8-2
東京・大手町。某銀行インキュベーションセンター。何度となく通ったここにチサト・ラボラトリーズの事務所はある。
今夜も多機能AI『チサト』のセミナーに参加し、帰ろうとしていたときだ。
「野路さん、ちょっといいですか?」
声の主に振り返ると、須貝だった。
「よろしければ、これから食事でもいかがです?」
「えっ。二人……ですか?」
「おごりますよ?」
「いきましょう」
そして連れてこられたのは丸ビルのイタリアン。窓際のいい席に案内された。
眼下にはライトアップされた東京駅。すっかり陽も落ちたビジネス街だが、周りのビルにはまだ数多くの照明が灯され、いつもの景色とは全く違う雰囲気を醸している。
非日常な雰囲気と相反して普通のビジネススーツなのが少々はずかしく、もったいなく感じた。
ウエイターに勧められるまま席につくと向かいに須貝が腰掛ける。
彼らは二言三言小声で会話すると、うやうやしくお辞儀をしてウエイターは去っていく。
「どうしたんですか、キョロキョロして」
須貝はウエイターが去るのをまってから、爽やかに笑いかけてきた。
「こ、こんなところに連れてきていただけるなんて、思ってなかったもので、つい」
意味もなく髪をいじってしまう。落ち着かないときの私の癖。
「緊張してますか」
「そ、そりゃあ、まぁ」
普段は外食といったら地元のもつ焼き屋だもの、緊張するのは当たり前じゃない。
「そんなうるさいお店ではないので、リラックスしてください。もうすぐ食前酒も……ああ、ほら」
まもなく供されたのはフルートグラスに注がれた薄く黄金色に彩られた微発泡の液体。
「私、好きなんです」
「えっ」
心臓が飛び出るかと思った。
「フリザンテ。微発泡のイタリアワインです」
グラスを持ち上げ、シュワシュワ泡立つ様子を見つめながら須貝は言った。
ホッとした半分、残念な気持ち半分……だと!?
自らの気持ちに納得がいかない私を不思議そうに見て「お嫌いでしたか?」と彼が続ける。
「いえっ、大丈夫です! むしろばっちこいです」
などとわけのわからない返しをしつつ、フルートグラスを手に取る。
「それでは、出会いに感謝を」
軽く目線より掲げ、口をつける。まず飛び込んできたのは淡い色からは想像できないエレガントな香り。口に含むと爽やかな酸味と炭酸の刺激が舌を楽しませる。
「おいしい……」
「でしょう? このワイン、私も大好きなんです。なにより通販で買えて」
そして手を口に添え身を乗り出してきた。
「そのうえとても安い」
そしてウインクしてまた席についた。
「銘柄、後でメールしておきますね」
そう言って彼はグラスの中身を飲み干した。
気さくなウエイターの手伝いもあってか、会話も、食もどんどん進んだ。
とても楽しい食事だ。アミューズ、前菜、パスタと続き、様々なお酒も、少しづつ試させてくれた。普段ビールと酎ハイの私には全くの別世界だ。
この頃にはすっかり打ち解け、昔ながらの友人のような雰囲気になっていた。
「私、出身福岡なんですよ」
「ほんとうですか野路さん。偶然、実は私もですよ。点々として、中学卒業する頃には東京に来ちゃいましたけれど」
「ご歓談中失礼いたします。お待たせいたしました。ワインをお持ちいたしました」
メインの前のワインが出てきた。
大ぶりのブルゴーニュグラスに注がれる赤ワインをぼうっと眺めた。ワインの銘柄をなにか言ったのだけれど、長くややこしい名前だったのでわかんない。
「では、乾杯しましょうか。さ、野路さん」
「あ、でもワイングラスはぶつけちゃいけないって聞いたんですけれど」
「そういうマナーもありますね。でも決してダメじゃないんですよ。とてもいい音がしますしね」
「そうなんですか? ……じゃあ」
「あっ、ちょっとまって下さい。ここ。グラスの腹同士を当てます。縁を当てたら割れちゃいますからね……で、そのままだとプレートが当たっちゃいますから、少し横に傾けて、そうそう」
そして須貝は私をじっと見つめて
「では改めて。二人の出会いに……乾杯」
コオォォーン……
思っていたより低く、澄んだ音が響いた。
「こうやって横に傾けて当てないといけないって、なんだかキスみたいだなって。……そう、おもいませんか?」
「そ、そうかも知れませんね……そうかも」
先程のグラスの澄んだ音が、いつまでも、いつまでもワンワンと頭の中を駆け巡るような、そんな気がしてならなかった。
――夢のような時間。あれは夢だったのか。
いや、それなら今こそ夢であってほしい。
ここはどこなのか。
このフカフカの広いベッドは何なんだろうか。
なぜ私は下着姿なのか。




