また繰り返す。老人の声は震えている。感慨深いようでひどく危うい。いつか妄想が崩れることを恐れるようにも見える。
私は、おそらくもう私だけが、この船で理性を保っている。
それに何の意味があるのか。この船は私達を殺しもせず、なぜ乗せ続けているのか。なぜ、全てが理解できる飴玉を与えるのか。
私はこの船の良心だろうか。
それとも地獄の亡者だろうか。
あるいは私こそが地獄の獄卒。何もせず、指一つ動かさず、船が星を蹂躙するさまを眺め続けるサディストだろうか。
私は飴を噛み砕く。
あらゆることが理解できる。
美しい星が船の蹂躙を受けようとしている。星の住人の悲鳴、その一つ一つを感じるかのようだ。
千万の悲鳴を遠く知覚し、私は恍惚の中で泣いた。
(終)