黒い霧
カナンはロキたちに案内され、地下古墳にたどり着いたが、そこにイドラの姿はなかった。
イドラを探して、地上の旧市街へと出た。
大戦前のオーウェン王国時代の面影を残す広大な旧市街地は、100年以上も前の建物が多く、ほとんどが石造りの家だった。そのため朽ちかけている建物も多かったが、大聖堂の地下から逃げて来た魔族たちはそういった建物を補修して住んでいた。
カナンたちが地下から出ると、すぐ近くには古い墓地があった。
そこには真新しい墓が1つあり、墓の脇には、蓋が斜めに立て掛けられた空の棺が1つ放置されていた。
「なんだこれ。埋葬の途中か?」
「ちゃんと片付けとけよなあ」
放置された棺を見たロキとバルデルはそう文句を云った。
「盗掘にでもあったのかもしれん。ずいぶんと程度の良い棺だし、細工もかなり豪華だ」
カナンの云った通り、その空っぽの棺の内側には上等の布が張られていて、棺の淵と蓋には豪華な彫刻が施してあり、相当身分の高い者の埋葬品であったことが推察された。
「重たいから持って行くの諦めたのかな」
「それはともかく、イドラはどこへ行ったんだ?」
カナンたちが辺りを捜索していると、彼らが出て来た地下道から、なにやら黒い霧のようなものがもくもくと地上に立ち上ってくるのが見えた。
「ん?なんだあれは…」
カナンは思わず声を上げだが、同時にうなじの毛が逆立つのを感じた。
「おまえたち、後ろへ下がれ」
「え?」
「何?」
「あれは、悪い気だ。あれに触れるな」
彼はロキとバルデルを後ろに庇いながら云った。
獣人族のカナンには、危機を感じ取る本能がある。その本能が、あの黒い霧に近づくなと告げていた。
彼はカラヴィアに無理矢理着せられていたローブを脱ぐとロキとバルデルを背中に庇い、2本の剣を構えた。
黒い霧が通り過ぎた後は、墓地の木々やツタの葉が枯れ、腐食していた。
カナンはウルクとユリウスが転移してくる前に部屋を出ていたので、この霧がウルクの手首を奪ったことを知らなかった。
だが彼は元々スキルに頼る戦いをしないので、自身の防御スキルを過信したりはしなかった。ウルクのように迂闊に近づいたりはせず、自らの感覚と目で敵の正体を確かめようとしていた。
黒い霧はまるで生き物のようにカナンたちめがけて襲い掛かってきた。
カナンは襲い掛かる黒い霧を、素早く2本の剣で薙いだ。
その剣技には迷いがなく、恐るべき速さで繰り出され、切っ先が全く見えなかった。
黒い霧に向かって剣を扇風機のように回転させていると、辺りに酸のような液体が飛び散って木や葉を溶かした。
「おまえたち、この霧には絶対に触れるな」
「う、うん、わかった!」
だが黒い霧はカナンの剣技の届かない方向から背後の2人に迫って来た。
「おまえたち、下がれ!」
ロキとバルデルはカナンの云う通りに下がると、2人の後ろにはちょうど先程の空の棺があった。
彼らは反射的にその棺の中に身を隠した。
すると、黒い霧はなぜか棺を避ける様に通り過ぎた。
まるで見えないバリアに囲まれているかのように、霧は棺の周りには寄り付かなかった。
「む…?」
不思議に思ったカナンは、2人のいる棺の傍に近づいた。するとやはり黒い霧は距離を置いて近寄ろうとしなかった。
「どういうことだ…?なぜ寄り付かない?この棺に何かあるのか…?」
カナンは、棺の蓋を盾代わりに構え、そこから少し前に出て、霧を削り取るように剣を振るっていると、霧は盾に近づけないままに剣で刻まれ、徐々に薄くなって行った。
「ふむ、剣も蓋も溶けていない。ということは、この霧が溶かせるのは有機物だけか…!なるほど、戦い方がわかってきたぞ」
カナンがそう呟き、剣を構えたまま前に出ると、2本の剣をプロペラのように回転させて黒い霧を切り刻んだ。すると黒い霧はすうっと引き、逃げるように遠ざかって行った。
「おまえたちはそこに隠れていろ。私はあの霧を追う」
カナンは2人にそう云って、棺の蓋を置き、脱ぎ捨てたローブを引っ掛けて、黒い霧を追いかけて行った。
後に残されたロキとバルデルは棺の中でブルブルと震えていた。
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オーウェン新王国は焼け落ちた礼拝堂のある大聖堂本棟を急遽修復し、一部を除いて王政府の本部として使用することにした。
本棟の上層階に急造の謁見の間と玉座を用意し、なんとか王家の威厳を保てる程度には体裁は整えられた。
今後、旧市街の古い建物を取り壊して、大規模な宮殿を作る計画が進行中である。
オーウェン新王国の誇る青・白・紅の騎士団のそれぞれの団長がその謁見の間に揃っていた。
玉座には女王カーラベルデ、その隣には宰相ジーク・シュトラッサーが立っていた。
宰相は、最初にアトルヘイム帝国から帰還したばかりの白の騎士団を労った。
白の騎士団が帝国のグレイ将軍に手を貸し、クーデターを成功させた。そしてオーウェン新王国はその見返りに帝国領からの独立と国境砦の支配権を獲得したのだ。
「あとは勝手にやらせておけば良い。このままクーデターが成功するもしないも、すでに砦を押さえ、領地を実行支配している我らにとってはどちらでも良いのだ」
宰相はそう云いながらせせら笑った。
青の騎士団は、元大司教公国領地を回り、各領主を囲い込んで新王国の旗を立てさせた。
紅の騎士団は首都の統治に尽力した。
それぞれに宰相からは労いと褒賞が送られた。金は大司教公国の国庫をまるごといただいたので、当分困ることはなかった。
「ゴラクドールから戻ったルキウスによれば、魔王は魔族を集めて魔王軍を編成しているという。いつ攻めてくるやもしれん。油断はできんぞ」
その報告に対し、白の騎士団長は宰相に尋ねた。
「魔王が公表した『聖魔』というものについての情報は?本当に実在するのですか?」
「する。これに関してはルキウスが確認している」
「その者については私も会ったことがある」
口を挟んだのは女王だった。
「あれは普通の人間の娘のように見えたが、魔王自らが奪還しに現れたところを見ると、かなり重要な存在であることが見て取れた。…あれに手を出すことは難しいだろう」
女王の言葉に宰相は苦笑する。
「私もこの話はてっきり国内の魔族を集めるためのプロパガンタだろうと思っていたよ。まさか本当だったとは恐れ入った」
「レオナルド様はその娘を手に入れて魔王を操ろうと計画したのだが失敗し、命を落とす結果となったのだ」
女王の言葉に騎士らは落胆の声を上げた。
「そなたらも知っての通り、地下王国城を破壊したのはその『聖魔』を救いにきた魔王のドラゴンだ。あの娘を拉致した我らは魔王の敵と見なされたことは間違いない」
「魔王…!」
騎士団長らは動揺を見せた。
宰相は溜息にも似た息をひとつ吐いて続けた。
「先日ゴラクドールを攻めたペルケレ軍10万が、魔族によって撃退された。しかも魔族たちはペルケレ軍の半数に満たない人数だったが、犠牲者は1人もでなかったという。たかが回復士の1人と『聖魔』を舐めておったようだが、その働きはSS級回復士10万に勝るという話だった」
「たった1人でどうやって全軍を回復するんです?まさか広範囲回復魔法を使うとでも?」
白の騎士団長は半分冗談のつもりで云った。広範囲回復魔法はかつて勇者が使ったと言われる伝説級の魔法だが、勇者ですらも連発はできなかったという。そんな伝説級魔法をましてや魔族に対して使える者などいるはずがない。
だが宰相はそれを真顔で肯定した。
「その通りだ。しかも遠距離から連続で行使したというから始末に負えぬ。戦場の誰も『聖魔』の姿を見ておらぬので、殺すこともできぬ」
「…なんと」
騎士団長たちは言葉を失った。
「そんな化物と、どうやって戦えというんです」
「100年前の勇者がいたとしても勝ち目はなさそうですね」
「魔族を回復する存在がいるなんて、非常識だ。なんと恐ろしい…」
彼らは畏怖を口にした。
「…その通りだ。『聖魔』のいる魔王軍と戦うことは得策ではない」
宰相の言葉に女王は頷いた。
「だが備えは必要だ。我が国は軍事を増強する富国強兵策を取る。領地内から徴兵し、我が国単独で100万の軍を作る計画だ」
「おお…」
その時、伝令の兵が慌てた様子で入ってきた。
「たっ、大変です!旧市街から黒い霧のようなものが発生し、街を覆っています!」
「霧だと?」
「霧ごときで何を騒ぐ?」
「その黒い霧は、に、人間を食べてしまうのだそうです!」
「何をバカなことを」
騎士団長らは伝令のいう意味が理解できず、確認のために大聖堂を出て行った。
宰相であるシュトラッサーも護衛の兵士らに囲まれて外に出た。
「何だ、あれは…」
「霧というより何かの塊のようだな」
旧市街の方から流れてくる黒い物体は宙を漂い、雲のように街を覆っていく。
その霧に呑み込まれた者は悲鳴を上げ、シャリシャリと音がしたかと思うと、跡形もなく消失してしまった。後には衣服のみが残された。
その現場を見ていた騎士たちは驚愕した。
「人食い霧か!?」
「どうやらあれに触れると食われるようだぞ」
現場に駆け付けた騎士団が霧に攻撃し、魔法士が魔法を撃った。だがすべての攻撃はその黒い霧をすり抜けてしまい、効果がないことがわかった。
騎士団は霧を避けて撤退し、市民には家に入って戸締りをし、決して外に出ないようにと命令を出した。
あれが何なのかわからないが、建物の中までは入って来られないということがわかった。
霧のように見えるがその粒子は霧ほど小さくはないようで、物理的に通れる場所からでないと、出入りできなかった。人々は家の中に入って扉を閉めた。
黒い霧はやがてシリウスラントの街中を覆い尽くしてしまった。
シュトラッサーたちも大聖堂の中に避難し、硬く扉を閉ざした。
何がどうなっているのかわからないまま、大聖堂の中にいた女王や宰相、騎士団長たちは不思議な声を聞いた。
『私はテュポーン』
どこからか聞こえた声は、そう名乗った。
『人間共よ、私に生贄を捧げよ』
テュポーンとは伝説上の魔獣だ。そんなものが本当にいるとはすぐには信じられなかった。
宰相は誰かが騙っているのだと思った。
大聖堂の尖塔の高台から黒い霧に覆われていく街の様子を見ていたナルシウス・カッツは、この声を聞きつけて大聖堂の玉座の間にやってきた。
彼は女王に、この声の主と話をさせて欲しいと申し出た。
女王の許可を得てナルシウスはどこからか聞こえるテュポーンの声に大声を上げて返事をした。
「テュポーンとやら、聞こえるか!?」
『ふむ、人間の代表か』
「この黒い霧は何だ?貴様の目的は何だ?」
『これは私の身体の一部だ。私の目的は生きた贄を求めること』
「ではまずこの黒い霧を止めて欲しい。話はそれから聞こう」
『良かろう』
ナルシウスが云うと、大聖堂の中は沈黙に包まれた。
女王とそれを守る騎士らも固唾をのんで様子を伺っている。
「得体が知れないな。信用できるのか?」
騎士団長はナルシウスに云った。
ナルシウスは、とにかく行動しなければ埒が明かないと云い、大聖堂の扉を開けようとした。
中にいた騎士たちは慌てて女王を奥の部屋へと避難させた。
ナルシウスは、責任は自分がとると云い、そーっと扉を開け、外を見た。
辺りを覆っていたはずの黒い霧はすっかり晴れてなくなっていた。
「おお!霧が晴れた…!」
ナルシウスが外に出ると、続いて騎士団長らとシュトラッサーが大聖堂の外に出て来た。
すると、彼らの前に1人の魔族が現れた。
『約束は果たしたぞ』
「魔族…!?一体どこから現れた?」
青の騎士団長は槍を構えた。
その魔族の左胸辺りから、黒い霧がチリチリと発生していることにナルシウスは気付いた。
「どうやら先程の霧の本体はこの魔族のようですな」
ナルシウスはそう指摘した。
『ググッ、その通りだ人間よ』
それはイドラの身体を借りたテュポーンだった。
「お、おまえの目的は何だ?」
白の騎士団長が恐る恐る尋ねた。
『日に1人、生贄を寄越せ。さすればこの街を襲うのは止めてやる』
「…なぜそんな条件を?」
『ググッ…。単なる気まぐれだ』
「気まぐれ…?」
なぜそんな条件を提示するのかとナルシウスは訝し気に目の前の魔族を見た。人間を食べることが目的なら、先ほどのように無差別に襲えばいい。
なにか、理由があるのだ。それは一体なんだろう?とナルシウスが考えている間に、宰相がテュポーンに向かって声を掛けた。
「テュポーンとやら、私はこの国の宰相だ。私と取引をしないかね?」
宰相シュトラッサーは、懐から宝玉を取り出してそっと手の中に握った。
彼にはこれまでの経験から、どんな相手でも交渉できるという自信があった。魔族といえど、会話が成立するのなら、交渉の余地があると思ったのだ。
『よかろう』
イドラの姿でテュポーンは応えた。
シュトラッサーはニヤリと笑った。




