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「…………優大」
ドアの隙間から、おれの名前を呼ぶ声がした。
間違いない。おれのことを「優大」と呼ぶのは、おれの幼馴染み──赤羽侑莉をおいて他にはいなかった。足元の雪に反射したスマホの画面の光が、開いたドアの傍らに立つパジャマ姿の少女の左頬に、見覚えのある泣き黒子を浮かび上がらせる。おれは息を呑んでいた。
かつて小学校からの卒業を機に、おれの暮らす世界を旅立ち、そのまま行方知れずになっていた少女。
今は病院で療養の日々を送っている少女。
そして恐らく、この一ヶ月近くもの間、おれの話し相手になってくれた同い年の孤独な少女[ゆう]の、本当の姿。
「……侑莉」
久しぶりに、その名を呼んだ。声が震えていたのは寒さのせいだった。侑莉の肩も、声も、呼応するかのように微かに震えていた。
「いつから知ってたの」
口を開くのもそこそこに侑莉は核心に踏み込もうとしてきた。そんなこと気にしている場合じゃないだろ、病状は、容体は──。思うところのすべてをいったん封じてから、うつむいて、答えを考えた。
「侑莉が本州にいるってこと?」
「……ぜんぶ」
「いつからだろう。分かんないや」
いくぶん自信を欠いた物言いになってしまった。確信に変わった瞬間もなかったし、明確に分かったという瞬間があったわけでもなかったから。……そして、侑莉の口からそんな言葉が出てくるということは。
「やっぱり侑莉だったんだな。[ゆう]の中身」
侑莉は小さくうなずいた。
「じゃあ、苦しいとか痛いって言ってたのも」
「……それも見たんだ」
「見たよ。母さん経由で侑莉の親の電話番号も聞き出して、侑莉の今までのこと全部、教えてもらった」
うそ、とつぶやいたのは侑莉の方だった。おれの方がよっぽど、その二文字をつぶやいて雪の中へ吐き捨てたかった。
侑莉の服はどことなく汚れている。嗅覚を研ぎ澄ませれば、その身体からはわずかに胃液のような臭いが香る。目は虚ろに窪み、痩せ細り、瑞々しさの欠片もない白い手首が袖から覗いている。
本人の見てくれがこれでは疑いようもなかった。侑莉、お前は。
「……ODで自殺しようとしてたんだってな」
口にした瞬間、侑莉はまるでおれから目を背けるように、降り積もった雪へ視線を流してしまった。
健康被害が生じるほどの大量の薬物を、一度に摂取すること。それが、OD──過量服薬だ。麻酔薬や栄養剤、精神病の治療薬の中には、大量に服薬することで服用者の身体や脳に重大な影響を及ぼすものがある。万一、胃の洗浄のような処置が間に合って命を取り留めたとしても、破壊された内臓は戻ってこない。長期間にわたって嘔吐や頭痛のような症状に苦しめられる。そして問題はその原因だった。誤った薬の処方のような事故で引き起こされる場合もあるが、患者本人の意思で意図的に引き起こされる場合もあって、多くの場合それらの目的は自傷行為、あるいは……自殺なのだ。
侑莉は首を垂れたまま動かなかった。込み上げてくる症状を、じっと黙ってこらえているようでもあった。
「あのさ。……家の中、入ってもいいかな」
肌に刺さる寒さがいよいよ我慢の限界を越えてしまいそうで、尋ねた。侑莉はおれを見ないまま首を横へ振った。
「ダメ」
「なんでだよ」
「見られたくないから」
「何を……」
「薬とか、吐いたものとか、いろいろ」
侑莉の声色はうめくようだった。まさか、その“薬”って。最悪の想像をしたおれが息を噛み殺したことに、侑莉はすぐに気付いて口元を歪めた。
「治療の薬じゃないよ。たぶん、優大の想像してる通りのもの」
「侑莉……!」
「仕方ないじゃん」
ここに至って侑莉はやっと顔を上げた。その顔には隅々まで、手描きの笑みが刻み込まれていた。もしかすると違う表情をしているのかもしれなかったが、暗闇の中に立ち尽くしているおれには、それ以上の正確な顔色を伺うことは叶わなかった。
早く楽になりたいんだもん、と彼女は独り言ちた。
「ツイートしてるの見たんだよね。電気、止まっちゃって、暖房も動かせなくて、さっきから症状どんどん悪くなってるから……。苦しいし、頭も痛いし、だけどお父さんもお母さんも帰ってこないし……。わたしの身体、もう、もたないよ。だから死に直すの。単純な理屈でしょ」
「なんでだよ」
おれは侑莉の言葉を遮ってしまった。「なんで自殺なんて図ろうとしたんだよ! しかもせっかくこうして生き延びたのに、その命を投げ捨てるような真似……っ」
侑莉の母親からは自殺の経緯も聞いていた。大量の薬を口に含み、侑莉が最初の自殺を企てたのは、おれに声をかけてくる一ヶ月前、十一月の初旬のことだったという。すぐに病院に救急搬送されて処置が行われたものの、意識の回復には三日もの期間を要したそうだ。それほど侑莉の容態は重篤だった。
「だって失敗したんだよ。失敗したら、再チャレンジするものでしょ」
侑莉の答える声は至って淡々としていた。「ごめんね。こんなことにならなければ、本当は二十五日に決行するつもりだったんだ。もともとクリスマスに合わせて外出許可を出してもらって、家に戻ってくる予定になってたから」
「……だから、“仲良し”の期限が二十五日だったのか」
「二十五日に会わないかって提案された時は、ちょっと慌てちゃった。会うことで決心が揺らいだら困るなって、本気で悩んだんだよ」
でも、と侑莉は続ける。「思ったより揺らいでないや。今も」
寒さのせいで情緒が壊れかけているのだろうか。なんだか今にも不安が怒りに変わってしまいそうだった。侑莉の話がすべて真実なら、侑莉は二十五日に死に直すのを心に決めた上で、おれに声をかけて“仲良し”の契りを交わしたことになる。二十五日を過ぎて取り残されたおれが、どれほどの孤独感に苛まれるのか、侑莉には分かっていたはずだ。分かっていたのに、実行したのだ。
そんなふざけた話があってたまるかと思った。
おれはただ[ゆう]と仲良くなりたかっただけなんだ。命を絶つ侑莉の介錯をしたかったわけじゃない──。
「……もう、いいかな」
侑莉はドアを閉めて家の中へ閉じこもろうとする。その細い手を、おれはとっさに掴んだ。そうはさせない!
「やめてっ……」
振りほどこうと侑莉が腕を回す。必死にしがみつきながら、迫った。
「今すぐどっちか選んで。病院に戻るか、おれを中に入れるか」
「どっちもやだ」
「選んで!」
「嫌だ!」
侑莉が叫んだ。その声にかすかな潤い──涙の響きを感じて、思わず怯んでしまった。侑莉は尚も言葉を叩きつけてきた。
「送ったメッセージにも書いてたじゃん! お願い、私のことなんてもう忘れてっ! ひとりで死なせてよっ」
「ふざけんな! そんな簡単に忘れられるもんじゃないって分かってるくせに!」
おれも怒鳴り返した。握った腕を介して繋がる侑莉の身体に、びく、と鋭い振動が走った。
冗談じゃない。一ヶ月近くも“仲良し”だったんだ。お互いの秘密、趣味、好きなこと、幼馴染みだった頃よりも遥かにたくさん語り合ったじゃないか。寂しい思いを打ち明けたことだってあったし、ケンカだってしたじゃないか。それだけ深く心を結んだ相手のこと、急に忘れろと言われたって忘れられるわけがない。失った存在の虚は埋められない。侑莉と違っておれはこのまま、どうにもならない空っぽの心を抱えて残酷な世界を生きていくんだ。
それでも死ぬ気ならそれでいい。そうだとしても、納得できるだけの説明と説得を受け取るまで、おれにはこの手を絶対に離すことができない。たとえ雪の冷気で壊死しようとも。
「分かってるよ! 分かってるけどっ!」
「だったらおとなしく……っ」
おれたちはその場でしばらく言い合いと腕ずくの応酬を続けた。ここで離したら、侑莉は死ぬ。雪の中に融けて、消えて、二度と戻っては来ない。その恐怖に強く駆り立てられた。けれども侑莉の力は予想外に強くて、吹雪く嵐にやられたおれの身体からは、刻一刻と抵抗の力が奪われてゆこうとしていた。侑莉の腕の、服の、全身を包み込むオーラの放つ死の匂いが、次第におれの身体をも飲み込んでゆく。
もう、駄目か……?
諦めの感情がふたたび高まりかけた瞬間。背後から、金属の押し潰されるような激しい音が響き渡った。
次いで、重たい質量の物体が地面に崩れ落ちる音が折り重なる。おれも侑莉も同時にぴたりと動きを止めていた。
あれは、もしや……。
顔の皮膚が凍り付きそうに青ざめた。雪の重みで何かが倒壊したのだ。音の大きさからして恐らく倉庫か、物置か。背後の家の庭か何かにあったのだろう。
そして、侑莉の受けたショックはおれのそれより大きかったようだった。
轟いた音に目を丸くした侑莉の手から、一瞬、力が抜けた。
好機だった。おれは一気に力を込め、侑莉の身体をドアから引きずり出した。支えを失っておれの胸元に倒れ込んだ侑莉は、たちまち声にならない悲鳴を上げた。
「…………っ!」
「これで観念しただろ。行こう、侑莉」
雪の堆積した赤羽家の屋根を見上げ、おれはきっぱりと告げた。すでに電柱だって倒れ込んでいるのだ。あの屋根も、いつまで積雪に耐えられるか分からない。薬の服用で死ぬならともかく、倒壊した瓦礫の下敷きになって圧死するのは侑莉だって御免のはずだった。
侑莉は何の反応も示さない。
迷わず、羽織っていたコートを脱いで、侑莉に着せた。彼女の小さな肩がまた少し震えた。
病院までたどり着く必要はない。どこかで消防隊か警察か、来ているのなら自衛隊でもいい、とにかく救助してくれそうな人に引き渡す。さもなくば国道までは連れて行こう。目標を設定したおれは侑莉の肩をそっと後ろから押して、目の前の雪を蹴り潰した。
時刻は午後八時。
雪はまだ、激しい勢いで空を舞い降りてきていた。




