3-1 すみれは激怒した
その日は社内で引き続き検討するとだけ告げて辞した。帰る際、チサトは『魔法少女』モードに戻っていて、「また来てね、おねえちゃん!」と手とピンクの髪をフリフリ、元気に送り出してくれた。
ロビーを出ると生ぬるい風が頬をなでた。辺りは夕暮れ時に近づいていた。
会社に戻ればもう一仕事できてしまう時間だけれど、どうも戻る気になれなかった。会社には打ち合わせが長引いているので、直帰する旨連絡をいれた。上司の浦野が嫌味の一つでも言うと思ったけれど、意外とあっさり直帰を認めた。
そういえばどうも朝から機嫌が良かった。疎まれている娘とSNSででもやり取りできたのかしら。それとも趣味の鉄道写真が入選でもしたのか。いずれにせよ都合が良かった。このまま退職まで機嫌の良さが続けばいいのに。五年くらい。
SNSでのやり取りだけで機嫌のよさが続くのなら、娘さんの代わりに私がやり取りしてもいいくらいだ。以前ちらと見せてもらったやり取りを見てその内容に愕然としたものだ。
娘さん、「へー」「うん」「やだ」「クソオヤジ」しか言ってなかった。あれなら適当に返信すれば問題ない。きっとあれ、すでに適当だ。
そんなわけで今日は社会人になって初めてかもしれない、ズル早退を決め込むことにした。といってもあと一時間もすれば定時だからささやかなものだ。にもかかわらず子供のころ感じた、いたずらするときの妙な高揚感というか、後ろめたい気持ちというか。そういったものに包まれながら、こっそりと帰路についた。
マンションの最寄り、森下駅を上がると見慣れた赤ちょうちんが迎えてくれる。ほっとするけれど、今日はさっさとおうちに引きこもりたい。交差点の角の弁当屋で惣菜を適当に見繕ってから、コンビニで発泡酒とチューハイを買ってかえる。
「ただいま、ふなちゃん」
金魚鉢を覗き込むと赤い出目金はくるりと一回素早く泳いだ。おかえり、って言ってくれてる気がした。手早くスーツなんかをハンガーに掛け、剥ぎ取るようにワイシャツを脱ぎ捨て、Tシャツと短パンという部屋着に素早くチェンジ。
『忍耐』と書かれているこのシャツは弟がくれたものだ。「社会は忍耐の連続だ。これを着て、立派な社畜になってくれ」と言って寄越してきたので、「ありがとう」とげんこつをお返しに貰ったものだ。結構気に入っている。
ワンルームの真ん中に置いてある机の前に座るのももどかしく、立ったまま発泡酒の缶を開けると一気にあおる。シュワシュワと喉を通る爽やかな感覚とホップのほのかな苦味が、砂漠のような私の心に潤いを与えてくれる。おっさんよろしく「かーっ!」っと声が漏れてしまうのはご愛嬌だ。
喉を鳴らしながら部屋の時計を見ればまだ午後五時を少し回った頃。もちろん営業時間中だ。おもわずにんまりしてしまう。よお、見ているか世のサラリーマン諸君。私はズル早退をして自宅でビール(発泡酒だけれど)を飲んでいるのだ。どうだ羨ましいだろう。
「はー、おいしー……」
一息ついて缶をまじまじと見つめ、我に返る。
……仕事サボって家で酒飲んで、何が嬉しいんだ私。
「とりあえず、化粧落とすか」
誰にいうわけでもないけれど、ごまかすようにつぶやいた。ビールの缶を置き、洗面所に向かう。シュコシュコとクレンジングのボトルにコットンを押し付けてから、額に当てる。
そう。AIだよ。愛じゃないよ、じんこうちのう、だよ。いや、愛の方もあんまり経験ないけど。そんなの私に出来るわけないじゃない。そもそもどういう仕組で動いているの、あれ。絶対中に人がいる……まで時代錯誤なことを言うつもりは無いけれど、遠隔でスタッフさんが操作してるんじゃないのか、くらいは疑いたくなる。
それくらい自然で、なんだか気味が悪かった。
ペシッとコットンをゴミ箱に投げ込み、一つ伸びをした。
「さてと、飲みますかね!」
気合を入れて部屋に戻った。