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来場者登録のアンケートの内容も分からず、係員のお兄さんに尋ねる。新人さんなのか、親切に教えてくれたのがせめてもの救いだ。
首に来場者証を下げ、会場に入る。ドアをくぐると、二階から降りていく構造になっているようだ。その踊り場から会場の一部が見渡せる。通路を埋め尽くす人、人、人。
満員電車が嫌いで乗りたくなくて、会社近くの狭いくせに、やたら家賃の高いワンルームに無理して住んでいる私。今からあの人波に飛び込まねばならないのかと考えると、会場の熱気も相まって、なんだかめまいがしてきた。
「はぁ……かえりたい」
この時間ならマクロをちまちま作りながら、お茶菓子をつまんでいる頃だ。いつもの平和な日常。ここはそれとはまったく違った。
面倒なことを押し付けられたものだ。どうせすぐに飽きるくせに、新しいことにはすぐ首を突っ込みたがるうちの社長は、時々こんな無茶ぶりをしてくる。
でもどうして私が。あのお気に入りの腰巾着にでも任せればいいじゃない。
会社でだって、いまのままで何も困ってない。そりゃ、残業は多いと思うけれど。でも残業しないとお給料安いし。正直今より残業代減っちゃったら、当て込んで買った家電のローン払えないし。
上司にはきっとトロい女と思われている。言葉の端々でそう感じる。そんな万年係長は営業の連中には頭が上がらない。私達スタッフ部門は、彼らお金を稼ぐ人たちに食べさせてもらっているからと口癖のようにいう。
その認識は営業サイドも同じなようで、『出来の悪い家政婦を会社に住まわせてる気分だよ』。などと苛立ち紛れに口にしたのだろうその言葉を、今でもはっきり覚えている。
そんな召使いのような扱いを受けている中でも、社内ヒエラルキーでは私は少しばかり上位に位置する。エクセルでマクロという、簡単なプログラムのようなモノを作ることができるからだ。
上位カーストの連中からしてみれば、私はきっと『初級魔法が使えるちょっと便利な召使い』なのだ。だから無下には扱われない。そういった意味でも居心地は決して悪くない。
プライベートも楽しみがあるわけじゃない。恋人もいない。
家に帰って金魚のふなちゃんとお話しして、レンチンした見切り品の総菜を食べる。テレビのバラエティを見てたまに笑う。お風呂上がりにボディケアをしながら友人と少し話す。たまにかかってくる母さんからの電話を適当にあしらう。本当にたまに、ご褒美のナチュラルチーズでビールを飲む。もちろん発泡酒じゃない本物だ。コップ洗うの面倒だから、缶のままだけど。
そんな毎日でいいじゃない。こんな戦場。私には似合わない。
私は野路すみれ。26歳。どこにでもいそうな、平凡なOL。これが私。
「もう、適当に見てかえろ」
ふう、とため息を一つ。入り口近くの二、三ブースを見たら帰ろう。そう切り替えて肩のトートを掛け直し、エスカレーターを降りる。
『見てきましたけれどよくわかりませんでした』と言おう。すこし小言を言われるだろうけどそれだけだ。どうせそんなに期待もされていない。
最初に目についたのは朱も鮮やかな一つののぼり。
『簡単操作であなたの会社を劇的改革!』
簡単ならいいか。そんな軽い気持ちでブースに近づく。
「おはようございます。どういったことでお困りですか?」
掛けられた声に何の気なしに見上げた私を、不意に衝撃が走った。