臭いものには蓋をしろ
大司教公国を恐怖のるつぼに陥れたきっかけを作ったのが自分だとも知らず、魔王はカイザーの背に乗って飛び回っていた。
広大な人間の国の版図を何日もかけて飛び回るカイザードラゴンの背には、アスタリスも乗っていたが、彼は自分の能力の限界を感じたと魔王に直訴した。
彼は、魔王の不興を買う覚悟で、もしトワが変装させられたり、どこか狭い所に閉じ込められたり、樽や木箱などに押し込められて運ばれたりしていたら、見つける自信がないと云ったのだ。
魔王は一理ある、と考えてそれならばと魔力を視られるサレオスを前線基地まで迎えに行ったのだ。
その際に、大司教公国の上空をたまたま飛んだに過ぎなかった。
前線基地から合流したサレオスは事情を聞き、魔王に進言した。
「魔王様、一度グリンブルに戻ってみてはいかがでしょうか。何か情報があるかもしれません」
魔王はそれに従うことにした。
グリンブルの治安維持機構本部に戻ると、なにやら騒がしかった。
「何事だ」
魔王が職員に尋ねると、今、来客があったと云って取り乱していた。
メイド長らしき魔族が部下たちに指示している声が聞こえた。
「とにかく、メイドは全員避難させろ!」
「奴の目を見るな!」
「絶対に触れるな!」
何があったのかと魔王が首を傾げていると、サレオスが「なるほど」と唸っていた。
その理由を魔王は、正面から歩いてきた人物を見て理解した。
治安維持機構本部の廊下を悠々と歩いてくるのは魔公爵ザグレムだった。
彼の後ろには取り巻きの2人の女がいた。
その取り巻きの女たちが左右片方1つずつの手を掴んで引きずっていたのは、地下の留置場にいたはずのマリエルだった。
「あ、あれがマリエル…?」
アスタリスは目を疑った。
その容姿があまりにも彼の知っているものと違っていたからだった。
その体は丸々と膨れ上がり、もはや自力で歩くことができないほどに肥満していたのだ。
そしてその顔は毒を食らったようにドス黒い紫色になっていて、顔中の血管が浮き上がって、さながらゾンビイのような容貌になっていた。
目は白く濁って血走り、どこを見ているのか、何を見ているのかもわからない。
着る物がなかったのか、おおざっぱにカットされたノースリーブの前開きワンピースをまるで浴衣のようにざっくりと着せられていた。
マリエルは女たちに引きずられながらもグルル…と獣のような唸り声を上げて、自分を連れ出した女たちに怒っており、「食べたい、食べたりない」とブツブツ文句を云っていた。
驚いたことに、あれほど執着していたザグレムを前にしても、まったく彼に反応せず、ひたすら食べ物に心を奪われていたのだ。
マリエルを拷問していたユリウスが、一体どんな手段で彼女をこんな風にしてしまったのかと考えると、アスタリスは恐ろしくなった。
なまじ優し気な彼を知っているだけに、ユリウスの知られざる一面をみた気がした。
一度ザグレムの洗礼を受けた者は、その呪縛から逃れることはできないという通説を、ユリウスはマリエルの色欲を食欲で上書きすることによって覆したのだ。
そのことに気付いた魔王は、「あやつ、なかなかやるではないか」と、口を歪めて笑った。
ザグレムが魔王に気付くと、彼は華麗に会釈をした。
「これは魔王様。このような場所でお目にかかれるとは。本当に復活なされたのですね。おめでとうございます」
「見え透いた世辞はいらぬ。ここへ何をしに来た?」
「私の愛人の1人がなにやらおイタをしたらしく、こちらに囚われているとの報告を受けましたので、引き取りに参ったのです」
「それが、おまえの愛人?」
「…ええ、愛人だった者です」
ザグレムは云い直した。
「そいつは貴様の命令で動いていたのか?」
「とんでもありません。私の愛人たちは、私への愛が深すぎて、時々暴走してしまうのです。もちろん私は命令なぞ一切しておりません」
「その者は、我を欺き、我の愛する者をも裏切ったのだ。罰を受けて当然だろう。なぜ助け出す?」
「おお、そのようなとんでもないことをしでかしたとは存じませんでした!私の監督が行き届かず、大変申し訳ありません。この私が処罰しておきますのでどうかご容赦を」
ザグレムは芝居がかった様子で、取り巻きの女たちに合図をした。
すると後ろの女たちは、短剣を取り出した。
「やめろ。この場を血で汚すつもりか。その汚物は持ち帰って処分しろ」
「お心のままに」
ザグレムは女たちに合図し、そのまま廊下をマリエルを引きずって歩いて行った。
「ザグレム」
「はい」
「貴様のために言っておく。欲はかくな」
「…胸に刻んでおきましょう」
「次は容赦はせぬ」
「…寛大な仰せ、痛み入ります」
ザグレムはそれまで浮かべていた薄笑いを止め、通路を外へと歩いて行った。
マリエルの巨体を引きずった女たちもそれに続いた。
魔王はそれを黙って見送った。
ザグレムはムスッとしたままスレイプニールの馬車に乗り込んだ。
女たちはマリエルの巨体を馬車に乗せるのをためらった。
「そんな臭いものを乗せないでおくれ」
マリエルの頬には既に3本の傷が付けられていた。
女たちは馬車の後ろに縄をひっかけてマリエルの巨体を縛り、引きずって行くことにした。
馬車が走りだすと、マリエルはまるでゴムボールのように弾んで引きずられた。
市内ではスピードが出せないため、その度に馬車に振動が走る。
「なんという醜さだ…。一度でも私の愛を受けた者を放ってはおけないと迎えに来ては見たものの、このような汚物に成り下がっているとは。郊外に出たらなんとかしておくれ」
「ザグレム様の愛を、このような仕打ちで返すとは万死に値しますわ。今しばらく我慢なさいませ」
ザグレムはショックを受けていた。
マリエルの変貌ぶりにではない。
彼女の自分への愛が、食欲に負けたことにである。
「あんな臭いものを取りに来るんじゃなかった。気分転換に美しいものを見たい」
「お可哀想なザグレム様。でしたらセウレキアの舞台などはいかがでしょう。美しい歌と踊りできっと癒されますわ」
「ええ、きっと嫌なこともすぐ忘れられますわ」
それから数日後、マリエルらしき肉塊がグリンブル近郊で発見されたが、そのほとんどは魔物に食われてしまっていて、もはやそれが人だったとは誰も思わなかった。頬の肉片に3本の傷が確認されたために、マリエルではないかと報告されたのだった。
魔王が部屋に戻ると、イドラの様子を伺っていたウルクがポータル・マシンで帰ってきた。
彼は大司教公国で起こった惨劇について報告した。
「大司教の正体はタロスだったか」
「はい。なぜかカラヴィアが現れて皆の前で正体が暴かれ、人間共に討伐されました」
「タロスは死んだのか」
「はい」
「エウリノームはいたか?」
「わかりませんが、その場に魔族は他にいませんでした」
「そうか、ご苦労だった」
「トワ様の行方も気になるのですが…。お許しいただければ、この後も引き続きエウリノームの行方を追いたいと思います。それにトワ様が気にかけていた勇者候補たちのことも」
ウルクはイドラの行動を追っていくうち、大司教公国の地下には多くの魔族がいることを突き止め、その魔族たちの動向も見ておきたいという。
「良かろう。お前の思う通りに動いてみよ。人手がいるなら誰か連れて行っても構わん」
「ありがとうございます」
「だが、たまにはお前の料理も食べさせろ」
「あ…、はい!」
魔王の言葉に、ウルクは笑顔を見せた。
そこへジュスターが慌てて入室してきた。
「魔王様、トワ様らしき方を見つけたとの報告がありました」
「トワらしき…?」
そのはっきりしない報告に、魔王は眉をひそめた。




