笑っている
警察官をしております。
ある時のことです、警察業務の一環として独居老人のお宅を訪問して回っていると、道の端に女の子がうずくまっていました。
どうしたのかと声をかけると、家に帰りたくないと言うのです。
なぜかと聞けば、笑っている人がいるから、との事でした。
その子が家に帰る途中、ある家の前を通るそうです。そこに笑っている女が出て、その笑い顔が怖くてたまらず、通るのがとても怖いと言うのです。
笑い顔が怖い、ということの意味が分かりませんでした。そのように正直に答えると、女の子はランドセルからノートを取り出して、一枚の絵を描きます。
出来上がったものは人間の顔でした。女性のように見えます。
目には黒目がなく、髪は長く垂れ下がっていて、口の部分が異様に上下に引き伸ばされて、紙の半分ほどを占めています。女の子は赤鉛筆で、その口の中を真っ赤に塗ります。
笑っているように見えるのですが、狂おしくて不気味で。確かにぞくりとするような恐怖を覚えました。
私はその子の手を取り、家まで送ることにしました。
住宅街を通り、少しさびれたアパートの脇を抜け、裏路地へ。人とすれ違うことはありません。
そこ、と、女の子が言いました。
その子は恐怖に震えていて、私の手を強く握っています。けして横を見ようとせず、自分の靴だけを凝視するような姿勢です。
私は右手側を見ました。そこには古びたアパートがあり、その二階に。
笑っている。
そう見えたのは窓から見えるぬいぐるみでした。
大きめの白熊の前に赤いペンギンという並び。部屋が暗いため、遠目で見るとワンレングスの色白の女性が、大口を開けて笑っているように見えるのです。
私はそのように説明しました。女の子はごくわずかに首を動かし、脂汗の浮いた顔で、唇を青く染めながら私を見ています。
妙な女の人なんかいない、ぬいぐるみがそう見えているだけだ、と説明し、窓を指さそうとすると。
やめて。
と、絞り出すような声で言います。
怒らせてしまうから、指をさすのはやめてほしい、と言うのです。
私もさすがに戸惑いました。こんなに恐怖を感じていては、生活に支障が出るのではないかと。
結局その後は会話もなく、私は女の子を家に送り届けました。
彼女の母親は驚いた様子でしたが、妙な女性の話をすると、ふうとため息を付きます。
いつもそう言うんです、と。どうやら母親も困っている様子でした。
基本的に、学区内であれば通学路は融通がきくはずです。どうしても怖いなら変えるという手もありますので、学校と相談すると良いでしょう。と告げました。
女の子はずっと真っ青なままでした。
その家を後にしても、私はずっと気が晴れないままでした。
ぬいぐるみが人の顔に見えただけという錯覚。それだけのことにあんなに怯えるというのもかわいそうな話です。今後のパトロールで、あの子を見かけたら様子に気をつけておかないと。そんな風に考えていました。
ふと、気配が。
顔を上げて横を見ると、白と赤が。
白熊のぬいぐるみにの前に、赤いペンギンという並び。さっきとは違う家です。
流行っているのか、と、深く考えず歩を進めます。
また気配が。右手を見れば白熊と赤いペンギン。
あの家も。
向こうのアパートにも。
赤いペンギン?
よく考えると奇妙です。そういうキャラクターがいるのでしょうか。
あの家も、あっちにも、その隣にも。
錯覚。
そんな言葉が浮かびます。
そう、あれは笑う女ではない。白熊と赤いペンギンのぬいぐるみ。
どちらが錯覚?
私の背中を、氷点下の悪寒が這い上がりました。
私はもう顔を上げられませんでした。
もし顔を上げて、目の前に白熊と赤いペンギンがあったなら、私の心は砕けたかもしれない。
私は震える足で歩き続けました。一刻も早く同僚と合流しなければ。交番に戻らなければ、それだけを頭の中で唱え続けて……。