イドラとイシュタム
トワの後を追って、魔王とユリウスがポータル・マシンでゴラクドールを後にした頃、イドラとイシュタムは、レナルドが魔獣を召喚していた地下の巨大な魔法陣のある場所に来ていた。
大司教から魔獣召喚の準備を言い渡されていたイドラは、大司教が亡くなる以前にこの場所へ魔獣召喚のための依り代を置いて召喚術をかけておいた。なので、誰がキマイラを召喚したのかはイドラの知るところではなかった。
途中に人間の遺体がいくつか転がっていたのを不審に思ったイドラは、この場所で戦闘が行われたことを悟った。
「私の知らぬところで計画が動いてる。誰かが、魔獣召喚を止めようとしていたのか…?」
「大きな魔法陣だな。かなりの魔力を感じる」
イシュタムは床に描かれた大きな魔法陣を見つめて云った。
「これは魔獣を召喚するための魔法陣だ。ラエイラ、シリウスラント、トルマにもこれと同じ魔法陣が地下に描かれ、魔獣召喚が行われている。その4つの魔法陣は魔力の道で繋がっている。それぞれの魔法陣には魔獣が食らった人間の生き血と流された血が魔力に変換され蓄えられているんだ」
「随分と手間がかかっているものだな」
「この地下の仕掛けは、街を作った時にエウリノームが奴隷として売られてきた魔族たちを使って密かに作らせたものだ」
「そのエウリノームとやらは、随分と入念に準備をしたのだな」
「人魔大戦で多くの魔族と人間が死んだ。まずは人間を集めるところから始める必要があったのだ」
「魔獣に食わせるためにか」
「そうだ」
「おまえはなぜそうまでして魔獣を召喚するのだ」
「…魔獣を呼ぶことだけが、私の存在意義だからだ」
「存在意義だと?」
「…その計画をタロスに聞かされた当時の私はまだ、ヒュドラのような大きな魔獣を召喚できなかった。魔王に焼かれた醜い顔と出来損ないの身体、中途半端なスキル。私の人生は否定されてばかりだった。だが、魔獣召喚を繰り返すうちに、魔獣の言葉が聞こえるようになった」
「心を食われたか」
「…それからだ。大きな魔獣を召喚できるようになったのは。誰もが驚き、恐れた。それは快感だった」
イドラはいつの間にか微笑んでいた。
「魔獣の声がより鮮明になったのは、トワに顔の傷を治してもらってからだ。それはとても心地よかった。あれほどの魔獣を召喚できるのは、おまえしかいない。おまえにしか呼べないものを呼んで、皆を見返してやれと、あれは私に語り掛けてくるのだ」
イドラは、何かに導かれるように魔法陣の中にふらりと歩いて行った。そうして魔法陣の中央までいくと、手のひらを魔法陣に当てた。
イシュタムは、イドラの目が赤く光るのを見た。
『まだ足りぬ…。もう少し、もう少しだ。もうすこしで準備が整う…』
突然、イドラの口から、まるで別人が話すような声が発せられた。
それを見咎めたイシュタムが声を掛けた。
「他の魔法陣から魔力を吸いあげているのか」
イシュタムがイドラの行動の意味を見抜くと、イドラは赤く光る眼で彼を睨んだ。
『そうだ。もうすぐだ。この者の使命は私を召喚して終わる』
「貴様がイドラの心を食らったのか」
『この者が魔獣を呼び人間の血を捧げ、私に力を与えたのだ。だから私はこの者に力を与える代わりにその心を食らった』
「獣めが、随分知恵がついたようではないか」
『かつて私を召喚した神は短期間で多くの血を捧げ、性急に呼び出したために、私は自我のないまま暴れまわることとなった。だが今度はゆっくり時間をかけたおかげで私はこの者の意識を乗っ取り、知識を得て、人の言葉を理解できるほどになった』
「イドラの心を侵食するのは止めろ」
『この者はもはや私の支配下にある。やがて私自身の依り代となり、私は元の姿を取り戻すのだ』
「そんなことはさせぬ」
『クック…もう止められぬさ』
「イドラ!しっかりしろ、魔獣に食われるな!」
そう叫んだのはイシュタルの方だった。
すると、イドラはハッと正気に戻ってイシュタルを見た。
「…私は今、何を…」
「おまえは魔獣に操られていたのだ」
「魔獣に…?」
イシュタルは魔法陣の中央で座っていたイドラの元へ歩み寄り、手を差し出した。
イドラは少し驚いて、イシュタルの手を取って立ち上がった。
「イシュタル、か?」
「ああ、今代わる」
イドラにはイシュタルとイシュタムの区別がつくようになってきたようだ。
「トワに傷を癒してもらったと言ったな」
「ああ…。酷い火傷だった。私の心を歪めるほどのな。…だが、あんなに私を苦しめたその傷を、トワは一瞬で消し去ってくれた。不思議なことに、傷が癒えるとこれまでの恨みがすっと消えていった。トワがいなければ私は今も怨嗟の中でうろついていただろう」
「ふむ。異分子なれど役には立つか…」
「だが、それがきっかけとなって、私の中に魔獣が入り込んできたのだ。…それまで私には私の顔を焼いた魔王への復讐心しかなかった。それが失われた時、ぽっかりと穴が開いてしまった。そこに魔獣の付け入る隙が生まれたのだと思う」
「未熟な心のままに魔獣を召喚してきたツケが回ってきたのだな」
「リスクがあることは百も承知だ。それでも、私は、私という存在価値を、魔獣を召喚することでしか証明できなかった。それで食われるのなら本望だと思った」
イシュタムはイドラの肩を掴んで振り向かせた。
「おまえという存在なら我が認めてやる。魔獣に抗え。食われるな」
「テュポーンを召喚することは私の悲願だ」
「おまえが食われては困る」
イシュタルが意外な言葉を口にしたので、イドラは不思議そうな顔をした。
「なぜあなたが困るのだ」
「おまえは我の召喚者だ。我と共にいてくれねばならん」
「この前もそう言っていたが、召喚されたからと言って一緒にいなければならない決まりなどはない。それに召喚者がいなくともあなたは消えたりしない。自由にしていいんだ」
「…そういうことではない」
「じゃあ、一体何だ?何が言いたいんだ!」
イドラが強い口調で云うと、イシュタムは少し黙って、その後、思わぬ言葉を口にした。
「ああ、もうまだるっこしいな。はっきりいえばいいのに」
急に豹変したイシュタムにイドラは目をむいて驚いた。
「…イシュタルか?」
「ああ、そうだ。すまない、少しイライラしてしまって交代した」
「まったく紛らわしい…。どういうことだ?」
「イシュタムはあんたと一緒にいたいんだ」
「はぁ?」
「イシュタムはあんたに好意を持っているんだ」
「な、な、な、何を言っている…!」
思わぬ言葉にイドラは動揺して、うまく言葉が出なかった。
灰色の長髪に碧色の瞳を持つイドラは、そのクールな美貌に似合わず、ひどく取り乱していた。
「イシュタム自身もよくわかっていないようで、うまく言葉で伝えられないんだ。だが私には彼の心がわかる。はっきり言ってやろうか?イシュタムはあんたに惚れている」
「ほ、ほ、惚れっ…」
イドラはみるみるうちに真っ赤になった。
「あ、あるはずがない!イシュタムは神だぞ?神が、そんなこと…バカげている!」
見るからに狼狽えて、目が泳いでいる。
その様子が初心に見えて、イシュタルには面白かった。
「あんた、可愛いな」
「バッ、バカなことを言うな!私が可愛いわけがないだろう!おまえは神のふりをして私をたぶらかそうとしているんだな?」
「いや、私とイシュタムは意識を同化している。私がそう思うってことはイシュタムも同じ気持ちだということだ」
「はうっ!」
イドラは自分の耳を両手で塞いだ。
「嘘だ、嘘だ。騙されないぞ、そんな言葉信じない」
「嘘ではない。今イシュタルが言った通りだ」
イドラは目の前に立つ角の魔人を見た。
2メートル近くはある大柄な体は、赤褐色の肌、分厚い胸板、引き締まった腹筋、と世の男性なら一度は憧れる素晴らしい肉体美を誇っている。
「今度はイシュタム…か?」
「そうだ。我には人の感情がまだよくわからぬ。故にそれを言葉にする術を持たぬ。イシュタルは我の感情を読み取り、それを言葉にしたのだ」
「あなたは神…なのだろう?私ごとき取るに足らぬ者を、その…そんなふうに思うことなど、あるのか?」
「神が人を好きになってはいけないか?」
「す、好き!?」
「…言葉が間違っているか?」
「わ、私に訊かないで欲しい!で、でも、なぜ私なのだ…?」
イシュタルの左右の手がイドラの両耳を塞いでいた手を取った。
「理由が必要か?それも言葉にした方が良いのか?」
「待って、待ってくれ…!それはいい!言わないでいい!」
「…イシュタルが云うには、一目惚れというらしい」
「なっ…!」
「…不思議だ」
イシュタムは真っ赤になったままのイドラを見下ろした。
「この手を離したくないと思う」
「ふわぁ…!」
イドラは慌てて手を振り払って胸を押さえた。
「か、か、からかわないでくれ…!」
「からかってなぞいない」
「そ…そんなことを言われたのは初めてで…ど、どうしていいか、わからないんだ!」
「やっぱりあんた可愛いな」
急に声色が変わったことにイドラは気付いた。
「イシュタル、またおまえか!ひ、卑怯だぞ!2人して、私を弄んでいるのだな?」
イドラは自分の胸を両手で押さえた。
鼓動が収まらない。
こんな経験はしたことがなかった。
「弄んでなぞいない」
「あ…あなたは本当に魔族の創造主たる神なのか?伝説通りなら、あなたは魔獣に殺されたはずだ!本当は神などと偽っている別人で、私を辱めているだけではないのか?」
「…殺されたのは依り代の肉体だ。我の精神の一部は肉体の死と共に分離して魔界に戻った。肉体に残った我の一部が魔王として生まれ変わったのだ」
「では、魔王は…神?」
「あれは我の一部ではあるが我ではない。すでに我とは別の人格を持つ魔族の王だ。あれがいる以上、我がこの世界に降臨することはもはやないと思っていた」
「なら、どうして…」
「イシュタルの願いと、おまえの想いが我を呼んだ」
「私の想い…?私は何も…」
イドラは戸惑いながらイシュタムを見た。
「気付いていないのか。おまえは召喚しながら心の奥底で悲鳴を上げていた」
「…!」
「助けてほしいと、叫んでいた」
イドラは思わず目を背け、目をぎゅっと瞑った。
「我は、その声を聞いた。そして助けたいと思った」
イシュタムはそうきっぱりと云い切った。
イドラがそっと目を開けると、イドラを見つめていた彼と目が合った。
「我がおまえを解き放ってやる」
「イシュタム…」
「テュポーンはおまえの心と体を食らい、この世界に顕現するつもりだ。心を強く持て。抗え」
「…無理だ。私はもう、とっくに食われている。もう逃げられない」
「まだ間に合う」
イシュタムはイドラの手を取って、魔法陣の外に連れ出そうとした。
すると、イドラの体から黒い煙のようなものが立ち上りはじめた。
イドラの口を使って、それはイシュタムに語り掛けてきた。
『この者はもはや私のものだ。もうじき、私はこの世界に降り立つ。もう止められぬ』
「テュポーンよ。この世界に来て、何をするつもりだ」
『決まっている。人間も魔族も食らう。そうして私がこの世界に君臨するのだ』
「…君臨だと?獣の分際でこの世界の王にでもなるつもりか」
『私はかつて神を食らったのだぞ。私こそが神に成り代わり、この世界の王となるに相応しい』
「笑止な。貴様は人間の味が忘れられんだけだ。この世界に留まり続けて人間を食らいつくそうとでもいうのか?」
『ググッ…貴様…何者だ』
「貴様を倒す者だ」
『ググッ…』
「去れ、獣よ」
イシュタムが云うと、イドラの身体の中に黒い煙が吸い込まれて行った。
イドラは気を失ってしまい、その場に崩れ落ちた。
イシュタムはイドラの身体を抱き上げて魔法陣を後にした。
「あれ、イドラじゃん」
イドラを抱きかかえて地下通路を戻ってきたイシュタムは、向かい側から歩いてくる魔族の一団から声を掛けられた。
声を掛けたのはエメラルドグリーンの髪の魔族だった。
彼らは聖魔騎士団のカナン、ネーヴェ、シトリー、クシテフォン、テスカの5人だった。
魔獣討伐後、彼らは一旦コンドミニアムに戻っていたが、ユリウスからの遠隔通話を受けて、ラエイラに出現した魔獣を退治するのに協力してやってほしいと頼まれたのだった。
「おまえたちは、イドラの知り合いか」
「そうだけど、あんた誰?」
「我はイシュタム。イドラに召喚された者だ」
「イシュタムって、神様の名じゃん。あんたそれマジなの?」
ネーヴェが茶化すように云ったが、イシュタムは彼をじろりと見ただけで何も答えなかった。
カナンがネーヴェを制してイシュタムに尋ねた。
「こんなところで何をしてるんだ?」
「この奥に魔法陣がある。そこから先程の魔獣が現れたのでその確認にきた」
「まさかさっきの魔獣は…イドラが召喚したのか?」
「いや、違う」
それは嘘だったが、実際に召喚したのはイドラでないことは確かだ。
カナンはイシュタムの隙のない姿が気になった。
「あんた、何者だ。只者ではないな」
「おまえたちこそ、どこの手の者だ」
「我々は…」
「あ、ここだよ、ポータル・マシン」
カナンの言葉を遮って、テスカが声を掛けた。
テスカは通路の角に置かれていたマシンを見つけたのだった。
「ポータル・マシンとは何だ?」
聞きなれない言葉に、イシュタムが尋ねた。
「空間転移できる装置だ。これに乗れば離れた場所へ一瞬で行ける」
「ほう…空間魔法の技術を利用した機械か」
「そうだ。私たちはラエイラという場所へ魔獣を倒しに行くんだ」
「魔獣だと?」
イシュタムの表情が変わった。
「魔獣が現れたのか」
「ああ、そうらしい」
イシュタムは腕に抱いているイドラを見つめ、すぐに視線をカナンに戻した。
「その魔獣退治、我にも手伝わせてほしい」
「え?」
「我は魔獣を退治するためにこの世界に召喚された者だ」
カナンはネーヴェや他の仲間たちと顔を見合わせた。
「召喚されたってことは、この人異世界人?」
「しかし見た目は完全に魔族だが…異世界にも魔族がいるということなのか?」
テスカとクシテフォンがそんな会話をしている。
「どうする?」
「手伝うってんならいいんじゃないの?この人強そうだしさ」
「俺も構わん。人手は多い方が良い」
カナンが尋ねると、ネーヴェもシトリーは別に構わないと云い出した。
「おまえたち、テキトーだな…」
カナンが呆れ気味に云うと、彼はイシュタルに交代して、「一緒に連れて行って欲しい」と改めて申し出た。
仕方なく、カナンはイシュタムを連れて行くことにした。
イシュタムはイドラを抱えたまま、初めてポータル・マシンに乗ってみた。
彼は空間移動ができるのだが、このマシンには興味津々で転送されて行った。




