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麻布十番高校は進学校だ。いきおい、生徒の学習意欲は総じて高く、普段は日々の課題や宿題を放り出して遊んでいるような人でも試験直前にもなると血相を変える。まさに今日、期末試験の一週間前に突入したクラスの空気は見事に一変して、おれはまだ、その変化に馴染みきれずに取り残されていた。
八丈島にいた頃、おれの成績はクラスでも上位の方だった。それが今では全体の半分以下。上位集団の集まる学校に進学するというのは、こういう熾烈な学力競争のなかへ否応なしに巻き込まれ、比べられることを意味する。
“勉強ができる”っていうのが、以前はおれの唯一のアイデンティティだったっけな。
自習の時間にもなると黙々と問題集に取り組み、板書やノートのメモを見返すクラスメートたちの姿を横目にするたび、おれはいつも冷たい色の吐息を飲み込んだ。CORDELⅰAの一件で仲良くなった浜崎や柴井も、ひとたび勉強モードに切り替えてしまえば眼前の課題に夢中になる。
あんな鮮やかな切り替え、おれには真似できそうもなかった。現におれの指は今もスマホに伸びていた。
【そんな時期になったねぇ】
画面の向こうで[ゆう]が呑気に答えた。同い年のくせに、まるで他人事と言わんばかりの口調だった。
【これが終わればクリスマス、って感じで自分に発破かけて頑張ってるんだろうけどさ。そんな手段、クリスマスに何も待ち受けてないおれには使いようがないじゃん】
ついつい、隣にいる人に話しかけているような調子で愚痴を垂れてしまう。あながち思い付きを口にしたわけではなかった。例えば浜崎なんて、クリスマスイブの夜に六本木のシアターでCORDELⅰAがライブをするのだそうで、「それまでは勉強に打ち込むんだ」なんて誇らしげに語っていた。
【まあねー】
おれの嘆きをいたく雑に受け流した[ゆう]は、おれが抗議する前に【そうそうそれでさー】などと話題を変えてしまった。
気まぐれな彼女のことだ。もう、慣れっこ。
ひとりだけスマホをいじっているままではいたたまれなくて、仕方なく地学の資料集に目を落とした。高校に上がっていきなり物理、化学、生物、地学の四つに分科してしまった理科の教材。たまたま開いたページの中央から、六角形をした雪の結晶の写真がおれを睨み返してきた。
仲のいい人ができたところで、それでおれの放課後が埋まるわけじゃない。帰りに寄り道をする先が増えることもなかったし、柴井は部活仲間とばかり登下校していたし、浜崎は最寄りの六本木駅まで地下鉄で通っているから、帰り道を一緒に歩くとしてもせいぜい数百メートルが関の山だった。
つまるところ、夕方以降のおれが孤独であることに変わりはなかった。
幸い今は試験勉強という明確な行動の指針がある。おれにとって勉強は好きこのんで励むものでも、試験に急かされて取り組むものでもなくて、退屈で寂しい既存の日常から逃げ出すためにあるようなものだった。
それでもやっぱり、飽きるときには飽きてしまう。
「ふぁ……」
午後九時を回ったあたりで、唇を引き裂く勢いのあくびが口をついた。問題集から目を上げて、スマホを見た。[ゆう]からのメッセージの着信はなかった。
時間が時間だけに、風呂にでも入っているのかな。
スマホのロックを解除して、送ったメッセージに既読のサインがついていないのを確かめながら、どこか遠くで暮らしている彼女のことを思った。この一方的に待たされているだけの時間が、おれは不思議と嫌いではなかった。その空白時間の向こうに[ゆう]の生活様式が透けて窺えるようで、彼女が人間のふりをした人工知能の類いではないことに安心するからかもしれなかった。
彼女のことを、もっと知ってみたい。
もっと仲良くなってみたい。
口の中が湧いた欲で潤うたびに、出会った時の[ゆう]の言葉が思い出された。“二十五日までの間”仲良くしてくださいと、彼女は最初に言っていたっけな。
考えてみると今まで一度も不思議に思ってこなかった。なぜ、期限があるのだろう。
その日付には何の意味があるのだろう。
[ゆう]がその真意を口にしたことは一度もなかったはずだった。
何気なく思い立って、[ゆう]のアイコンを押した。タイムラインに彼女の投稿してきたメッセージや写真の一覧が、ずらっと縦並びに表示された。
そういえば[ゆう]のタイムライン、見たことなかったな。その程度の動機だった。[ゆう]とのやり取りはメッセージ機能で完結していたし、そこから入ってくる彼女の情報は膨大で、おれとしてはタイムラインの投稿を確認する意義が特に存在してこなかったのだ。
意外にも、投稿されているのは文字ばかりで、それも趣味の音楽やイラストに関するものだらけだった。CORDELⅰAの新曲のことにも触れている。投稿頻度はせいぜい週に一回程度のようだった。わたしなんか普段は何もつぶやいていません──。いつかの[ゆう]の自己紹介が胸をよぎった。
[ゆう]は趣味用のアカウントだったのかな。現実世界向けのアカウントは別に用意されているのだろうか。……深い考えもなく過去の投稿を漁っていたおれは、ふと、一枚の写真を前にしてスクロールを止めていた。
一枚だけ、写真があった。
どこかのベンチを写したものだった。背後には銅像や、階数の大きなマンションが建ち並んでいた。
東京の景色のようにも見える。いや、それはおれが東京以外の都会を見たことがないからか──。そんなことよりもおれの意識は、写真に添えて投稿された一言の方に注がれていた。
【あの人は元気かな】
他の投稿とは明らかに空気の違う、どこかしおれた風情の言葉。おれの目はそこから剥がれてくれなくなった。
これって、もしかして。
[ゆう]には好きな人でもいるんだろうか?
なんだ。仲のいい人はいないって語っていたけれど、あの子は現実世界でもしっかり他人のことを好いているんだ。またひとつ新たに[ゆう]の人間らしい部分を見つけた気になって、安心するやら、ちょっぴり寂しいやらで、おれは深呼吸をした。いたく浅い深呼吸になった。
投稿の日付は十一月。おれと出会う前のもの。ということは“あの人”の中身は少なくとも、おれではない。
“あの人”も薄情だな、[ゆう]のことをひとりぼっちのままにしておくだなんて。……その一瞬、胸を掠めた感情はどこか嫉妬にも似ていて、おれは頭を振ってそれを追い出した。
東京には一三〇〇万人もの人間が住んでいるという。日本の全人口の実に一割が、国内で三番目に面積の小さな都道府県に集中している。歪な、けれど必然の産物とも呼べる人口過密状態が、この狭くて大きな首都を包み込んでいる。
それなのに、おれや[ゆう]のような、ひとりぼっちの人間がいる。
おれのように誰のことも好けない人もいれば、[ゆう]のように好いた誰かへ想いが届かない人もいる。
手の届く範囲に数えきれないほどの人が生きているのに、どうしておれたちは孤独なんだろう。どうしてこんなに寂しさに苛まれているのだろう。それは自分自身のせいなのか、それとも周囲のせいなのか。誰も教えてくれることはない。
おれはいつまでこのままなのかな。実体のない[ゆう]との期限付きの友情に支えられながら、いつまでこの孤独をやり過ごしていられるだろうか。
……そんなことばかり思いふけっていたせいで、その夜は、落ち着いて眠れなかった。




