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凍京愛徒  作者: 蒼原悠
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07




 結論からいうと、[ゆう]が戻ってきたことで精神が安定して風邪が治ることはなかった。それどころか熱がなかなか下がらずに、翌日の授業をおれは丸ごと休む羽目になった。

 欠席の連絡を済ませてから薬を飲んで、二度寝。よほど疲労が溜まっていたのか、ふたたび目が覚めた時には時計が夕方近くを示していた。外をうかがえば、今にも雪がちらつきそうに思えるほど不機嫌な色の空が、ビル街の向こうを濃く縁取っていた。

 外は寒い。なのにどうして、寒空の下に身をさらしても体温は下がってくれないのだろう。思い浮かんだ小学生レベルの疑問はさっさと薬もろとも喉に押し込んで、布団に戻った。

【今日、寒いな】

 同意してくれる声がほしくなって、[ゆう]に返事を求めてしまった。

 [ゆう]の返信速度には(むら)がある。いつもすぐに返ってくるとは限らない。もちろん、それは高校で授業を受けている普段のおれも同じなので、おれはあまり無意味な期待をかけずに彼女の返信を待つようにしていた。SNSを介して他人との会話に付き合うのには、きっとおおらかで気の長い性格の人が向いている。おれもいつかゆとりを持てるようになって、そんな美徳を持ち合わせたいと思う。

 強くなりたい。

 来ない誰かや降らない何かをいつまでも待ち続けられるような、揺るぎのない(たくま)しさがほしい。

 不意に玄関のチャイムが鳴った。誰だろう、こんな時に……。怪訝(けげん)な思いで起き上がって、足取りをふらつかせながらも玄関にたどり着き、ドアを開くと、いきなり聞き馴染みのある声が耳朶(じだ)を打った。

「寒いな」

 立っていたのは柴井だった。

「ど、どうしてここに」

「お前が独り暮らしだって綾乃から聞いてさ。看病する(やつ)、いないんだろ」

 ほれ、と彼はビニール袋を突き出す。「ちょっと遅れるらしいけど、綾乃も来るぞ」

 そんな、浜崎まで。女子を上げられるような家でもないのに……。[ゆう]よりも先に寒さに同意されてしまったおれは、ぶるっと寒気に身体を揺らしてから、仕方なく柴井を部屋の中へと案内した。とにかく親切心だけはありがたく受け取ろうと考えたが、礼を言っても柴井は「面白そうだったから来ただけだよ」といって取り合わなかった。

 そうか。友達って、こういうことを期待してもいいんだな。

 [ゆう]の感じたであろう羨望の深さが、ここに来て再認識できたように思った。

 食事に関して不便していることはなかったので、柴井には積み残されていた家事の消化に協力してもらった。せいぜい洗い物や洗濯物の回収くらいのもので、大柄な体格の柴井には持て余すような仕事だっただろう。ついでにゴミ捨てまでも済ませてくれた。

「高校から独り暮らしなんて珍しいよな」

 洗い物をしながら、柴井は台所から声を放ってきた。「実家はどこなんだっけ」

「八丈島だよ。伊豆諸島の……」

「へぇ! 自分だけ本州(こっち)で暮らしてんのかよ。八丈島って高校あるんじゃなかったか?」

「あるけど、あそこには通いたくなかったんだ。それで本州の麻布十番高校を受験した」

「そりゃまた何で」

「中学の時、色々あって。ちょっと不登校気味になったりしてたから」

 なるほどな、と柴井が(うな)った。“不登校”という言葉の重みは、経験した者にも未経験の者にも共通だと思う。無理のないことだった。

 おれは布団の中で背中を丸めて、柴井から視線を外した。

 ()()()()()と言ってしまったけれど、実際のところ()()()()()()という表現の方がよほど適切だった。誰とも、何のイベントもなかった。中学に上がって一歩オトナになった同級生たちの輪の中へ、おれは上手く入ることができなかったのだ。中学の三年間は本を読んで時間をやり過ごした。よほど得体の知れない存在と思われたのか、いじめの標的に()えられることさえなかった。ただ、ただ、どこまでいっても孤独だった。

 本州の高校に通うことを望んだのは、鬱屈した既存の人間関係から逃げ出したかったからでもあるし、新天地に渡ってすべてをやり直したかったからでもある。……結果的に、後者に関しては失敗しているわけだけれど。

「不登校なぁ」

 柴井がつぶやいた。洗い物が片付いたのか、水を止める音が甲高く耳にこびりついた。

「やっぱ、いるもんだな。どこの世界にも。俺はなったことないけど」

「柴井の身近にもいたことあるんだ」

「まあな。中学のクラスメートにいたんだよ。ちょうど盛岡みたいな、周囲に馴染めなくて孤立してるっぽい感じのやつ。三年間ほとんど顔を見かけなかった」

 おれみたいな人、か。もしも本当に、どこの世界にも仲間が存在しているのなら、おれも少しばかり心強くなれるのかな。柴井の歩いてくる音を床に感じつつ、そんな(かな)しい励ましに胸を打たれた。

「そいつもこのへんに住んでた気がするな、確か」

 柴井は窓の外を窺った。「むかしプリント届けに行ったことがあったんだよな。日直の仕事か何かで」

「へぇ……」

「あいつの名前なんつったかな。……そうだ、赤羽」

 おれは思わず布団を跳ね()けそうになった。

 柴井の口にした苗字が記憶の引き出しの取っ掛かりを見つけてくれたからだった。そうだ、思い出した。昨日あのスーパーで見かけた女性は、小学校の頃のクラスメート──赤羽侑莉の母親だ。赤羽(あいつ)の家はおれの実家から近くて、母親同士の近所付き合いもあったから、おれも何度か顔を合わせた経験があった。顔の特徴を覚えていたのはそのせいだ。

 そして。

 彼女が本当に赤羽侑莉の母親なら、あの子は──。

「下の名前は?」

 ()くと、柴井は変な顔をした。「“侑莉”とか言ったぞ。八丈島育ちのお前じゃ知らないだろ」

 とんでもない、その逆だ。けれどあまりの衝撃で心の整理のつかなくなったおれは、赤羽侑莉が幼馴染みであることをとうとう白状できないまま、そこで話を切り上げてしまったのだった。

 予告通り浜崎が来て、ひとしきり「男子の部屋ってきれいじゃない!」と叫んでから、よく知らない薬やら健康食品やらを置いていっても。

 柴井が帰っても。

 おれの混乱はちっとも収拾がつかなかった。


 四年前、おれたちに別れを告げた侑莉は、都内に引っ越していたんだ。しかも柴井と同じ中学──港区立西麻布中に在籍していて、このあたりに家があった。中学卒業からは一年半の時間しか経過していない。そのうえ母親の日常風景まで見かけてしまったとあっては、侑莉はまだ、この近隣に住んでいると見てよさそうだった。

 それだけなら単なる偶然で済ませられるだろうが、気がかりなのは[ゆう]の存在だった。今月の初め、クリスマスまでの期間限定で彼女はおれに“仲良し”になることを要求してきた。無数に散在するユーザーたちの中から、フォロワー数わずか数人の小規模アカウントにすぎないおれが選ばれたのは、果たして単なる偶然と切って捨てていいものなのだろうか。それだけではない。彼女は“仲のいい人がいない”。現実の侑莉は不登校に陥っている。名前の『ゆう』という響きさえも一致している。

【寒いねぇ】

 彼女のアイコンをぼんやりと見つめながら思案に暮れていたら、不意に返信が飛んできた。寒さへの同意を求めていたことを思い出しつつ、【風邪引くなよ?】などと自分を棚に上げたような忠告を送って、それからおれは昨日の自分が提案してしまったことを思い返した。

 どうしよう。

 クリスマスを[ゆう]と過ごす約束、結んでしまったばかりだった。




 小学生だった頃のおれが、近所付き合いのあった侑莉のことをどう感じていたのかといえば、たぶん、『既存の概念には当てはまらない』というのが正解だと思う。

 愛とか恋とか片想いとか、そういう小難しい人間関係のことは中学生になるまで知らなかった。おれにとって侑莉はそこそこ仲のいい隣人で、クラスメートで、ほどよく印象に残っている程度には親しい存在だった。[ゆう]とおれのように互いの好きなものに関心を持ったことはなかったけれど、同時に互いの存在を拒絶したこともなかった。侑莉の趣味や趣向は知らなくても、性格や価値観は知っていたし、たぶん侑莉もおれの性格や価値観を知ってくれていただろうと思う。

 だからこそ、卒業式のあの日、手を伸ばして侑莉(あのこ)の背中を(いたわ)ったのだ。そんな悲しげに泣かないで、前を向いてよ。泣き顔なんて見たくないよ。──あの日のおれを突き動かしたのはそういう感情だった。

 こんな名前を与えられはしたが、おれは自分のことを優しい人間だなんて思ってはいない。侑莉ほどではなかったとはいえ、あの場には他にも嗚咽に喉を詰まらせている子がいたし、けれどもおれは彼らには見向きもしなかった。個人的な感情で侑莉のもとへ歩み寄ったにすぎない。

 だとしたら、その“個人的な感情”は、“好き”とか“友達でいたい”というありふれた願望と、いったい何が異なっていたのだろう。

 おれはあの頃、侑莉にどんな関係を望んでいたのだろう。

 何も思い出せなかった。

 直後に始まった中学生活の切ない記憶に、みんな塗り潰されてしまったから。






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