表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凍京愛徒  作者: 蒼原悠
15/16

15





 コートを脱いだおかげで、凍てつく空気がじかに身体に突き刺さりはじめた。手袋越しの手はまだいい。首回りが“冷たい”を通り越して“痛い”。この痛みが全身に回ってしまう前に、なんとしても侑莉を安全圏に逃がさなければならない。目の前で死なせるわけにはいかない。ともすれば飛びそうになる意識を、その危機感でどうにか覚醒させ続けた。

 頭も痛い。

 目の奥に圧迫感がある。

 侑莉も侑莉で頭痛に苦しんでいたはずだった。すっかり黙りこくってしまった隣の侑莉を一瞥して、紫色の唇をこじ開けた。漏れた息が膨らんで、たちまち白い煙を描いた。

「頭、痛くない?」

「痛いよ」

 かすれた声で侑莉は答えた。「痛いし、苦しいよ」

「あと三十分だけでいいんだ。我慢してよ」

「自信……持てないよ」

「だったらおれが急ぐから」

 点々と並ぶ足跡の壁を踏み壊して道を作りながら、答えた。急ぎたいのはおれ自身のためでもあった。スマホのライトを頼りに足元を確認しつつ、侑莉の背中に力をかけると。

「……なんで私のこと、こんなに大事に扱うの」

 ぼそっと侑莉がつぶやいた。「意味分かんないよ。私、優大のこと、捨てようとしてたんだよ。それなのに」

「この一ヶ月、たくさんのものを侑莉にもらったんだ」

 答える代わりにおれは侑莉を遮った。うなだれていた侑莉の顎が、上がった。

「初めて声をかけてくれたあの日、正直言っておれ、面食らった。どうして侑莉がおれなんかと“仲良し”になろうとしてくれたのかさっぱり分からなかった。でも今なら分かるような気がするんだよ。……侑莉はさ、いつかもらった手紙に書いてあったこと、実践しようとしてくれていたんじゃないのか」

 それまで頑なに閉ざしていたふたつの(まぶた)を、その一瞬、侑莉は見開いた。その所作を見ておれは核心を掴んだ。

 【今度はわたしが優大のそばにいたい】【優大のことをひとりぼっちにはさせないから】──。つい昨日、何気ない気持ちで封筒の底から発掘した紙には、その二文が書き残しのように強い筆跡で刻まれていた。侑莉からじかに答えを聞いたわけではない。けれどもその言葉こそがきっと、十二月一日に侑莉がおれに声をかけてくれた動機なのだと思った。見知らぬ人ばかりの街の中でひとりぼっちで嘆いていたおれのことを、きっと侑莉は【ひとりぼっちにはさせない】でくれようとしていたのだ。あるいはもしかすると、四年越しで動機が変わっているのかもしれない。だとしたらなおさら生き延びてもらって、答えを教えてもらわねばならなかった。

 それは決して、願ってはならないような願望ではないはずなのだ。

「侑莉……ううん、[ゆう]。ゆうのおかげでおれ、この一ヶ月間をそれなりに幸せに生きられた。ゆうがいなけりゃ、クラスメートと話せるようになることもなかったし、イブにクリスマス会に参加することもなかった。……何より、」

 そこでおれは言葉を切った。「こうしてまた、ゆうと再会することもなかったんだ」

「……私なんかと再会したって」

「嬉しいよ。嬉しいに決まってるだろ」

 間髪は入れなかった。

 肩越しに侑莉が息を飲んだ。

 見渡す限りの雪、雪、雪。手元の光はわずかで、暗闇の世界を照らす光源は他にない。侑莉がどんな表情をしているのか、苦しんでいるのか、痛みをこらえているのか、おれには見えない。

 だから今のおれにできることは、せいいっぱいの気持ちを侑莉に伝えて、前に向かって歩く動機にしてもらうことだけだった。

 侑莉がいなかったら、いなくなったら、おれはこの広い街の真ん中でひとりぼっちだ。侑莉のおかげでどれだけ救われたか分からないし、小学校の卒業式の時におれのあげた恩なんか、とっくの昔に挽回されているとさえ思う。だから今度はおれが侑莉の役に立つ番。侑莉の悲しみや痛みに耳を傾けて、今度こそ本物の“優しさ”で、その苦痛を和らげてあげたい。きっと、それが“仲良し”の契りを結んだおれの、最後に果たすべき役目なのだ。

 いよいよ唇が凍り付いてきた。枯れかけの喉を絞り、寒空に息と声を吐いた。

「侑莉」

「……うん」

「正直、初めは不安で仕方なかったけどさ。こうして顔を見て、声を聞けて、おれ、安心したよ」

「…………」

「“仲良し”の相手が侑莉で、よかった」

 ふらふらと危なっかしい足取りで歩いていた侑莉が、不意に立ち止まった。

 かと思うと、おれの着せてあげたコートの袖を目元に押し付けて、ぐいと力強く拭った。すぐにそこへ降り積もって融けた白亜の雪が、小さかった染みをいっそう大きくしてしまった。

「……う、ぅ」

 侑莉は肩を震わせていた。

 やっと少しばかり、本心を見せてくれるようになったのかな。そうであることを祈りながら、前に進むように促した。そっと頭を撫でてあげると、ついに誤魔化すことすら諦めたのか、侑莉は声を上げてすすり泣き始めた。

 それでいい、と思った。

 涙には体温が乗っている。雪に埋もれ、電気の途絶えたこの街の中で、その涙は何よりも強く確かな温もりをもって、頬や足元の雪を融かしてくれる。そうしたらおれは誰にも負けない早さで、侑莉を病院へと連れて行こう。もう、壊れた身体の放つ痛みや苦しみと、ひとりぼっちで闘わせたりはしない。おれにはそうするだけの責務があると思った。おれと侑莉とは、百キロ超の海を飛び越えてふたたび出会い、“仲良し”の契りを結んだ仲なのだから。

 涙を流す侑莉の背中を(いたわ)りながら、足元の雪に(わだち)を描いて歩き続けた。不思議と痛みや苦しみが湧き出すことはなかった。コートなしでは耐えきれないはずの冷たい、寒い、凍える世界の中で、このままどこまでも隣り合って歩いて行けるような気がした。

 その道のりは、いつか粉雪の舞う中を隣り合って歩いた、あの小学校の卒業式の日の光景と重なって見えた。


 侑莉は時おり立ち止まって、道端に嘔吐した。頭痛やめまいに脳をやられ、ふらついて雪の中へ崩れ落ちそうになった。意識を失って人形のように倒れかかることもあった。

 それもこれもすべてOD(オーバードーズ)で自殺を図ったことの副作用だった。自殺しようと思った理由を、侑莉はあまり覚えていないと言った。ただ、漠然と虚無感が爆発的に心を包み込んで、実行に移してしまったのだと言った。中学で不登校を経験した侑莉は、何とか進学を果たした高校でも長期の不登校が続き、その過程で心療内科の治療も受けていたらしく、決行に用いた薬を入手できたのも病院にかかっていたからだった。

 救急搬送によって命こそ救われた侑莉だったが、すでに身体の中は多量の薬物によって修復不能に破壊されてしまっていた。要するに、生き残るにしてはやりすぎてしまったのだ。──侑莉はすでに担当医に余命を告げられていたのだという。長くて三ヶ月、短ければ一ヶ月が限度だろうと。

 その最短の余命が的中すれば、侑莉の命は十二月の末頃には無尽の冬空へ潰えることになっていた。

 十二月二十五日に再度の自殺を企てていたのは、本当は死にたかったからではなくて、病院のベッドの上で苦しみながら死ぬのが怖かったからだった。そのためには、クリスマスまでの間は院内できちんと養生して、自宅への一時帰宅が許される程度にまで回復しなければならなかった。しかしそれは侑莉にとって、外界との交流がほとんど完全に断絶してしまうことを意味した。

 そんな時に偶然、おれのアカウントを見つけた。中身がおれ──盛岡優大だということは、タイムラインに投稿していた内容から容易に推察することができた。

 孤独に喘いでいるおれの姿は見ていられなかったそうだ。とっさに小学校時代のことを思い返して、役に立ちたい、ひとりぼっちのままにさせたくないと考えた。お互い孤独の身ならば、一ヶ月程度の短い間であっても楽しく話ができるはず。そんな打算で、おれに声をかけた。正体を名乗らなかったのは、十二月二十五日が過ぎて侑莉がこの世を去った後、おれが喪失感で傷付きすぎることがないようにしたいという侑莉なりの配慮の結果だった。

 半分は自分のため、残り半分はおれのための“仲良し”でもあった。独りで泣いていたところを慰めてもらったこと、励ましてくれたことを、この四年間、一度も忘れたことはないと侑莉は言った。

「いつかまた、どこかで会えたら、伝えたかった。あの日からずっと優大のことが忘れられないって。ずっと、ずうっと、心の支えにしてたんだよ……って」

 想いの丈を白状してから、でも、と侑莉は逆接の接続詞で話を繋げてしまった。

「こんなことになっちゃった私のこと、今さら優大は受け入れてくれないだろうし、迷惑、かけちゃうって思って……。だから、素直な気持ち、言えなくて……っ」

 それこそが、赤羽家に現れたおれの前で侑莉がつっけんどんな態度を取った理由でもあったのだという。

 許して、ごめんなさいといって侑莉は泣いていた。上から目線で「許す」なんて口走るのは筋が違うと思って、おれも謝った。何もしてあげられなかったこと、苦しみを理解してあげられなかったこと、もっと早く寄り添ってあげられなかったこと。

 謝ったからといって時間が巻き戻るわけではない。侑莉が本当に死の運命(さだめ)から逃れられないのだとすれば、きっとここで侑莉が許してくれたとしても、おれはこの重たい後悔を一生涯にわたって引きずることになるだろうと思った。キリストの背負った十字架のように、おれの通った雪の上に(あやま)ちの軌跡を刻み続ける。

 それでも侑莉は、ううんと首を振って、おれの懺悔を受け入れてくれた。

 ひとりぼっちにしないでくれてありがとう。

 涙を拭って、そう言って、笑ってくれたのだ。


 足の感覚が寒さに奪われ、指先が(かじか)み、意識も徐々に朦朧としてきた頃、ようやく回転灯の光が近付いてきた。近付いてみると、自衛隊のジープだった。災害派遣の幕を掲げた車両の向こうで、隊員たちが雪の重みで半壊した古い家屋から人を助け出しているところだった。投光器の放つ強い光に目をやられて、おれも、侑莉も、今にも足元の雪へ倒れ込みそうだった。

 気付いた隊員の一人が駆け寄ってきてくれた。ぐったりとする侑莉の身体を預け、残された力を振り絞った。

「恵比寿赤十字病院に連れていってあげてください。この子、そこの患者なんです……!」

 侑莉の身体を抱き止めた隊員は力強くうなずいてくれた。投光器の目映い白色光を反射して、吹き荒ぶ粉雪が激しい銀色に明滅していた。轟音が足元をくぐり抜けて膨らんだ。風が、冷気が、おれの冷えた身体をしこたまに打ち据え、視界いっぱいに飛び交う華やかな冬の妖精をおれの網膜に焼き付けた──。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ