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ある不安



「何となくなんだよ、理由とかは分からないんだ」


キジマについて覚えているのは、『掴みどころのない話をするやつ』だ。


高校のころにほんの少しだけ友人だった男。キジマは色々な話をした。鳥はなぜ飛ぶのか。骨折の痛みはなぜあんなに苛烈なのか。なぜゴッホは不気味な絵ばかり評価されるのか。


大半はどうでもいい話で、キジマも本気で何かを見出そうとはしていなかった。


その日もそんな話をしていた。


「あるだろう? 何だか今日は帰りたくない、まっすぐ帰りたくないって日がさ」


あると言えばある。寄り道をしたいとか、家に嫌なことが待ってるとか。


「そういうのじゃないんだ、ただ帰りたくないってことなんだ、帰ってはいけない予感なんだ」


意味がわからない、と俺は言う。

社会人なら外泊もできるが、学生なら帰らざるをえない。


「そうなんだよ、帰るしかないときは起こらないんだ、きっと、選べるようになると起きるんだ」


やはり分からない。掴みどころがない。


「家に帰るって、大きな決断だろ?」


そんなことはないだろう。特に決意を固めて帰っていない。


「ああ違う、そうじゃなくて、家に帰らないって決断するのは大きなことだろ」


それは確かに。


「だから、家に帰るってのも大きなことなんだよ。対比になってるんだ。家に帰ることと帰らないのは、曲がり角を右へ曲がるか左へ曲がるか、そのぐらい大きな分岐点なんだよ」


やはり分からない、素直にそう告げる。


「そうかあ、俺もまだ経験ないんだよなあ」


帰りたくない日が来たらどうするんだ、と俺は問いかける。


「もちろん、逃げるんだよ、帰るということから」


何一つ分からない。砂が積もるような無意味な会話だった。話題はまた変わって、辛いものはなぜ美味いのかとか、携帯電話は本当に必要なのかとか。そんなくだらない会話を交わした。

いつもと同じ、学生の頃の不定形で曖昧な哲学。


だが何故か、帰るとか帰らないとか、その会話だけは細部までよく覚えている。





まあ何というか、世の中は下らないことの集合体だ。


この世の面倒なことはすべて俺に集まるようにできてて、俺はそれなりに勤勉だから、ある程度は片付けてやる。残りは別の誰かに押し付ける。


クライアントは際限なく仕様変更を言い出し。


営業は現場のことなど考えもせず。


上司は部下を残業させることが仕事と考え。


前任者は引き継ぎもせず辞めて。


同僚は仕事のやり方を合わせる気もなく。


後輩はいつ辞めるかしか考えてない。


キーボードを叩く。もう何連勤か分からない。

湯呑みを重く感じるほど疲れている。


こないだは別の課のやつがトイレで溺死を測ったらしい。錯乱していたのだ。


だかまあ、俺はまだマトモだ。


トラブルは解決できている。納期からの逆算もできている。他人のミスを隠蔽してやる余裕まである。


疲労の中で俺の意識はハイになってる。また理不尽な仕様の追加があった。まあいい、俺が解決してやる。


カフェインを過剰に接種し、椅子で眠り、意味不明な仕様書に悪態をつき、後輩が辞めないようにコーヒーぐらい奢ってやる。


いつもの日常。

もう何年もこんなクソったれな仕事を続けてる。もう慣れてしまった。死なない程度に体調管理もできている。


今日は珍しく速く片付いた。帰宅しようと椅子を立つ。



――帰りたくない。



ふと、足が止まる。


会社の玄関口、タイムカードにかけた手が止まる。


「――さん、どうしたんですか」


続いて帰ろうとしていた後輩が立ち止まる。速く帰って流行りのゲームでもやりたいのだろう、目が焦っていた。


何でもない、と俺は答える。


何だ? いま、帰ることに違和感があった。


タイムカードを押す、がちゃんというアナログな音、これをごまかさないことだけがこの会社の美点だ。


そのまま、数秒立ち尽くす。


帰りたくないという気持ちが確かにある。


馬鹿な。何日ぶりの帰宅だと思ってる。

家の掃除もしなきゃいけない。冷蔵庫の中身もそろそろ片付けたい。布団を干したいし郵便物が届いてるかも知れない。


それに俺は、会社帰りに飲んだりしない。


そうだ、帰らない理由は何もない。


だが。


足が。


「先輩、横失礼しますよ」


後輩が俺の横をすり抜けていく。他の社員も。


当たり前のように皆が帰宅する。


だが、俺は。


俺の足は、帰ろうとしている・・・・・・・・


そうだ、帰るしかない。


それが常識だから。


当たり前のことだから。


俺は玄関のドアを押し開け、よろめくように外に出る。


夜風が肌に刺さる。遠く車の音が聞こえる。


外は地獄のような光景。


ビルは溶け崩れ、車は黒煙を上げ、毛むくじゃらの怪物たちが人間を襲っている。


妄想だ。何も起きていない。


だが確かに、恐ろしく破滅的で、取り返しのつかないことが。


起こると、分かっているのに、もはや確信しているのに。


足が止まらない。俺は駅に向かって歩かねばならない。


恐ろしさが頭の片隅に追いやられている。圧倒的な常識の奔流が本能を打ち消す。


恐ろしい。


恐ろしい。


帰りたくないのに。


帰ってはいけないのに。


街は泥を浴びたように黒ずみ、頭をもがれた死体が横たわる。俺を責めさいなむ怪物が街をうろついている。


でも、帰るしかない。


帰らないという、選択が。


あった、はず、なのに。


キジマ。


その名を最後につぶやき。


そして俺は、恐れる心すら、かき消されて。


あとはただ、帰るしか……。


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