毒の雨
マルティスたちは、ヨナルデ大平原を見下ろす丘の上から、テュポーンとアトルヘイム軍の様子を伺っていた。
このことをゴラクドールへ知らせるべく、一度戻ろうとゼフォンが云うと、マルティスは転移能力を持つイシュタムを伝令としてゴラクドールへ行かせた方が早い、と提案した。ゼフォンは、誰かイシュタムに同行して欲しいと云ったが、将もエリアナも、それを拒否した。
将たちはイシュタムの転移能力に疑いを持っていたのだ。結局イシュタムの中のもう1人の人格であるイシュタルが説明役を務めると申し出たので、彼を単独で送り出したのだった。
将とエリアナは、イシュタムを不安そうに見送った。
「あいつ、大丈夫かな」
「まるで子供のお使いね」
「心配なら一緒に行けばよかったのに」
優星の言葉に、2人は慌てて否定した。
「ジョーダンじゃない!またどっか変なとこに転移したらやってらんねーよ!」
「あのバケモノの真ん前とかに放り出されたら、シャレになんないわよ」
「信用していないんだね…」
「当然よ!あいつが神様だって、あたしは信じちゃいないんだから」
「おまけに二重人格だしな」
「でも、…わた…僕のこともすごく心配してくれていたし、いい人みたいだよ」
「いい人、ねえ…」
将もエリアナも、優星と違ってイシュタムに対してはあまり良い感情を持っていないようだった。
エリアナは優星の端正な横顔をじっと見た。
「ねえ、優星。あんた、本当に記憶がないの?」
「…うん」
「何か、覚えていることはないの?」
「ううん。何も。君たちは僕を知っているんだよね?」
「いいえ。あたしが知ってるのは、あんたの外見だけよ」
「…え?それ、どういう意味?」
「混乱するから、今は止めとけよ」
将が2人の間に入って、会話を遮った。
「ちっと話がある。来いよ」
「何よ…」
そう云ってエリアナは、将と連れだって行ってしまった。
残された優星は、独り言を云った。
「僕は、何者なんだろう…」
一方、将とエリアナは歩きながら小声で話をしていた。
「迂闊なことを言うなよ。もしあいつが昔のことを思い出して俺たちを裏切ったりしたら厄介なことになるだろ?」
「ごめん…。やっぱあの姿見てるとさ…複雑なのよね」
「気持ちはわかる。でもあいつは優星じゃない」
「…わかってるわよ」
「あいつに関わるな。辛い思いをするだけだぞ」
「うん。…ねえ、トワの言った通りになったわね」
「ん?」
「ゴラクドールでさ、トワがあいつに言ったじゃない。普通の人間として真っ当に生きろって」
「ああ…運命操作、だっけか」
「…トワは否定してたけど、きっと嘘よ。やっぱりマジなんだわ」
「そうだな…ちと信じらんねえ話だけど。それがどうしたんだ?」
「…だって、人の運命を変えられちゃうのよ?将は怖くないの?」
エリアナは両手を胸の前で握りしめた。
「あたし、あの子をちょっと怖いって思ってるの。今までトワにひどいこと言ったりしたし、あたしのこと恨んでたらどうしようって…」
「おまえ、あいつの何を見てたんだよ?」
「…え?」
「トワがおまえを恨んで何かするとか、そんなことするようなやつじゃないって、わかってるだろ?」
「…うん」
「そんな力を持たされて、一番戸惑ってるのはきっとあいつなんじゃねえの?…そういうの、おまえだって覚えがあるだろ?」
「あ…」
エリアナは、勇者候補として大司教公国にいた頃のことを思い出した。
将の云う通り、勇者候補として絶大な魔力を披露して有頂天になっていた彼女は、周囲の人間たちからチヤホヤされてきたが、他の魔法士からは恐れられて、話かけてもくれなかった。そのくせ、公国の偉い大人たちは彼女の力にすり寄り、媚びへつらってきた。彼女はそんな大人たちを心から軽蔑していたのだ。彼女は孤独を感じていたけれど、将たち仲間がいたから救われてきた。
「…あたしも、あいつらと同じなんだわ…」
「おまえがトワを恐れてどうすんだよ。あいつに今まで通りに接してやれるのは俺たちだけなんだぞ」
「そうね…あたし、トワを信じてあげなくちゃいけないのよね」
「おまえらしくねぇ態度、取るなよな。ゲンメツすんぞ?」
「はぁ?誰が誰に幻滅すんのよ?舐めてんの?」
「ハハッ、その調子」
将はエリアナの肩をポンポン、と2度叩いた。
エリアナは頬を膨らませていたが、その口元は微笑んでいた。
「ありがとね、将」
精霊を飛ばしてテュポーンの様子を伺っていたイヴリスに、ゼフォンが声を掛けた。
「移動を始めたようだな」
「はい、黒い霧に覆われていて、足元はよく見えませんが、オーウェン軍の天幕をなぎ倒しながら、ゆっくりと移動しています」
「オーウェン軍の半数くらいは犠牲になったとみるべきか」
「なるほど、奴がゆっくりなのは、お食事中だからか」
ゼフォンの指摘にマルティスが答えた。
「立ち食いなんてお行儀がいいとは言えないわねえ」
カラヴィアがツッコミを入れた。
「あの大きさです。移動するにしても相当の魔力を蓄える必要があるんじゃないでしょうか」
「あいつの魔力の源は人間ってことか」
ロアの推測に、マルティスが付け加えた。
「大昔に召喚された時は神様が魔力を提供してたっていうからな」
マルティスがそんな話をしていると、イヴリスが叫んだ。
「アトルヘイム軍が全軍でテュポーンの方へ向かって行きます」
「無茶するよなあ…。さすが黒色重騎兵隊ってか」
「でも、これであのバケモノの動向がわかるかもしれません」
ロアは冷静に云った。
「ねえ、あのバケモノに関する情報って誰も持ってないの?」
エリアナの質問には、ロアが答えた。
「魔族の創造神イシュタムはテュポーンに食べられた後、その毒で死んだといいますが…」
「じゃあ、あいつの必殺技はあの黒い霧以外に毒攻撃もあるってこと?」
「そんな大昔のことを見た人、いるの?そんな昔話、アテになるのかしらん?」
カラヴィアが尤もなことを云った。
そうしているうちに、アトルヘイム軍がテュポーンに向けて、弓と魔法の遠距離攻撃を開始した。
ゼフォンや将たちもその様子を固唾をのんで見守った。
彼らはテュポーンにどんな攻撃が通じるのかを見届けたかった。だが、テュポーンには弓や魔法などの遠距離攻撃をはじめとするすべての攻撃が見えない壁に弾かれ、全く通じなかった。
黒色重騎兵隊の一部が、剣や槍を構えて突進していったが、テュポーンの体に届く前に、見えない壁に押し戻されるかのように弾かれ、まったく歯が立たなかった。騎士の投げた槍はテュポーンの体に届く前に折れた。
「完全防御スキルを持っているのか…!」
陣頭指揮を執っていたノーマンは驚きを持って叫んだ。
攻撃が通じないことがわかると、アトルヘイム軍は態勢を整えるために一旦後退した。
人間たちの攻撃が一段落すると、テュポーンは音を立てて大きく息を吸い込んだ。
その音は、何か不吉なことの前兆であるかのように人々の耳に聞こえた。
テュポーンの息を吸い込む音が止まった次の瞬間、その顔の真ん中に空いた黒い穴から、赤い液体が噴射された。真っ赤な液体は、辺り一帯に雨のように降り注いだ。
その液体を浴びた者たちは悲鳴を上げてバタバタと倒れていった。
赤い液体がかかった皮膚は爛れ、みるみるうちにドス黒く変わっていき、それを浴びた人も馬もひどく苦しみ、時間の経過と共に、戦場は息絶える兵と軍馬で溢れかえった。
「毒だ!」
いち早くこの雨の正体に気付いた魔法士が叫んだ。
魔法士たちは頭からローブを被って雨を凌いだおかげでなんとか助かっていた。
重装備の黒色重騎兵隊の殆どの兵も兜を被っていたため、軽傷ですんだが、軽装備の一般兵と馬が犠牲になった。
「退避、退避―!息のある者を担いで回復士のところまで戻れ!」
ノーマンの声が響く。
その様子を遠くから見ていたゼフォンたちもテュポーンの恐ろしさに絶句していた。
「あれが神殺しの毒なのか…?」
「かなり強力な毒のようだな」
「あの巨体から広範囲に放たれるんだ。避けようがないな…どうしたもんか」
「でもさ、鎧の兵士たちは無事みたいだし、傘とかさせばいいんじゃない?」
ゼフォンと将が深刻に話している時、エリアナが暢気に云った。
「傘さしながらどうやって戦えってんだよ」
「飛沫がかかるだけでも命に関わるんだ。現実的ではない」
エリアナの意見に、2人がダメ出しをすると、優星が冷静に云った。
「傘でなくても体を覆うものがあればいいんじゃないかな。接近するにはいい案かもしれないよ」
それを聞いていたマルティスが呆れ顔で彼らの傍にやってきた。
「おいおい、正気か?おまえらマジであれと戦おうっての?」
彼は、赤い雨を吐き出し終わってゆっくりと移動を始めたテュポーンを指さした。
ゼフォンはムッとしながらマルティスに向かって語気を荒げた。
「当然だ。ここで止められなければ、あれは都市目指して全世界を移動するぞ。そうなれば被害はこんなものではすまない」
「ここから一番近い大都市といえばグリンブルかセウレキアです。そうしたら人間だけじゃなく魔族も犠牲になるんですよ?指をくわえて見ていろっていうんですか?」
イヴリスにも責められて、マルティスはタジタジとなった。
そんな彼の腕を取ってロアが云った。
「マルティスは勝ち目のない戦いはしない、と言っているだけですよ。ね?」
「え?あ、ああ、その通りだ…。何も自ら犠牲になるこたぁない」
「でも、あんなのが野放しになってたら、世界のどこにいても安全ではなくなることくらい、わかってるのよね?」
「あ…うん」
「あなたは策士なんだから、策を考えてくれるんでしょう?私も協力しますから」
「そ、そうだな…」
ロアのペースに乗せられっぱなしのマルティスを、ゼフォンとイヴリスは唖然として見ていた。
こんなマルティスを見たことがなかったからだ。
「あっはっは!あんたたち、いいコンビじゃない」
カラヴィアは沈んだ雰囲気を払拭するように、声を上げて笑った。




