ある不安
「何となくなんだよ、理由とかは分からないんだ」
キジマについて覚えているのは、『掴みどころのない話をするやつ』だ。
高校のころにほんの少しだけ友人だった男。キジマは色々な話をした。鳥はなぜ飛ぶのか。骨折の痛みはなぜあんなに苛烈なのか。なぜゴッホは不気味な絵ばかり評価されるのか。
大半はどうでもいい話で、キジマも本気で何かを見出そうとはしていなかった。
その日もそんな話をしていた。
「あるだろう? 何だか今日は帰りたくない、まっすぐ帰りたくないって日がさ」
あると言えばある。寄り道をしたいとか、家に嫌なことが待ってるとか。
「そういうのじゃないんだ、ただ帰りたくないってことなんだ、帰ってはいけない予感なんだ」
意味がわからない、と俺は言う。
社会人なら外泊もできるが、学生なら帰らざるをえない。
「そうなんだよ、帰るしかないときは起こらないんだ、きっと、選べるようになると起きるんだ」
やはり分からない。掴みどころがない。
「家に帰るって、大きな決断だろ?」
そんなことはないだろう。特に決意を固めて帰っていない。
「ああ違う、そうじゃなくて、家に帰らないって決断するのは大きなことだろ」
それは確かに。
「だから、家に帰るってのも大きなことなんだよ。対比になってるんだ。家に帰ることと帰らないのは、曲がり角を右へ曲がるか左へ曲がるか、そのぐらい大きな分岐点なんだよ」
やはり分からない、素直にそう告げる。
「そうかあ、俺もまだ経験ないんだよなあ」
帰りたくない日が来たらどうするんだ、と俺は問いかける。
「もちろん、逃げるんだよ、帰るということから」
何一つ分からない。砂が積もるような無意味な会話だった。話題はまた変わって、辛いものはなぜ美味いのかとか、携帯電話は本当に必要なのかとか。そんなくだらない会話を交わした。
いつもと同じ、学生の頃の不定形で曖昧な哲学。
だが何故か、帰るとか帰らないとか、その会話だけは細部までよく覚えている。
※
まあ何というか、世の中は下らないことの集合体だ。
この世の面倒なことはすべて俺に集まるようにできてて、俺はそれなりに勤勉だから、ある程度は片付けてやる。残りは別の誰かに押し付ける。
クライアントは際限なく仕様変更を言い出し。
営業は現場のことなど考えもせず。
上司は部下を残業させることが仕事と考え。
前任者は引き継ぎもせず辞めて。
同僚は仕事のやり方を合わせる気もなく。
後輩はいつ辞めるかしか考えてない。
キーボードを叩く。もう何連勤か分からない。
湯呑みを重く感じるほど疲れている。
こないだは別の課のやつがトイレで溺死を測ったらしい。錯乱していたのだ。
だかまあ、俺はまだマトモだ。
トラブルは解決できている。納期からの逆算もできている。他人のミスを隠蔽してやる余裕まである。
疲労の中で俺の意識はハイになってる。また理不尽な仕様の追加があった。まあいい、俺が解決してやる。
カフェインを過剰に接種し、椅子で眠り、意味不明な仕様書に悪態をつき、後輩が辞めないようにコーヒーぐらい奢ってやる。
いつもの日常。
もう何年もこんなクソったれな仕事を続けてる。もう慣れてしまった。死なない程度に体調管理もできている。
今日は珍しく速く片付いた。帰宅しようと椅子を立つ。
――帰りたくない。
ふと、足が止まる。
会社の玄関口、タイムカードにかけた手が止まる。
「――さん、どうしたんですか」
続いて帰ろうとしていた後輩が立ち止まる。速く帰って流行りのゲームでもやりたいのだろう、目が焦っていた。
何でもない、と俺は答える。
何だ? いま、帰ることに違和感があった。
タイムカードを押す、がちゃんというアナログな音、これをごまかさないことだけがこの会社の美点だ。
そのまま、数秒立ち尽くす。
帰りたくないという気持ちが確かにある。
馬鹿な。何日ぶりの帰宅だと思ってる。
家の掃除もしなきゃいけない。冷蔵庫の中身もそろそろ片付けたい。布団を干したいし郵便物が届いてるかも知れない。
それに俺は、会社帰りに飲んだりしない。
そうだ、帰らない理由は何もない。
だが。
足が。
「先輩、横失礼しますよ」
後輩が俺の横をすり抜けていく。他の社員も。
当たり前のように皆が帰宅する。
だが、俺は。
俺の足は、帰ろうとしている。
そうだ、帰るしかない。
それが常識だから。
当たり前のことだから。
俺は玄関のドアを押し開け、よろめくように外に出る。
夜風が肌に刺さる。遠く車の音が聞こえる。
外は地獄のような光景。
ビルは溶け崩れ、車は黒煙を上げ、毛むくじゃらの怪物たちが人間を襲っている。
妄想だ。何も起きていない。
だが確かに、恐ろしく破滅的で、取り返しのつかないことが。
起こると、分かっているのに、もはや確信しているのに。
足が止まらない。俺は駅に向かって歩かねばならない。
恐ろしさが頭の片隅に追いやられている。圧倒的な常識の奔流が本能を打ち消す。
恐ろしい。
恐ろしい。
帰りたくないのに。
帰ってはいけないのに。
街は泥を浴びたように黒ずみ、頭をもがれた死体が横たわる。俺を責めさいなむ怪物が街をうろついている。
でも、帰るしかない。
帰らないという、選択が。
あった、はず、なのに。
キジマ。
その名を最後につぶやき。
そして俺は、恐れる心すら、かき消されて。
あとはただ、帰るしか……。