06
やっと[ゆう]が返信を送ってきたのは翌日の夕方のことだった。
【ごめんね、遅くなって】
一言目を謝罪に費やした彼女は、おれの尋ねたことには至極端的な答え方をしてみせた。いわく【優が一緒に過ごしたいって思えるような人がいるなら、行けばいいんじゃないんかな】。
行けばいい、という言い回しには引っ掛かるものがあった。そこにはまるで、どうでもいいとか興味がないとか、そういう突き放しの意思がこもっているように感じられて、おれは少なからず失望の念に駆られてしまった。だいたいこれではおれの質問に答えていない。
【仲のいいやつがいないわけじゃないんだよ。悩んでるのはそこじゃなくて、雰囲気を壊しちゃわないかどうかってのが……】
懸念の本質が伝わってほしい一心で返信を認め、送った。[ゆう]の返信は早かった。
【そんなの、わたしにも分かんないもん】
【ゆうは参加したことないのかよ、クリスマス会的なやつ】
【ないよ。言ったじゃん、仲のいい人はわたしにもいないんだって】
[ゆう]の言葉選びには苛立ちすら窺えた。いったい、どうして。そんな憤るようなことを訊いたわけじゃないだろうに。おれは戸惑いながら同時に、[ゆう]が真実、自分と同類の人間なのだということを改めて知らされた。[ゆう]の“地雷”を盛大に踏みつけてしまったのだと悟った。
本当に、いないんだ。仲のいい人……。
【優は誘ってもらえたかもしれないけど、わたしには誘いかけてくれるような人さえいなかったもん。参加の是非なんて分かるわけないし、心の準備の仕方だって分かんないよ。わたし、優が思ってるほど、普通の幸せな人生を知ってるわけじゃない】
[ゆう]はますます言葉を荒げた。……いや、実際はどうなのだろう。もしかすると非難の意図はなくて、ただ自分の境涯を嘆こうとしただけなのかもしれない。文面の上ではどちらとも取れてしまうから、おれには区別のつけようもなかった。
そして、おれもおれでどうしようもなく狭量だった。
【そんなの分かってるよ。別に、ゆうにその経験がないのをバカにしようとしてるわけじゃないんだし、そんなに怒ることないだろ】
そう送り返してしまったのだ。[ゆう]もすぐさま返信を打ってきた。
【怒ってるわけじゃないし!】
【どう見ても怒ってるよ】
【だったらなんだって言うの?】
【はじめの返信の時からなんか変だよ、ゆう。わざわざおれの気に障るような言葉を選んでるみたいじゃん。教えてくれよ、何がそんなに気に入らないんだよ】
【別に。何もないよ】
【そういうのは自分の送ったメッセージ見返してから言えって!】
……延々と話し合い、否、口論は続いた。時計を確認していたわけではなかったから、どれほどの時間を無意味に費やしてしまっていたのかは分からない。布団のなかに包まっていても深夜の寒さが身に凍みて、くしゃみのために何度かティッシュの箱へ手を伸ばした。それでも、納得がいくまでは……最低限の話の区切りがつくまでは、切り出してしまった口論をやめるわけにはいかなかったのだ。
[ゆう]が何に対して機嫌を損ねてしまったのか、おれにはとうとう最後まで、分からないままだった。
他人と分かり合うのって、こんなにも難しくて遠回りの必要なことだったのか。それとも、遠回りが必要になったのは、騒動の片一方がおれみたいな人間関係に不馴れなやつだから? あるいは、両方とも?
……おれには分からなかった。
たかが夜更かしをしただけだというのに、次の日、おれの体調はすこぶる悪くなってしまった。朝日を浴びる前から目眩がしたし、頭もひどく重かった。それでも試験前の授業を休むわけにはいかなかったから、頑張って高校には登校した。
そしておれの不調は、中休みに入ったところでクラスメートにあっさり看破された。
「盛岡、今日ぼーっとしてんね」
声をかけてきたのは浜崎だった。「さっき二限の授業で当てられて出してた珍回答、マジ面白かったんだけど」
「ごめん。……今日、ちっとも頭が働いてなくて」
「面白かったって言ってんのになんで謝んの?」
浜崎は珍動物にでも遭遇したかのような顔でおれを覗き込んだ。どうしてだろう。ちょっぴり笑って場の空気を繕いながら、浜崎に問われたことの意味を考えた。試験前の厳粛な授業の場で変なことを口にするべきではなかったから、とか。面白いことを言うべきなのはもっと剽軽で明るいクラスの人気者であって、日陰者のおれには口走る資格はないから、とか。
駄目だな、おれは。こうやってうじうじ卑屈な言葉を並べ立ててしまうことこそが、何よりもいけないことだというのに。
「ね、盛岡」
浜崎はおれの返事を待たなかった。「顔赤くない?」
「そんなことは……」
「熱でもあるんじゃないの」
言うが早いか、浜崎はおれの額に手のひらを宛がった。ひんやりと心地のいい触感が額に広がって、おれは思わず息を呑んでしまった。こいつ、何のためらいも挟まずに……。
浜崎の手は冷たかった。雪や氷のようで、ふわり、額を包んだ快感に浮かされるかと思った刹那。
「熱っつ!」
彼女は叫んだ。「風邪でしょ、これ! 保健室行って熱測りなよっ」
おれの夢見心地は無惨に破壊されてしまった。
背中を押されて促されるまま、保健室に向かわされた。熱を測るまでもなかった。いちいち身体を動かすのも不快なほど全身を覆い尽くす倦怠感に、浜崎の見立てが確かなのをおれは理解した。
風邪だ。間違いなく。
夜更かしで身体を冷やしたせいかな。それとももっと漠然とした、精神的な要因からくるものだろうか。保健室ではそこまでの診断はできなかったから、とにかく薬やマスクをもらい、その日は大人しく家に帰って休むように言われた。
「家族に連絡しておいた方がいいわよ。お父さんかお母さん、家にいる?」
「どっちもいません。おれ、ひとりで下宿中なんで」
横たわったベッドの上で先生の質問に答えていたら、傍らで聞いていた浜崎に「うそ! 初耳!」なんて反応を示された。クラスの誰にも明かしていなかったのだから当たり前だった。それに、家族のいない孤独な身だったからといって、同情されて“仲良し”が増えるわけでもない。三十八度台の後半にまで高まった体温とは対照的に、おれの内心はいつもと同じか、それ以上に冷えきったままだった。
引いてしまった以上は仕方がない。ひとまず薬局に入って風邪薬を買い求めてから、せめて滋養のつく食生活でも心がけようと思って、駅の近くに建つスーパーマーケットに立ち寄った。
さすがは都心の一等地、このあたりの物価はとびきり高い。何を買っても相応以上の値段がする。いかにも高級そうな嗜好品の類いが入り口のあたりに並べられているのを見るにつけ、初めのうちはそこはかとない場違い感に苛まれたものだった。もっとも、我が物顔でずかずかと店内に踏み込んでゆけるようになった今でも、この街の住人になれたという自覚はちっとも芽生えてこない。
風邪のこと、八丈島の母さんや父さんたちには秘密にしておこう。
余計な心配をさせてしまったら面倒だ。ひっきりなしに様子見の電話がかかってくる羽目になるしな……。
栄養価の高さを見込んだ品を、片っ端から買い物かごに放り込んでいった。まだ身体を包み込んで離れない、甘ったるい匂いの倦怠感に、たまりきった吐息がもれて、おれはかごから顔を上げた。
ふと、見覚えのある顔の女性が、目の前を横切った気がした。
慌てて視線で彼女を追った。どことなく庶民感のある──言ってしまえばおれのように“浮いた”雰囲気の漂うその女性は、かごいっぱいに果物を抱えてレジの方へ向かってゆく。見かけの年齢は四十代くらいだろうか。どこかで確かに見た、馴染みのある顔付きに思えたが、熱に浮かされて呆けてしまったおれの頭では、それがどこの誰なのかを思い出すことはできなかった。
あの人って──。
声をかけるか迷っているうちに、彼女の姿は他の客に紛れて見えなくなってしまった。その場に取り残されたおれは、しばらく、重たいかごを手にしたまま、熱と倦怠感で呆けた頭をぼうっともたげていた。
一晩が経って[ゆう]は落ち着きを取り戻していた。開口一番【昨日はごめんね】と謝罪の言葉を述べた彼女は、少なくともおれの目には、すっかり悄気て小さくなっているように感じられた。
【わたし、羨ましかったんだ。クリスマス会に誘ってもらえるような人なんて、わたしには本当の本当にいないから……。なんか、きっとそんなことはないはずなのに、優がわたしよりもずっと高みを生きてるように感じられて、羨ましかったし、寂しかったの】
[ゆう]の言葉は素直だった。羨ましかったし、寂しかった。……同じ感情を山ほど抱いてきた身として、おれには突き刺さってきた[ゆう]の心情が痛いほどに理解できてしまった。
冷静に考えりゃ、そうだよな。
そんなの間違ってるって頭では分かっていても、それでもやっぱり羨望に身が焼かれてしまうんだ。おれだってそうだった。クリスマス会が他人事だった頃は、柴井たちが近くの席で相談をしている声さえ耳に入れたくなかったのだから。
【気にしてないよ。おれこそ、言いがかりみたいなこと口走っちゃって、ごめん】
おれの側からも謝り返した。きちんと非を認めたこと、あの子にも伝わってくれたのだろうか。すぐさま[ゆう]は返事をくれた。
【よかった……】
【なにが?】
【わたし、もうこのまま仲直りできずにケンカわかれしちゃうのかなっておもってた】
漢字に直すべきところが不自然にひらがなのままになっている。きっと彼女は焦りながら、あるいは指を震わせながら、この文面を打っているのに違いなかった。
そうだよな。
おれも、そう思う。
せっかくの貴重な“仲良し”の相手を、ケンカ別れなんかで失いたくない。失ってたまるものか。
【おれはちゃんとここにいるよ】
送ると、しばらく返事が途絶えてから、【うん……】とだけ言葉が返ってきた。
文字だけで誰かと心を通わせるのは、決して簡単なことじゃない。相手の表情が見えないし、声色だって判別できない。おれたちはそういう危うい関係のもとに成り立っている“仲良し”なのだ。彼女の歯切れの悪い返答を前にして、おれはそんな認識を新たにした。
控えめな口調で[ゆう]が尋ねてきた。
【それでその、クリスマス会には……】
【まだ決めてないんだ。回答期限まではまだ時間があるから、ゆっくり悩むよ】
【そっか。よかった】
ほっと息を漏らす顔文字が添付された。顔文字を使うようになったら、いつもの正常な[ゆう]に戻ったことの証。あの子の見せる表情は精神状態のバロメーターでもある。
ふと思い立ったことを、おれはメッセージの返信欄に打ち込んでみた。
【あのさ。二十五日って暇?】
【暇だけど……】
【その、もしよかったらでいいんだけど。……会ってみないか、おれたち】
ふたたび[ゆう]からの返信は途絶えた。それは、折からの風邪で熱暴走しかけのおれの頭に、冷静さを取り戻すに十分な長さの沈黙だった。
ああ、とんでもない文面を送ってしまった。これじゃまるでナンパみたいだ……。ひとしきり布団の中で後悔にまみれながら、それでも間違ったことはしていないと必死に自分の正当化に励んだ。
クリスマス会が開かれるのは二十四日だから、二十五日には影響がない。あの子がクリスマス会のことをそんなに羨み、寂しがっているなら、誰にも誘いの声をかけられないあの子のもとへ、おれ自身が行けばいいんだ。そうすれば、もう[ゆう]が妬ましい思いを抱える必然性もなくなる。それにおれも、こうしてやり取りを交わす相手の顔がまったく知れないままでいるのは不気味だし、会って[ゆう]が本物の人間なのだということを確かめてみたかった。
お互いにとって不利益はないはずなのだ。
たとえ、その二十五日が、おれたちが“仲良し”でいられる期限だとしても。
【……いいよ】
[ゆう]はその五文字を送り返してくるのに十分もの時間を費やした。勇気が必要なのはお互い様だ、おれはその遅さを責めたりはしない。ただでさえ熱のある身体がいっそう温まって、すぐに返事を認めた。
【じゃあ、そうしよう】
【何するの?】
【それはまだ考えてない】
【普通に会うだけだと、わたしも優も黙ったまんまになっちゃいそうだけど……】
【あり得るな。お互い、人見知りっぽいところあるもんな】
【何もしゃべれなかったらどうしよう。わたし、自信ないよ】
【自信ないのはおれも同じだよ】
何それ、と彼女は笑ってくれた。
何気ない“仲良し”のやり取りが手の中に戻ってきた。たったそれだけのことが、いまは風邪薬よりも強力におれの体調を回復させてくれそうに思えて、おれは布団のなかでそっと身体を丸めたっけ。




