テュポーン戦線
テュポーンが召喚した魔獣の数は数千にも上った。
毒で殺した人間たちを食べず、魔獣に変えてしまったことに対して、魔法局のコーネリアスは、かつてアトルヘイムの帝都に現れた魔獣ラードゥンが自らの毒で死んだことを例に挙げ、テュポーンもまた体内に毒を入れたくないのではないかと分析した。
遺体を依り代にして湧き出した魔獣たちは、ヨナルデ大平原を埋め尽くす勢いでその数を増やしていき、逃げる兵らを追いかけ、襲い掛かっていた。
テュポーンは魔獣たちが新たに殺した兵や馬を、その長い舌と腕で拾っては口に入れていた。巨体を維持するだけの魔力を得なければならないテュポーンにとって、魔獣たちに狩りをさせて、自分はその獲物を得るだけという方が楽だったのだろう。
アトルヘイム軍の兵士たちも、オーウェン軍同様、必死で逃げた。
自分たちが逃げることで、戦場を拡大させてしまっていることに、軍の殿を務めるノーマンは焦りを隠せなかった。
移動を始めたテュポーンから逃げようとしたノーマンたちは、魔獣に行く手を阻まれ、思うように前に進めなかった。
そうしているうちに、背後からテュポーンが迫ってきた。
巨大なテュポーンの腕が伸びて来て、ノーマンの隣を走っていた部下が馬ごと掴みあげられた。
「うわああ―!!た、助けてくださいっ、隊長――!」
部下の悲鳴が聞こえるが、巨大な腕を前に、ノーマンにはどうすることもできなかった。
その時、すさまじい地響きが起こった。
激しい揺れに、ノーマンも馬を制御するのがやっとなほどだ。
背後を見ると、他の部下たちも馬から投げ出されたり、暴れる馬を留めるのに苦労したりしていた。
テュポーンの手に捕まっていた部下も、馬ごと地面に投げ出されていた。
ノーマンは急いでその部下に駆け寄り、自分の馬に拾い上げて後退した。
「一体、何が起こった…?」
巻き起こる砂煙の中、ノーマンはテュポーンの巨体がまるでアリ地獄に吸い込まれるかのように、地面の中に沈んで行くのを見た。
砂煙に咳き込みながら、ノーマンは馬を掛けさせ、その場から遠ざかった。
地響きと砂煙の嵐で、あたりの視界がゼロとなる中、ノーマンの耳に誰かの声が聞こえて来た。
「すごいですね…!こんな大きな地の魔法、初めて見ました!」
「フフン、そうでしょ?ちょーっと魔力を使い過ぎたけど、ロアのくれたポーションのおかげで、大サービスしちゃったわ」
そんな会話がノーマンの耳に入って来た。女の声だ。
砂煙の中をその声の主を探すと、そこには1頭の馬に乗る人物がいた。
それは珍しい、女性の魔族だった。
ノーマンが声を掛けると、彼女は馬首を巡らせこちらへ近づいてきた。女性魔族の後ろには、もう一人同乗している者がいた。
ノーマンはその少女に見覚えがあった。
「おまえは…!」
それは、イヴリスとエリアナだった。
ノーマンがエリアナに声をかけようとした時、彼の後ろに乗っている部下が声を上げた。
「隊長、あれを!」
部下の指さす方向を見ると、周囲の魔獣をなぎ倒しながら駆けてくる1騎がいた。
槍を手にした、いかにも強そうな魔族が馬を操ってこちらへやってくる。
その魔族の後ろからひょいっと顔を出したのは、これまた彼の見知った顔だった。
「無事か?隊長さん」
それは以前、エリアナと共にアトルヘイム領内の砦で会った将という青年だった。
颯爽と馬を駆って現れたのは、ゼフォンと将だった。
「おまえたち…!なぜここに…」
「加勢しに来たに決まってるでしょ」
エリアナはあっけらかんとして云った。
砂煙が収まると、ようやく状況が見えて来た。
テュポーンは、エリアナの地属性魔法で足元に開けられた大きな落とし穴に落とされたのだった。
それは以前彼女がラエイラ付近でヒュドラの足を止めた時に使用した魔法の強化版だった。
その落とし穴は巨大なテュポーンの頭までがすっぽり隠れるほどの深さと大きさがあった。
エリアナはご丁寧に、その穴の上から土砂を落としてテュポーンごと穴を埋めてしまった。
遠巻きにそれを見ていた黒色重騎兵隊の騎士たちは、歓声を上げた。
「すまん、助かった」
ノーマンはエリアナたちに礼を云った。
だが、将たちは他の兵たちのように手放しで喜んではいなかった。
「時間の問題だぜ。あんな立派な腕があるんだ。そのうち這い出して来るだろう」
「今のうちに少しでも遠くに逃げろ。あいつはエサを求めて移動する。ぐずぐずしてると追いかけて来るぞ」
ゼフォンの言葉はノーマンを戦慄させた。
「わ、わかった」
「魔獣退治はあたしたちに任せて、はやく行って!でないと範囲魔法が撃ちにくいのよ」
「また助けられたな。すまんが頼む」
ノーマンと部下は将たちに礼を云うと、部隊の方へ合流すべく、馬を駆けさせて行った。
アトルヘイム軍は将たちの前から遠ざかっていく。
それを見送った将は、馬から降りた。
やがて、穴に落ちたテュポーンを守ろうとするかのように、近くにいた魔獣たちが集まってくるのが見えた。
「さて、いっちょやるか」
将は、腰に帯びた剣を抜いた。
「ぶっ飛ばすわよ~!」
同じくエリアナも馬から降りて、将の隣に並んだ。
「俺が盾になる。存分に戦え」
ゼフォンは、力強く云った。
イヴリスも、精霊召喚の詠唱を始めた。
彼らはロアから分けてもらったポーションを懐に持ち、それぞれ戦闘態勢を取った。
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前線で戦う騎士たちを尻目に、アトルヘイム軍の最後方にいた皇帝は、長引く戦況を見据えて、ヨナルデ組合に加盟している近くの小さな村の家を借り上げ、その周辺に天幕を張って陣を構えていた。
この村からはテュポーンの姿ははるか遠くに小さく見えていたが、今は見えなくなっていた。
皇帝を守る黒色重騎兵隊第4部隊は安堵し、この村での小休止の準備に追われていた。
だが、この村にもテュポーンが召喚した魔獣たちがやってきた。
村の中で戦うわけにはいかず、第4部隊は魔獣を迎え撃つために村を出て行った。
ところが第4部隊が村を出た隙を狙って、魔獣たちは村を包囲してしまい、皇帝一行は村人らと共に孤立してしまった。
皇帝の側近には第1部隊の中から選抜された近衛隊一個小隊がいた。
魔法局のコーネリアスとS級魔法士も合流していた。
彼らは村を囲む塀の傍に立って、入ってこようとする魔獣たちを防いでいた。
さすがに選抜された猛者ぞろいの近衛隊士たちは、魔獣などに後れを取ることはなかった。
しかし、村を包囲する魔獣の数は増すばかりだった。
村の外で戦っていた第4部隊もまたその数に徐々に圧倒され、村へ戻ろうとしたが、魔獣に囲まれてそれもできなくなっていた。
更に後方からはオルトロスやキマイラといった上位魔獣も迫ってきていた。
焦りを見せる騎士たちの耳に、どこからか声が聞こえた。
「<切断刃>!」
第4部隊の騎士たちはきょろきょろと辺りを見回し、声の主を探した。
すると、騎士らを取り囲んでいた複数の魔獣が、一瞬のうちに細切れにされて消失してしまった。
代わりにそこに現れたのは、オレンジ色の大きな肉食獣だった。
彼らがそれを魔獣の仲間だと思わなかったのは、その背に人を乗せていたからだった。
それはエメラルドグリーンの髪をした美しい魔族だった。
「魔族…!?か、可愛い…」
騎士の1人が思わず声に出して、他の騎士から顰蹙を買っていた。
だが、確かに獣にまたがって地を駆ける少年は可憐な美形だった。その美貌とは裏腹に、彼の放つ風の魔法はえげつなく、魔獣たちを縦横無尽に切り刻んでいった。
騎士たちを取り囲んでいた魔獣は次々と倒されていった。
更には背後に迫っていたはずの上位魔獣が、轟音を立てて倒される様を、騎士たちは振り向きざまに見た。
「何だ、何が起こってる…?」
狼狽える騎士たちの前に、黒い翼と死神のような大鎌を持った小柄な魔族が空から舞い降りた。
「魔王様の命令で、テュポーンを退治しに来たんだ。助けがいるかい?」
助けがいるかと、助けた後で訊ねてくる少年魔族は、屈託のない笑顔を見せた。
その笑顔に騎士たちは安堵した。
第4部隊の部隊長らしき人物は、帝国内の反乱を魔王が治めたことをノーマンから聞いていたので、この魔族の申し出を素直に受けることにした。
オレンジ色の肉食獣から人の姿に変身したカナンを見て、騎士たちは驚いて腰を抜かした。
更に彼の背後に、数人の魔族たちがどこからともなく現れた。
それは、聖魔騎士団のメンバーだった。
一方、逃げ出したオーウェン軍の兵士たちは、散り散りになって脇目もふらずテュポーンが見えなくなるまで走り続け、その兵の一部はやがてグリンブルの門にたどりついた。
彼らはテュポーンが迫っていることを伝え、緊急事態だと必死で訴えた。
オーウェン軍がゴラクドール攻略のための軍を動かしていたことはグリンブル王国も把握していたが、グリンブル王国はあくまで中立を守ると宣言している。
その当事者であるオーウェン軍の兵士らを助けることはできないと、門兵らは門前払いをしたのだった。
その兵士たちの様子を門の近くで見ていたアザドーの手の者は、オーウェン軍の兵に接触して事情を聞き、すぐにメトラに伝えた。
メトラが出した偵察部隊が戻ると、巨大な魔獣が多くの魔獣を従えて、ヨナルデ大平原を南へ移動していると報告した。その魔獣の名がテュポーンだと聞き、メトラは顔色を変えた。
現在、テュポーンと孤軍奮闘しているのはアトルヘイム軍だという。
メトラはアリーを伴ってグリンブル王宮へ向かった。
彼は、事情を説明し、ヨナルデ大平原で戦闘しているアトルヘイム軍に増援を送るべきだと進言した。
だがグリンブル王国は正式な軍隊を持っていないことを理由に、それを拒否した。彼らは緊急時にはいつも、金を出してペルケレ共和国から傭兵を雇っていたので、今回も同様に傭兵部隊の派遣要請を出すことで妥協案を示した。
今、アトルヘイム軍が魔獣と戦っているのに、手を貸そうとしないこの国に、アリーは苛立ちを覚えた。
アザドー本部へと戻ってきたメトラとアリーの元へ、ユリウスが現れた。
「トワは元気にしている?」
ユリウスは久しぶりのアリーとの再会に、微笑で応えた。
アリーとは、トワがグリンブルから行方不明になって以来、一度も会っていなかった。
彼女はずっとトワの捜索にも加わっていたのだが、ユリウスからアザドー経由で捜索を打ち切るよう要請があった後も、トワの身をずっと心配していたのだ。
アリーがトワの行方を知ったのは、魔王が『聖魔』の存在を明らかにし、それがトワのことであるとメトラから聞かされた時だった。
「ええ。相変わらずあちこち飛び回っておられましたが、今は魔王様のお傍にいらっしゃいます」
「…そう、機会があれば会いに行きたいと伝えて」
「承知しました」
トワの近況を聞いて、アリーは懐かしそうな表情をした。
アリーとの挨拶が終わるのを待って、メトラはユリウスに話しかけた。
「で、ここへ来た理由は何だ?魔王様のお使いか?」
ユリウスは頷き、人手と技術者を貸して欲しいと嘆願してきた。
ユリウスが提案してきたのは、対テュポーンの策についてだった。
メトラはこれに興味を持ち、ユリウスの説明を興味深く聞いた。
彼はすぐにアザドーの人員を総動員して手配するとユリウスに伝えた。
ユリウスが去ると、メトラはすぐに部下を呼んで指示を出した。
すぐに出かけるというメトラの支度を手伝いながら、アリーは呟いた。
「どうして皆、他人事みたいに考えてるのかしら。自分たちだけ助かればいいなんて、そんな場合じゃないのに。こんな時こそ、人間は1つにならなきゃいけないのに」
アリーが云うのは、テュポーンが現れている場所のことだ。
ヨナルデ大平原が魔獣の毒で汚染されれば、人間の大半の食糧を賄う村々にも被害が及び、近い将来、人間は飢えて死ぬことになるのだ。
聡いアリーはとっくにその重大性に気付いている。
アリーは自分の無力さに、爪を噛んだ。
メトラは彼女の指を掴んでそれを止めさせた。
「せっかくの奇麗な爪がボロボロになってしまうよ」
「あ…ごめんなさい。ついイライラしちゃって。子供っぽい癖ね…」
「…大丈夫だ。私が動く。ダテに100年こちらの世界で暗躍してきたわけではない」
そう云って彼は微笑んだ。




