戦国武将の問答とガードマン三部作 2細川ガラシャ
戦国武将の問答とガードマン三部作
2 細川ガラシャ
一
岩井信夫、今年45歳の高校教師である。高校は東京都内の有名な進学校の私立校で、国語の担当である。キリスト教の信者である彼は特に現代文学に長じていて、同じキリスト教の信者でもある遠藤周作が好きである。遠藤周作には明確な思想があると彼は考え、キリスト教と日本人の心の葛藤についての明確な思想である。故に遠藤周作は現代文学において別格と彼は考える。これを語らせると終わりが無くなる。彼には仕事の他に一つの趣味がある。それは戦国大名細川忠興の夫人、細川ガラシャの研究である。大学の卒論も細川ガラシャに関する物である。細川ガラシャの事に関しては大学教授にも負けないと彼は自負している。事実、某国立大学教綬が彼に細川ガラシャに関する事で、問い合わせて来た事もある。
彼は最近、奇妙な夢を見た。ガラシャが1600年8月25日の命を絶つ数時間前である。ガラシャの家来の小笠原秀清らしき人物が、女の付き人に、何かを命じている。
「石田三成の軍勢が、押し寄せて来るかも知れない。私は今日で三日三晩、一睡もしていない。私は少し仮眠を取るから此処にいて、ご主人様をお守り致せ」と、槍を女の付き人に渡し、その場を離れた。彼女は分かり安く言うと、現代の女ガードマンと言った処だ。
小笠原秀清がその場を離れて、2~30分して軍勢の声がした。石田三成の軍勢に屋敷を囲まれた。その事を察知した屋敷の主、細川ガラシャは女の付き人に槍をしっかり持つよう指示した。かねての予定通り死を覚悟した。
「その槍で私の胸を突きなさい」ガラシャは命じた。
「・・・・・」女ガードマンは沈黙し、槍を立てたまま、槍を動かそうとしない。
「その槍で私の胸を突きなさい」再度ガラシャは命じた
「・・・・・」女ガードマンは沈黙したまま、槍を動かそうとしない。
「その槍で私の胸を突きなさい」三度目のガラシャの命令である。
「・・・・・」依然、女ガードマンは沈黙したまま、槍を動かそうとしない。
「早くその槍で私の胸を突きなさい」ガラシャは命令を下した。
「・・・・・」女ガードマンは沈黙し、依然槍を立てたままである。
「その槍で私の胸を突きなさい」五度目のガラシャの命令である。
「・・・・・」女ガードマンは全く沈黙したまま、槍を動かそうとしない。
「何をしているのです。早くその槍で私の胸を突きなさい」ガラシャは可成りいらだって来る。
「早くその槍で私の胸を突きなさい」ガラシャは命令を下した。
「・・・・・」女ガードマンは沈黙し、依然槍を立てたままである。
「その槍で私の胸を突きなさい。何をしているのです」七度目のガラシャの命令である。
「・・・・・」女ガードマンは全く沈黙したまま、槍を動かそうとしない。
「何をしているのです。早くその槍で私の胸を突きなさい」ガラシャは相当いらだって来る
「なで自分で刺さねえ」女ガードマンが始めて口を開く。
「私はキリシタンです。神から授かった命を、自ら絶つのは神に対する冒涜と、キリストは教えます。ですから私は自害する事が出来ないのです。その槍で私の胸を突くのです」
静かに諭すガラシャ。
「おらの一向上人様は、人を殺めては何ねえ、と教えるだ」女ガードマンは 槍を立てたまま話す。
「そなたは一向宗なのですね。私はそなたの主です。主の命令です」
「おらにとって一向上人様は絶対だ。上人様が殺めては何ねえと言われているのだ。だからだめだ」
「そなたは私を殺すと思っていますね。それは大きな間違いですよ。その槍で私の胸を突く事は、私を救う事になるのですよ」
「上人様のお弟子のお坊様に確かめるのだ」
「何を言っているのです。そんな時間がある訳ないでしょ。早く突きなさい」ガラシャは声を強める。
「上人様は言われているのだ。人を殺めれば地獄に堕ちると。おら、地獄に堕ちたくねえ」
「私はそなたの主ですよ。主の言う事が聞けないのですか」
「なんでも聞くだ。人を殺める以外は何でも聞くだ」
「それでは命じるのは止めましょう。改めてそなたにお願いします。その槍で私を突いて下さい」
「おらいやだ。人を殺めるのだけは」
「突きなさい」
「いやだ」
「突くのです」
「おらいやだ」
「その槍を飾りで持っている訳では無いでしょう。今は私を突く為に持っているのでしょう。だったら役目を果たしなさい。その槍の役目を果たしなさい」
「主様をお守りするのが、おらの役目。主様を殺めるなんておら知らん」
「普段は確かに私を守るのが、そなたの役目。しかし今は普段とは違うのです。屋敷は三成の軍勢に囲まれました。彼らの目的は私を生かして虜にするのが目的なのです。彼らの目的を壊す為に私は死ぬのです。私の胸を突く事はキリストの声でもあるのです」
「そんな難しい話は分かんねえ。主様を殺めるなんて出来ねえ」
「私の胸を突く事はキリストの声。キリストの声は一向上人もご理解下さると思いますよ。一向上人も正しい事は分かるでしょうし、従って理解もしてくれますよ」
「嘘だ。そんな話は信用出来ねえ」
「いい加減にしなさい。時間が無いのですよ。早くその槍で私の胸を突くのです」
「嫌だ。出来ねえ」
細川の屋敷を囲んだ三成の軍勢も、女主人に手荒い事はするなと厳命を受けている。従って時間が掛かっても、ガラシャが自ら軍勢に従う様に、穏やかに事を進める。駕籠まで用意している。
「三成の手勢の者が屋敷を囲んでいるんですよ。早くその槍で私を突きなさい」ガラシャは声を荒げる。
「おらいやだ。人を殺めるのだけは。自分でやったら良い」
「何度も言わせないで。人の生命は、神から授かったものです。その神から授かった大事な命を、自ら絶つのは神に対する最大の冒涜と、キリストは教えます。キリシタンにとって最も許されない大罪なのです。ですから私は自害する事が出来ないのです。その槍で私の胸を突くのです」
「おらキリシタンでねえ。おら一向宗徒だ。宗にも厳しい教えはあるだ」
「その通りです。しかし仏教は自ら命を絶つのまでは禁じてはいまい。比叡山の僧侶は、槍刀を持っているでしょう。人を殺めるのも、時と場合により許されるという事でしょう。早くその槍で私を突きなさい」
「おらの宗は禁じているだ」
「何時まで押し問答続ける積もりなのですか。早く突くのです」
「なんと言われても、おらには出来ねえだ」
屋敷を取り囲んだ三成の手勢の者は、ガラシャが自ら進んで三成の軍の指示に従う事を望んでいる。そうすれば他の家康に味方する大名の奥方も、ガラシャに右へ習えするであろう。そう読んでいる。最悪なのは、ガラシャが自ら命を絶つ事である。しかしキリシタンは自害を出来ない。こうも読んでいる。
中々女主人の指示に従わない女ガードマンに、ガラシャもほとほと困り抜く。焦りと当時に、次第に怒りもこみ上げて来る。懐柔策を模索し始める。豪華な木箱を取り出す。中から大判の金子を数枚取り、彼女の前に差し出す。
「この金子を全てそなたに上げましょう。ですから私の胸をその槍で突いて。お願いします」
「人を殺めてまで。金子など貰いたくねえだ」
「しかしそなたも人の子。人の子なれば欲しい物はあろう。私の来ている着物を持って行くが良い。早く私の胸をその槍で突いて。お願いします」
「何と言われても出来ねえ」
ガラシャは先程の豪華な木箱を、女ガードマンの前に差し出す。
「木箱の中には沢山の金子が入っています。これを全てそなたに上げましょう。ですから私を突くのです」
「嫌だ。人を殺めるなど。おらには出来る訳ねえ」
「最後に命じます。その槍で私の胸を突きなさい」ガラシャは怒りを露わに表す。
「例え話をしましょう。そなたの母御が居るとします。その母御が、助から無い病気に掛かったとします。苦しく重い病だとします。分かりますね」
「分かるだ」
「その母御がそなたに、苦しい苦しいと言ったとします。分かりますね」
「分かるだ」
「その母御が、余り苦しいから殺してくれ。そう頼んでも、そなたは母御に何もしないのですか」
「お袋の苦しみを和らげる方法をまず考える」
「方法が無くて、殺してと泣いて頼んでいるのですよ」
「何もしないよ、殺すよりいいだよ」
流石のガラシャも女ガードマンに根負けする。ガラシャは何思ったのか、やにわに自身の胸を開き、最後の肌着一枚を残し胸を開ける。その後、女ガードマンに近づく。そして女ガードマンの持っている槍を自分の方に向きを変える。その槍先近くを自分の手に持って、槍先を肌着一枚の胸にあてる。ガラシャは口を開く。
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」
「押せばご主人様は死んじまう。そがいな事おらには出来ねえ」
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」再度繰り返すガラシャ。
「押せばご主人様は死んじまう。そがいな事おらには出来ねえ」同じ様に再度繰り返す女ガードマン。
「なにを言っているのです。そなたは槍を押すだけで良いのですよ。何故こんな簡単な事が出来ないのですか、さあ早く槍を押しなさい」
「おらが押せばご主人様は死んじまう。そがいな恐ろしい事、おらには出来ねえ。一向上人様は人を殺めちゃなんねえって言っている」
「今は宗教の話をしているのではありません。その槍を押すだけで良いのですよ。こんな簡単な事がどうして出来ないのですか」
「何と言われても、おらには出来ねえ」
槍先の少し手前を手で握り、槍先を肌着一枚の胸にあて、じりじりと前に進むガラシャ。反対に少しずつ後退する女ガードマン。
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」
同じ言葉をくり返すガラシャ。
「・・・・・・・・・・・・・・」女ガードマンは槍を持ったまま再び沈黙に入る。
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」
声も次第に大きくなり苛立つガラシャ。
「・・・・・・・・・・・・・・」女ガードマンは槍を持ったまま依然沈黙である。
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」
声も一段と大きくなり苛立つガラシャ。
「・・・・・・・・・・・・・・」槍を持ったまま依然沈黙を続ける女ガードマン。
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」
声を張り上げるガラシャ。
「・・・・・・・・・・・・・・」女ガードマンは槍を持ったまま依然として沈黙である。
槍先の少し手前を手で握り、槍先を肌着一枚の胸にあて、じりじりと前に進むガラシャ。反対に少しずつ後退する女ガードマン。女ガードマンは襖を背にするに及んでこれ以上後退出来ない。止むを得ず襖を背にしたまま横に少しずつ移動する。
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」
声を一段と張り上げるガラシャ。
「・・・・・・・・・・・・・・」女ガードマンは槍を持ったまま依然として沈黙である。
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」
大きな声を張り上げるガラシャ。
「・・・・・・・・・・・・・・」女ガードマンは槍を持ったまま再び沈黙である。
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」
大きな声を張り上げるガラシャ。
「・・・・・・・・・・・・・・」女ガードマンは槍を持ったまま再び沈黙である。
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」
大きな声を張り上げるガラシャ。
「・・・・・・・・・・・・・・」女ガードマンは槍を持ったまま再び沈黙である。
「そなたは槍を押すだけで良いのです。さあ早く槍を押しなさい」再度繰り返すガラシャ。
「・・・・・・・・・・・・・・」同じように沈黙を繰り返す女ガードマン。
「そなたは槍を押すだけで良いのですよ。何故こんな簡単な事が出来ないのですか、さあ早く槍を押しなさい」声を張り上げるガラシャ。
「・・・・・・・・・・・・・・」女ガードマンは沈黙を続ける。
「今は宗教の話をしているのではありません。その槍を押すだけで良いのですよ。こんな簡単な事がどうして出来ないのですか」
「・・・・・・・・・・・・・・」女ガードマンは押し黙ったままである。
槍先の一部を着物の袖で持ち、槍先を肌着一枚の胸にじりじり前に進むガラシャ。少しずつ後退する女ガードマンは襖を背にし、これ以上後退も横にも移動出来ない状態に。中々埒のあかない事態に、三成の軍勢も堪忍袋の緒を切って屋敷内に進入する。
騒々しい物音に仮眠を取っていた小笠原秀清も驚いてガラシャの部屋に駆けつける。秀清は襖を開けると同時に部屋に突入し、襖を背にした女ガードマンに激しく激突する。その煽りを食う形で前に転ぶ女ガードマン。槍先はガラシャの胸を突き抜け、ガラシャは絶命する。秀清はガラシャから槍を抜き介錯をする。秀清は女ガードマンに逃げる用に指示し、部屋に火を放つ。屋敷は瞬く間に炎に包まれる。
岩井信夫はここで目を覚ます。
「夢か。こんな事はあり得ないよ」そう思いつつも、
「ひょっとして」と思う国語教師である。
<了>