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凍京愛徒  作者: 蒼原悠
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 [ゆう]がなぜ、二十五日という期限をつけておれに交遊を迫ってきたのか、その理由をおれはまだ知らない。たぶん、本人の口から聞かない限り、いつまで経っても分からないままなのだろうと思っていた。

 けれど今、二十五日という期限の意味は分かった気がした。

 それはおそらく、[ゆう]の命の期限なのだ。

 すぐに返信を打った。相変わらず、既読のサインさえ点灯しない。おれの言葉は丸ごと黙殺する気でいるようだった。

「柴井」

 ぼんやりとスマホゲームをいじくっていた柴井に声をかけた。何だよ、と応じた柴井の声はくたびれ切っていた。

「風邪の看病してくれたとき、話してたよね。中学の時にいた不登校のクラスメートのこと」

「赤羽のことか」

「家の場所、覚えてる?」

 柴井は瞳にクエスチョンマークを浮かべながらも、地図アプリを開いて場所を示してくれた。おれの家から少しばかり北、低層の住宅街のど真ん中。ちょっとした寄り道感覚で歩いていけるほどの距離だった。むろん、普段なら。

「待てよ。今からそこまで行く気なのか」

 柴井は早々におれの意図を読み解いてしまった。「だいたいお前、赤羽のことなんて……」

「幼馴染みなんだ、その子」

 今は、それ以上の説明のしようがなかった。返事を待つことなくおれは急いで人波を掻き分け、出入口の方へ向かった。「おい! 盛岡!」「どこ行くんだよ!」──飛んできたクラスメートたちの声が背中を叩いた。

 気を遣わせてしまったことへの罪悪感で胸が締め付けられそうだった。

 ごめん、と謝るのは内心だけにとどめた。おれは今のみんなと同じかそれ以上に、幼馴染みに気を遣いたい。遣わせてほしいんだ。

 コートの胸元を握りしめ、自動ドアをくぐった。たちまち暴風雨のような勢いで雪が吹き付けてきた。すれ違った消防隊の人が何事か叫んでいたが、フードの耳元を覆うファーのせいで聴こえなかったことにした。

 停電の余波で六本木の街は闇に沈んでいた。高速道路の下に列をなす乗用車のヘッドライトと、非常用電源の備わっている六本木タイムズスクエアの照明だけが、降り積もる雪の世界を煌々と照らしていた。大通りを進むうちはそれで十分、間に合いそうだった。ライトは必要ではない。

 急げ、[ゆう]の告げた別れが本物になってしまう前に──。

 足首の高さまで積もった歩道の雪を蹴り飛ばし、おれは西の方をめがけて走り出した。




 [ゆう]と仲良しの契りを結んだこの二十四日間、おれの日常は目に見えて変わった。

 話し相手ができた。

 ひとりの子の趣味や性格や、為人(ひととなり)を構成する無数の情報を少しでも多く知りたくて、夢中になって互いの話を交わした。

 何気ない話題を切り出す先が、愚痴を聞いてもらう先があった。

 それらはおれの長い半生の中で、侑莉がクラスメートだった間さえ、今まで一度も存在してこなかった存在だった。

 とは言え、[ゆう]との交流は画面越し。肉声も表情も読み取れず、肌の温もりや質感さえ知らない。そんな“仲良し”のことを、“友達”や“恋人”のような既存の概念に基づく呼び名で呼んでもいいものか、おれには長いこと分からなかった。

 おれにとって[ゆう]は、[ゆう]でしかなかった。世界でたった一人の、かけがえのない存在。友達でも、恋人でも、家族でも、隣人や先輩や後輩でも置き換えることができない。

 そのかけがえのない存在に、この一ヶ月の間、おれは受け取った価値を還元することができていただろうか。

 ……否。たぶん、できていなかったのだ。

 [ゆう]は自分の抱える病のことを話してくれなかった。それはもしかすると[ゆう]のせいではなく、彼女にそこまでの信用や信頼を抱かせてあげることのできなかったおれのせいかもしれない。本当は他でもない[ゆう]自身が、苦しみや、痛みや、悩みや不安を打ち明ける先を探し求めていたかもしれないのに。

 おれは何もしてあげられてはいない。

 おればかりが一方的に、孤独の解消に[ゆう]を費やしてしまってきたのだ。


 国道では除雪作業が行われていた。店やオフィスの前に繰り出してきた人々が、除雪用のスコップや(ほうき)、熊手を手に、目の前の歩道に降り積もった雪を懸命に取り除いていた。むろん堆積している雪の厚みや硬さは尋常ではなく、手作業での除雪など焼け石に水だったが、積もった雪のほとんどは行き交う警察や消防隊の足で踏み固められていたから、国道沿いの歩道は比較的安全に歩くことができた。

 問題は細い街路に入った先だった。例の停電で街は漆黒色の闇に沈み、雪の積もった路面や屋根の上だけがおぼろに白っぽく浮かび上がっていた。その高さは、膝丈よりも上の六十センチ超。ところどころ人の歩いた跡があるが、それ以外の部分を歩くのは困難を極めそうだった。

 行くしかない。

 ズボンが濡れて使い物にならなくなるのを覚悟で、踏み込んだ。手元の地図アプリには、GPSで計測された自分の現在位置と身体の方向が表示されている。今はそれだけが頼みの綱だった。

 時おり、スマホや懐中電灯の光で足元を照らしながら、国道の方を目指して歩いてくる人の姿があった。誰も、何もしゃべらず、ざくざくと雪を踏みしめる音が単調に響いた。聴こえる音といったらそのくらいのもので、あたりには雪とともに沈黙が降っていた。雪は音を吸収する。六十センチの積雪に覆われた東京の街は、不気味なほどに静まり返っていた。

 遠くの方で回転灯の赤い光が瞬いていた。路地を覗くと、古めかしい家の周りに消防隊が群がり、救助作業が行われていた。不自然なほどに、屋根の位置が低い。雪の重みで潰されたんだ──。血の気の引くような思いで、おれは先を急いだ。雪の吸音能力はバカにできたものではなく、数十メートル向こうで救助に携わる人々の声さえ聞き取りづらかった。

 家屋や物置、ガレージ、トタンの屋根なんかが、あちこちで崩落したり大きく傾斜していた。漏電で火災が起きることもあるという。自分が災いに巻き込まれてしまう前に、一刻も早く目的地について引き返したかった。

 道の真ん中で放棄されたのであろう乗用車が、雪のなかに半分ほど埋まったまま止まっていた。その屋根にも雪が(うずたか)く積まれていたが、中の人はとっくに雪を押し退けて車外へ脱出していた。直前まで車の走行していたのであろう道路の一部のみ、いくらか雪の(かさ)が低くなっていて、思わず車の持ち主に感謝したくなった。しかしその場に突っ立っている暇もなく、また雪を掻き分け、払って歩き始めた。走ってゆけるような状況でなかったことが、かえっておれに冷静な思考を促すだけの時間のゆとりを与えてくれていた。

 そうやって何十分の時間が経っただろう。普段の数倍もの時間をかけ、雪の彼方にあって見えない駅前のタイムズスクエアから自宅の近くまで歩いてくると、やがて地図上に設定した赤羽家のアイコンが、おれの視界の右側に現れた。


 おれは息を飲むのを避けられなかった。赤羽家の建物には、電柱が倒れ込んでいたのだ。

 下敷きになったブロックの塀が部分的に崩落している。見渡す限りの電柱がみんな倒壊しているのを見ると、どうも遠くの方で倒れた電柱が電線を引っ張って、このあたりの電柱をみんな巻き込んでしまったらしい。けれども今は、その原因を悠長に特定している場合ではなかった。

 電柱の先端は家の二階に突っ込み、窓や壁の一部を引き裂いていた。

 そこに光はない。

 本当にここに、侑莉がいるのか。不安になったおれはスマホの画面から地図アプリを払いのけ、[ゆう]にメッセージを送った。

【来た】

 寒さと混乱で、他に文面が思い付かなかった。本当は文面なんてどうでもよかったのだ。送信した瞬間、見上げた二階の窓にわずかな光が反射したのを、見つけられたから。

「ゆう!」

 覚悟を決め、叫んだ。「来たよ!」

 どうせ、この雪だ。どこの家も避難して空っぽか、雨戸を閉めて(こも)っている。そうでなければ大声を出す勇気など出るはずもなかった。

「そこにいるんだよな! いるなら、そのドアを開けて!」

 叫びながら玄関の雪をどうにか乗り越え、一分かけてドアの前に立った。今にも凍えそうだった。靴の中にも服の中にも雪が入り込んで、そこから放たれた冷気に全身が侵されつつあった。雪山で眠ると死ぬっていうのはこういうことなんだなと、つくづく身に染みて理解した。コートを脱いでしまったら三十分と経たずに凍傷を引き起こしてしまいそうなほどの寒さ、冷たさ。おれにとって周囲の雪は暴力のかたまりだった。

 家の中からもスマホにも、応答がない。

 駄目か。

 おれじゃ、駄目かな。

 こんこんと湧き出した諦めの感情が、降り積もる雪のようなペースで心に貯まってゆく。それでもおれは耐えた。寒さと諦観の波を必死に耐えて、その場に立ち続けること……三分。


 ついに、ドアが開いた。






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