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凍京愛徒  作者: 蒼原悠
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 前触れもなく母さんから電話がかかってきたのは、その翌日のことだった。

──『お父さんがインフルエンザに(かか)ったのよ』

 ろくな挨拶も挟まずに本題へ入った母さんの声色は、しかし勢いに反して(かんば)しくなかった。『どうにか正人からは隔離してるんだけど……。あの子にうつらないか心配でならなくて』

 弟の正人は今年、高校受験生だった。この時期の受験生がインフルエンザなんかに罹患しようものなら目も当てられない。母さんの憂患は察するに余りあるものだった。

「父さんの方は大丈夫そうなの?」

──『かなりの高熱が出てるけど、お医者さんが言うには命に別状はないみたい。予防接種を打たなかった報いですよって言われてたわ』

 まずい、と思った。おれもまだ予防接種を打っていない。

──『優大(ゆうた)は打ったの?』

 案の定、母さんはおれの懸念を的確に狙ってきた。打っていないことを白状するや、とたんに声を荒げて『明日にでも打ってきなさい』と命じられた。

──『優大のためだけじゃない、正人のためでもあるんだからね。打たなかったら正月には我が家の敷居を跨げないと思いなさい』

 実際問題、母さんの言う通りだった。正人のことを思うなら、今この時期にインフルエンザへの対策を怠ってはならない。風邪なんかに苦しんでいる場合ではないのだ。隠れて風邪を引いていたことまで暴露したら、母さんはいったいどんな形相でおれを迎えるだろう。

 憂鬱な気分で電話を切り、最寄りの内科に予約を申し込んでみた。そんな予感はしていたが、既存の予約でいっぱいだと断られてしまった。

「病院を頼るしかないか……」

 地図を眺めながら、つぶやいたっけ。

 国道や高速道路を挟んだ南の方に、このエリアで一番の大きな病院が建っている。いざという時に頼る先といったら、まだ東京の地理に(うと)いおれにはその病院くらいしか思い付かなかった。

 特に深い意味もなく、[ゆう]にも予防接種を打ったかと聞いてみた。【注射には慣れたけど嫌い!】という、まったくとんちんかんの返答が寄越(よこ)されてきた。


 恵比寿赤十字病院はおれの家から自転車で通える範囲では最大級の、地域医療の中核を自負する総合病院だった。なんたって、建物が見上げるほどに大きい。敷地内には広大な庭もある。

 ワクチンの取り揃えの数も尋常じゃないのだろう。インフルエンザの注射は、外来の受付に出向いてから二十分ほどで終わってしまった。身体だけはいくらか大人になったせいか、注射の痛みに顔を歪めるような恥ずかしい真似はしないで済んだが、それでも看護師さんには「無理しないでいいんですからね」と気遣いの言葉をかけられてしまって、おれはひどく敗北感を味わった。

 腕から消毒用アルコールの香りが立っている。しこりのような違和感の残る左肩を回しながら病院の外へ出ると、住宅街特有のしんと静かな寒さが肌を刺した。

「終わったって伝えとくか……」

 スマホを取り出して、母さんのアドレス宛にメールを打った。メッセージアプリが使えたら便利なのだけれど、あいにく母さんはスマホではないのでメッセージが使えない。アドレスを電話帳から引っ張ってきて、題名を入力し、本文を作成……。メッセージアプリに慣れてしまうと、既存のメール機能はやや使いづらい。

 打ち終えた頃には、病院の敷地内のよく分からないところへ踏み込んでしまっていた。

 しまった。前、見てなかった。銅像やベンチや生け垣の並ぶ中庭のような空間から、慌てて待避しようとして。

 ふと、おれの視線は遠くにぽつんと置かれた一台のベンチに引き込まれた。

 どことなく既視感のあるベンチだった。なんでおれ、こいつに見覚えがあるんだっけ。ベンチに近付いてゆきつつ、そこが自分のような外来患者の立ち入っていい場所なのかが分からなくて、つい不安になって周囲を見渡してしまった。

 背後には同じような外見デザインのマンションが複数棟、病院の建物、それに病院と同じ赤十字のマークをつけた高層のアパートみたいな建物が建ち並び、この空間をぐるりと囲んでいた。

 それでやっと、思い出した。

 ここの景色、いつか[ゆう]の投稿していた写真と同じ風景じゃないか。

 そうだ、間違いない。すぐにSNSを起動して[ゆう]のアカウントを開き、投稿されたタイムラインを確認してゆく。もう一ヶ月も前に、意味深なコメントと共に電子の海へ放り出されたあの写真。比べてみると間違いなさそうだった。

 コメントの中身はひとまずどうでもいいとして。……[ゆう]は何だって、こんな場所の写真を?

 おれと同じようにこの病院にお世話になったのか?

 それとも……?

 その瞬間、視線を感じたおれは無意識に顔を上げてしまった。まるで見えない力に誘導されるかのように、目は視線の飛んできた方向へと勝手に向けられた。そこには灰のような色をした病棟があって、フロアごとに横長のガラスがずらりと窓枠へ張り付いていて。

 そのうちのひとつに、誰かの顔があった。

「あっ……!」

 気付いた時には叫んでしまった。直後、顔は窓ガラスの奥へ引っ込み、それっきりおれは彼女の顔を見失った。見失ったけれど、見たものまでも忘れたわけではなかった。

 ちょっぴり肉付きの悪くて貧相な、それから目の下に泣き黒子(ぼくろ)のある、ショートボブの髪に包まれた顔。忘れもしない、幼馴染みの顔つきだ。見間違うはずはなかった。

 そこにあったのは侑莉の顔だった。

 慌ててフロア数を数えながら、病院のなかに戻ってみた。侑莉がいたのは六階の左側、区割りで言うとA病棟。院内のフロアマップを確認すると、六階A病棟は“緩和ケア病棟(PCU)”となっていた。

 侑莉。

 お前、ここに入院してるのか。

 だとしたらいったい、どうして。緩和ケア病棟って確か、がん患者とかが症状の苦痛を和らげるために入院する病棟じゃないのか。それとも侑莉はまさか……。

 一気にわけが分からなくなって、そのままふらふらと病院の敷地を出てしまった。予防接種を打ち終えたことの安堵や達成感など、とっくの昔に跡形もなく消え去っていた。


 夜になっても不穏な感情は(しず)まるところを知らなかった。母さんからは予防接種をちゃんと受けたことに安堵するメールの返信が送られてきていたが、はっきり言ってそんなものはどうでもよかった。いま一番の懸案課題は侑莉と[ゆう]のことだった。

 [ゆう]に問い(ただ)してみないことには気が済まなかった。あの病院にいた侑莉と[ゆう]が別人なら、この質問に是と答えることはないはず──。そう思って、入力し終えた質問を送ってみた。まずは一つ目。

【ゆう、入院してるのか?】

 [ゆう]は間を置かずに答えてきた。

【よく分かったね】

 まるで、その質問が飛んでくるのを予期していたみたいな態度だった。おれは続けて二つ目の質問を送った。

【緩和ケア病棟?】

 三つ目は【どうして?】のつもりだった。それは、どうして入院することになったのか、というだけの意味ではない。どうしておれに声をかけてきたのか、どうして“二十五日までの期間限定の仲”だったのか、どうして入院中にもかかわらずおれと会うことを了承したのか。[ゆう]だけが真相を知っている、それら全ての分の“なぜ”を込めて。

 [ゆう]からの返信はしばらく途絶えた。

 機嫌、悪くしたかな。ちりちりと心の隅でくすぶり始めた不安の火は、次の瞬間[ゆう]の送ってきた返信によって、一気に赤く燃え上がった。


【優には知られたくなかった】


 端的にそれだけを答えた[ゆう]は、それから先おれがどんなにメッセージを送り返そうとも、返信を求めようとも、(かたく)なに連絡を寄越(よこ)してくれなくなった。







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