第三話 アホ王子に唾をかける
騎士団詰所で一通り尋問された後のこと。
帰りの馬車を待ちながらしばらくぼんやりとしていたグレースの元に、ハドムン王太子がやって来た。
彼には先ほど婚約破棄を告げられたばかり。
もうこれ以上話すことはないだろうに、一体何の用だというのか。
ジェイミーも憎い。でも王太子への怒りはそれ以上だった。
グレースにとって彼は裏切り者だ。
自分を美しいと言ってくれたのに。しかし彼は可愛いジェイミーを選んだ。
それがどうしても許せないのだ。
「――王太子殿下、いかがなさいましたか」
できるだけそっけない口調で声をかける。
名を呼ぶのも嫌になってしまったくらいには胸の内の昏い気持ちを隠せそうになかった。
「お前に話がある」
「王太子殿下の望まれた婚約破棄はなされたはずでは?」
「その件だが、お前は侯爵家を追放となるであろう。未来の王太子妃を虐げたとして、な」
「御言葉でございますが。ハドムン王太子殿下は勘違いをなさっていらっしゃる。万に一つ、私が彼女を虐げたのが仮に事実だとして、ジェイミーは当時王太子妃候補ですらありませんでした。彼女はただの侯爵令嬢です。そこだけはお間違えのないよう」
しかも父である侯爵の不貞の子なのですよ。
ハドムン王太子を見やると、彼は腹立たしげに顔を赤くした。
本来王族ともあろう者がここまでわかりやすく表情を変えてはならないのだが、王太子として完成されている人間ならばジェイミーに乗り換えるなんて非常識なことはしないだろう。
この国の先行きが不安でならない。
「お前は少しも反省していないのだな。もしもジェイミーにきちんと謝罪をし、己の罪を認めるならば追放処分を免除してやるつもりでいたが」
「お気遣いありがとうございます。しかし、私は罪を犯していませんので謝罪はいたしません」
「なっ! まだそれを言うか。せっかく慈悲をくれてやろうとしているのだぞ!」
「あなた様はそのおつもりなのでしょうね。ですからお気遣いありがとうございますと、そう言ったではありませんか」
グレースは小さく微笑んだ。
「――そうそう、私たちはもう赤の他人なのです。お前とお呼びになるのはよしてくださいまし」
「罪人にそんなことを言われる筋合いはない!」
とうとうハドムン王太子は激昂した。
そしてグレースを一方的に怒鳴りつけ始める。
「大体お前はいつもそうだ。美貌に鼻をかけ社交の場の中心になろうとする! 本来お前は俺より前に出るべきではないのだ! この恥知らずめが。しかも妹を虐げ、その末罪を認めないなどと!」
「誤解があるようですね。私は前に出ていたのではなく、あなたをずっとお支えしておりました。苦戦なされていた王子教育のお手伝いをして差し上げたのは王太子殿下のためでした。
ジェイミーは私の妹ではなく義妹です。それに、繰り返しになりますが私はジェイミーを虐げてなどおりません。己の体に傷をつけたのは全て彼女。その行動は、使用人に聞き込みを行えばすぐに明らかになることでしょう。きっとその証言が出れば、『お義姉様がそうしろと命じたのですわ!』とでも言うに違いありませんが」
「もうお前に慈悲はやらん!」王太子が叫んだ。「お前など呪われてしまえ!」
その時、グレースの中でプチ、と糸が切れるような音がした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
どうしてこの男はこんなにどうしようもないのだろうか。
こちらのことなど何も考えていないくせに。グレースを見捨てたくせに。愚かで救いようのないだけではなく、さらに甚振ろうというのか。
彼女はもうどうにでもなればいいと思った。
だから、唾を吐きかけたのだ。
淑女のマナーがどうした。王族への不敬がどうした。どうせ追放されるのならそんなのにもはや意味はない。
唾を飛ばされた王太子はギョッとしてこちらに目を向けた。何をされたかわかっていないのか、数秒固まる。
「私、あなたに救われたと思っていました。なのにあなたは!」
義妹にたぶらかされ、何もかもを奪い去ってしまった。
そんな男にもう用はない。そう思い、グレースはハドムン王太子を振り向きもせずに走り出した。
ちょうど王城前に乗り付けた馬車に飛び乗り、その場から立ち去る。
――さようなら、私の元婚約者様。唾を吐きかけられた意味をせいぜいお考えになるとよろしいですよ。
グレースはわずかに残っていた彼への情すら消え失せるのを感じていた。
いつの間にこんなことになってしまったのだろうか。何もかもが最初から間違っていたのかも知れなかった。
「はぁ……」
侯爵令嬢グレース・アグリシエ。
彼女は美貌と淑やかさで有名で、社交界の華だった。
しかしそんな名声も今日までだ。明日からは壮絶な未来が待っているに違いない。グレースは、王太子に唾を吐きかけたことを除いて何一つとして罪がないのに。
先ほどのことが知られれば容易く処刑されてしまうだろう。だからその前にさっさと侯爵家へ戻るのが一番だったのだ。
そうしてまもなく、馬車が屋敷に到着した。
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